イリーナ・ハーデン
ラシア大陸最西端、アゼル王国王都――王立学園の講堂。
高くそびえるアーチ型の天井は、薄い青に塗られ、天井画には西方美術の影響を受けた壮麗な模様が描かれている。
光の加減で、天使の羽ばたきのように見える装飾が微かに揺れ、生徒たちの心を穏やかに揺らした。
文武両道と名高く、大陸二位、世界三位の規模を誇る学園都市は、大小問わず様々な年代の生徒でにぎわっていた。
高い天井に反響する教師の声は荘厳でありながら単調で、生徒たちの眠気を誘う。
→ガタッッッ!!!
どこからか響く椅子の音も、もはや日常の一部だった。
窓際の席に座る少女、イリーナ・ハーデンはノートに視線を落としていた。
白銀の髪が陽光を反射してきらめき、薄い影を描く。その瞳は遠く、窓の外の中庭を眺めているようで、現実の教室に馴染めていない。
前世の記憶――地球の名高い大学院で知識を振るった日々。
転生者であることは秘密だが、胸の奥にはいまだにその記憶が焼き付いている。
⸻
アゼル王都学園には「カーストピラミッド」が存在する。
廊下を歩けば、誰が上で誰が下か、誰に従うべきか……。
目に見えない階層が空気を支配する。
最上層は騎士志望たち。磨き抜かれた鎧の装飾や、盾や剣の手入れ具合もまた彼らの階級を示す。
鍛え抜かれた体躯、見事な技、十代とは思えぬ老成した瞳。廊下を歩けば、石畳に響く足音さえも威厳を帯びる。
しかし、旅師志望や聖騎士志望、さらに上位の賢者志望には頭が上がらない。
――この世界で、スポーツに優れる者はあくまで小規模な注目を集めるだけだ。
ちなみにアゼル王国王都では、奇跡的にオリンピックのような競技大会が開催されることもある。
競技組は一時的にヒーロー扱いされるが、この世界には、彼らの輝きさえ呑み込む見えないカラクリが存在するのだった。
日本でもアメリカでも羨望の的だった身体能力も、ここでは大きな評価にはつながらない。
次の層はルックスグループ。
髪の艶や服の裁縫の細かさ、装飾品の選び方に気を使い、異性の目を意識して歩く。
その隣には“面白担当”。場を盛り上げ、時折、庭園のステージで演技を見せる者たち。恐らくメンタルは1番、強い。
そして「優秀組」。知識や計算、古代語や西方美術の解釈などで抜きんでている者たち。
だが、五波動を操れなければ、真の意味で尊敬は得られない。
イリーナ・ハーデンは、この「優秀組」に属する。
前世で培った知識は確かに役立つ。古代語の読解、幾何学的構造解析、天文観測の計算式、さらには西方美術の細部に至るまで。
だが、ここでの真の強さは、五波動――芯・魂・根・端・然――をどれだけ扱えるかにかかっている。
憧れは同い年でありながら聖騎士志望のアイシェ・ハニバ。
ランドン聖騎士団長の令嬢であり、堂々としていて見栄を張らず、学園のカリスマそのもの。
王侯騎士団は文字通り、王家や領主の直轄領を守る精鋭部隊で、各地域に分散して忠誠を誓っている。
しかし、その守備範囲は領地単位に限られ、局地的な力に留まるのが現実だ。
一方、紅の大賢者の指揮下にあるランドン聖騎士団は、アゼル王都を拠点に全世界全土を守護する広域任務を担う。
団員たちは単なる武力にとどまらず、戦略眼や統率力にも優れ、王侯騎士団をはるかに上回る規模と実力を誇る。
その団長の令嬢、アイシェ・ハニバ。
父、ランドン聖騎士団長の名声は大地全土に轟くが、その評判にまったく引けを取らない実力を持つ少女である。
武の腕も、判断力も、戦略眼も、学園随一とされる騎士志望たちを容易に凌駕する。
王都だけでなく、遠方の噂や伝承にまで彼女の名は広がり、誰もがその存在に畏敬を抱く。
イリーナにとって、彼女の強さは単なる憧れではなく、「届かない理想」として胸に刻まれるものだった。
学園の廊下を歩くその姿は、まさに父の影に肩を並べるかのような圧倒的な存在感を放っている。
図書館の端にこもる優秀組の私には、正直、縁のない存在だ。
放課後──
石造りの図書館に足を踏み入れる。
重厚な扉には、西方美術風の植物文様が浅く浮き彫りになっており、押すたびに静寂の中に淡い木の香りと古書の匂いが混ざった落ち着いた空気が広がる。
室内は高い天井で、アーチ状の梁が優雅に空間を支える。
窓から差し込む午後の光は、幾何学模様のステンドガラスを通り、床に色彩豊かな影を落とす。
書棚は天井まで届き、背表紙は経年でわずかに色褪せ、手作り感のある装丁や繊細な細工が目を引く。
イリーナは書棚の間を歩きながら、指先で背表紙をなぞった。
(今日こそ……何か、手がかりを)
彼女の目当ては、英雄の神器――ソード、ペンタ、ワンズ、カップ。旅師の枠組みに準え、神の証明にもつながる存在。
地球で言えば、竜宮城を探すようなものだ。手が届くはずもない存在に、胸がわずかに高鳴る。
ふと、高い書棚の向こうに、黒髪で彫りの深い顔立ちの少女の影を感じる。
(……疲れてるのかな。幻覚……?)
思わず息を呑む。
「ねぇ、君、何読んでるの?」
声がかかり、顔を上げると、そこに立っていたのは幻覚のような少女――アイシェ・ハニバ。
だが、その瞳は、静かに好奇心を示すだけだった。
「えっ……えっと、これは……」
言葉が詰まる。胸の鼓動が耳まで届きそうだった。
「あなたは、もしかして……!」
「そう。私はランドン・ハニバ。よろしくね!」
イリーナは咄嗟に頭を下げる。
「よろしくお願いします!!……ん? それはお父様の名前ですよね……」
「その通り。君、私のこと知ってるんだ」
「アイシェ・ハニバさん。この学園で知らない人はいません」
心臓が跳ねる。推しが目の前に現れたファンの気持ちは、きっとこんなものだろう。
「君、可愛い見た目して、こんな難しい本を読むんだ。興味深いな」
「か、可愛い……?」
「で、名前は?」
「イ、イリーナ・ハーデンです」
「イリーナ!じゃあリナでいい?」
「……?! い、いえ、光栄です!」
耳や頬まで真っ赤になるのを感じながら、イリーナは心の奥で何かがはじける音を聞いた。
行動できず、いつも「明日やろう」と思っていた自分。
しかし今――その明日は、目の前にやってきたのだ。
「よし、リナ!お願いがあるんだ」
「お願い?」
「私の家庭教師になって!!」
はい来ました――特大イベント。推しからの直々の依頼。断る理由はない。
「はい!喜んで!!四六時中、何時でもどうぞ!」
図書館の冷んやりとした空気に、二人の期待と緊張がほんのわずかに揺れる。
古書と西方美術の静謐な空間は、二人の小さな冒険の舞台となった。
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