第2話 ♡。
気付くと寝落ちていたようだ。窓はカーテンが閉められているが、隙間の外は薄明るい。しかし魔界、朝から夕までいつも薄明るいので時刻は判然としない。そのために腕時計を巻いている、6時半。スムーズに動くためには起きておいたほうが良いだろう。
どういう仕組みかは知らないが、8時になると寝台は自動で有無を言わさず畳まれることになっている。そして朝食だけはサービスがあり、なんとゆで卵がひとつ配られるのだ。魔界にしては凄まじいサービスである。顔を洗うのも服を着替えるのもするつもりがないので朝の身支度は特にないが、少し伸びをして来る象の圧に備える。あと8時間は縮こまっていなければならないのだ。
ロボットが「ゆで卵のサービスですニャン♪」とやってくる頃には、私たちのコンパートメントは昨日と同じ形になっていた。青い悪魔は青いチョコバーを食べているし、カラス頭は朝刊を読んでいるし、象頭は腕を組んで瞑想に励んでいる。私は他の悪魔から見たら何なのだろう、忙しない男なのか。
魔列車は猛烈な勢いで走っている。乗っていれば実感はないが、車窓を見ていると急に台地が白っぽくなった、かと思えば一面が凍てついた氷の大地を走っている。昨日まで最高気温70度の地にいたというのに。ただ、これは魔列車の速度というよりも魔界の気象が異常なのだと思う。突然半袖シャツを着ている場合ではなくなってしまったが、私は隣で象の圧を受け続けているためどちらかと言うと暑さを引き続き感じており、到着まではこのままでいようと思う。
その後も昨日と同じく煙草と水ギセルのシナジーのない共演(何かさわやかな風味のフレーバー、よくわからないがスイカとか?)、カラスの朝刊の盗み見(ペンギンは北上を続けて永久凍土域に到達した見込み:もしかして彼もウィンターホームに居るのでは?)、本、うたたね、荒野を眺めるの繰り返しをしながら、遠くに明かりと煙が見えてきた。異常発達した蒸気機関が永久凍土を辛うじて暖める街、氷と炎とスチームパンク都市ことウィンターホーム。ビジュアルは満点だが、異常蒸気機関文明はヴィクトリア朝で時が停まっていると相場が決まっている、20世紀没の悪魔である私は劣悪な近代環境を耐えられるだろうか。
長い片道は滞りなく終わり、全天ドームの広いプラットホームに到着する。空気は十分に温められているはずだが、さすがに半袖シャツの能天気は想定されていない。取り急ぎライム色のライトダウンを羽織ってそれらしくしていると、ずっと隣に座っていた、かの象頭が無言で手を一本差し出している。忘れ物か落とし物でも渡してくれている?とよく見ると、レッドブルだった。
「えっと?」
意図が分からないが、しばらく視線を往復してみるかぎり、いただけるようだ。脈絡もない、所以も何もわからない。
とりあえず素直に受け取って、私も折りたたみ無限ポッケを漁って最初に出てきたもの、『カキピー』の小袋を差し出してみた。多分美味しいから大丈夫だと思うが、象はほんの少し目を見開いて驚いているような気がする。概して良い同乗者だった。キンキンに冷えたレッドブルは今ではないというのが本音だったので、一旦ポッケに仕舞う。
魔界の北東側は錬金術の影響が強い。通り過ぎてきたアルカナムなんかそもそも名前が錬金術だが、この都市も異常発達の錬金術により異常発達した蒸気機関で、まず錬金術なのである。錬金術がその後の科学と一線を画するのは神秘であるというところであり、全ての答えは神々と世界の完全なる調和のうちにある姿に示されるものであり、神話に秘められたコードを解析して世界をハックしようとする姿は敬虔でもあり、傲慢でもあり、人界の錬金術師の9割がたは詐欺師であったので地獄である魔界で死後を過ごすことになった。錬金術もまた死んだ概念ということで、冥界でこそ栄えているというわけだ。天文学の双子である占星術もまた死んだ学問だが、錬金術は死んだ占星術を前提としているので当然この学問ゾンビも魔界では生き生きとして、ホームの頭上で巨大な天球儀として存在感をしめしていた。しげしげと眺めていると、ただのオブジェではなく細かな星辰の動きを一目に表す時刻表のようなものだからここにつり下がっているのだと思われる。死んだ学問こと神秘学あるいはオカルト科学はまだ勉強中の身なので、全ての意味を拾うのは難しい。
駅を出ると驚くほど寒かったので、ライトダウン程度では太刀打ちできないと一旦地下街に潜り込んだ。実際のところこの街の地上部なんて煙突を生やすための飾りみたいなもので、地下こそ大動脈である。とはいえ永久凍土の地下に地熱なんて慈悲はなく、とりあえず風雪を凌げるのがメリットで、寒いことには寒い。無限ポッケに腕を突っ込んで、一番暖かなロック鳥ダウンを引っ張り出す。
地下街は思った通りの様子だった。つまり煉瓦積みの赤い床壁を土台として、鉄のガス灯が等間隔に広い空間を照らしている。その間にはしゃれたショーウィンドウの店屋が軒を連ねていて、ここが駅前通りという活気をみせていた。多くはアールデコ調の優美なドアや看板で装飾された華奢な美と、ところどころむき出しの金属パイプから蒸気が噴き出る雑然とした工業の美。魔界なのでちょっとした飾りが気味悪い悪魔だったりするのは共通の様式美だ。甘い香りが漂っていて、焼き菓子か何かと思ったらクロワッサン屋だった。変な魔界アレンジのないクロワッサンなら気になるが、まずはホテルにチェックインしに向かう。
艶やかな真鍮で作られた曲線の意匠が優美かつ平均的な見た目の『短期労働者用』ホテルに入る。見た目に反して武骨なネーミングが仄かに地獄らしい。十分な広さのエントランスは殺風景ながら、金属の観葉植物とツインテールを模した萌え萌えキュンな自動応対ロボットが華やかに出迎えてくれる。
「こんにちは♡ようこそいらっしゃいませ♡【コキュートス夏季集中整備労働】プランご利用の方ですね♡当館は都市外部の労働者様専用の長期宿泊施設です♡事前予約済みの方は①を、当日申し込みの方は②をご選択ください♡[指紋・顔・声紋認証が完了しました]クリネラ・クリムゾン・スプラウト様、ご予約ありがとうございます♡早速ですが当館のご説明をいたします♡当館はご予約時の『指紋・顔・声紋認証』を利用しております♡クリネラ様のお部屋は404号室(シングルタイプ・喫煙可)です♡全館『指紋・顔・声紋認証』によるオートロックですので鍵などのお渡しはございません♡ご認証いただいた方以外の入室はお断りしております♡クリネラ様は地下ロビー・4階・9階ラウンジをご利用いただけます♡お困りの際は24時間オートボットが対応いたします♡本日は労働のご予定はありませんので、全館消灯22時までごゆっくりお過ごしください♡エレベーターはこの裏にございます♡」
オートボットの顔面液晶にそのままそう書いてある。♡。大した荷物もないが、とりあえず部屋は確認だ。労働者に対してどれだけアメニティを与えてくれるのかによって、歯磨きセットを買うかを決める。エレベーターは滑らかに滑り、シュンと蒸気の音を立てながら4階へ。404号室(シングルタイプ・喫煙可)はちょっとした書き物机とクローゼット、シャワールーム、ぱっと見なんかよくわからない荷物置き台、明らかに不要な絵画が備えられている。大きさと内装は可もなく不可もないが、大きな窓が壁一面についており雪の白で輝く外のおかげで室内は明るく、眺めも良い。極寒の街で片面いっぱいの窓は思い切っている。おそらく錬金術の断熱窓というところか、別に錬金術のではなくてもいいが、錬金術の文脈のガラスはやけに超便利素材の性質になるので。シャワールームはスチームミスト搭載だが、どう考えても蒸気機関の副産物。今のところは本機能を使うつもりはないが、冷え切った野外活動のあとはスチームミストサウナ状態にするのがありがたいのかもしれない。
部屋を一通り確認し終えて、晩の腹ごしらえとお土産探しの観光に繰り出す。ずっと述べているように錬金蒸気都市、面白怪しい機材が目当てでもある。もっとも、有用なものであれば城下でも普及していて然るべき。ということは所詮面白怪しい機材どまりであろうが、それでこそ錬金術らしいという気がする。
晩飯は、それはそれで1日ぶりに落ち着いて食べられるチャンスなのでそれなりの、そして温かいものが食べたい気分になっていた。悪魔にとって食事は身体活動を維持するエネルギーというより精神活動を刺激するの意味が大きい。現実強度が安定したものを摂っていれば身体の現実性がより強固になるので身体的でもあるが、精神体さえ確立していれば活動状態を維持できてしまうので、食事は必要ないけれども、割と効率よく精神を刺激して増幅してくれているので私はよく食べている、という感じだ。
オートボットの受付嬢に今晩のおすすめを訊ねてみる。
「観光旅行のディナーですね♡名物肉団子のスープはいかがでしょうか♡冷えた体を温めるこの地方の伝統的なメニューです♡」
「いいね、何の肉なの」
「申し訳ございません。ご質問に回答することができません」
急に真顔になるオートボットの温度差で風邪をひきそうになる。
こんな浅いところに機密が埋め込まれていて大丈夫なのか、当局は。
地下街の観光通りを軽く散策し、すんなり入れそうなレストランを見繕う。この街の商店はどこも内装が煌びやかで、どんな食堂も王侯貴族の食卓の風情がある。マホガニーの一枚板がつやつやしたカウンターに座らされ、スープとビアを頼むと勝手に大盛りのマッシュポテトもついてくる仕組みだった。肝心のスープは黒く粘性があり、どちらかと言うとシチューと言う方が馴染む。既に過剰に食べているポテトとパースニップ、人参、ポロネギ、ベーコン、マッシュルーム(紫)など具材も豊富。一番大事な肉団子については私の握りこぶしくらいの大きさのが二つ入っている。黒っぽいのは一度焼いているのか、顎が疲れそうなほどしっかりと詰まった繋ぎ最小限の肉肉しい肉団子で、何の肉かはわからない。いや、鳥や豚ではないのはわかるが、牛っぽいと思っても先ほどの当局検閲が脳裏をよぎって違うのかもしれないという疑念に逆に駆られるのだ、というか牛なら隠されるわけがないので、変な肉だと思う。
隣に座った厚着の大男が注文をつけている。
「4つにしてくれ」
「2つで十分だよ」
ふたつで十分だ。マッシュポテトも山盛りなのに。
大盛りでヘルシー(ポテトは野菜だから)な夕食のあと、腹ごなしとして錬金術の店を探し歩く。適当に歩き回っているといかにもそれらしい印をつけた看板の通りに出た。洒落た出窓にガラス製の奇妙な機材を並べる店舗、店先にサラマンダーの細切れを乾燥させたのを積んだ量り売りを広げている店舗、店の中は見せないが隙間から緑のラメ入りの煙を吹き出す店舗。錬金素材や書籍も気になるが、当初のふんわりした目的通りに機材狙いかな、と星図盤を並べている店に入る。
この店もやたらと凝っていて、機械仕掛けの天幕が魔術的な夜空を作り、星の明かりを照明として瞬かせている。普通に見づらいが、取り扱う星図盤は見たことがないほどバリエーションがある。三千の世界に対応する星図盤、星辰と現在時刻とアストライアのご機嫌が確認できる星図盤、おすすめの献立を表示する星図盤、飼い犬の気持ちがわかる星図盤。
「何かお探しですか」
全身真鍮の金色に輝くオートボットが話しかけてきた。
「魔王城下でも取り扱わないような変わったのが見てみたい」
率直にリクエストするとオートボットは迷わず棚から何かを取り出し見せてくる。
手のひらに収まる程度の大きさの、平たいレンズに見える。薄暗がりなのではっきり言えないが、青みがかった透明で、縁は金属で美しく装飾されていた。
「これも星図盤?」
「ええ、全てのものが秘めている星を表示します」
オートボットは入り口にいるインコに向かって星図盤をかざした。レンズの上に点々と白い星が映し出される。
「これはインコの中の星」
それは結局何か、実のところ全然分かっていないが、面白そうだし値段も手ごろ(17ドル相当)だったので購入してしまった。旅先の買い物は勢いが大事だろう。
買い物も済ませて、賑やかな観光を楽しんだら明日からは労働だ。あまり調子に乗ってはいられない。夜は始まったばかりで、夜向きの店がネオン看板を光らせ始めたのを眺めつつホテルへ戻る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます