ハツコイ、ふたり暮らし。

舞夢宜人

第一部:出会い、そして恋の始まり

#### 第1話:『夏の始まり、君との出会い』


 茹だるような暑さだ。アスファルトからは陽炎が立ち上り、じりじりと肌を焼く。夏休みに入って最初の三日間、俺は志望校の受験対策のために、市内の予備校が開催する特別講習に参加していた。冷房の効いた教室は唯一の救いだったが、それでも窓の外に広がる青空と白い雲が、俺の心をどこか落ち着かなくさせた。


 建築家という漠然とした夢を抱いてから、俺の日常は少しずつ変わり始めていた。志望校は、地元の国立大学。建築学科で学ぶためには、高校の授業だけでは足りない。そうして、この特別講習に申し込んだ。高校二年という時期は、まだ本気で受験を意識する生徒は少ない。それでも、今日この教室に集まっているのは、きっと俺と同じように、早くから将来を見据えている連中なのだろう。


 そんなことをぼんやりと考えていると、ふと、視界の端に彼女が映った。教室のちょうど真ん中あたり、窓際の席に座っている。長い黒髪を一つにまとめ、白いブラウスがよく似合っていた。周りの生徒たちが教科書やノートを広げる中、彼女は机の上に一冊の雑誌を置いていた。


 最初は、その雑誌に興味を惹かれただけだった。なぜなら、それは建築雑誌だったからだ。普段から俺が愛読している雑誌で、思わず目を凝らしてしまった。すると、彼女の横顔が目に飛び込んできた。


 白い肌に、透き通るような大きな瞳。クラスの中心にいそうな、明るく華やかな雰囲気を持っている。でも、どこか遠くを見つめるその視線には、ほんの少しの憂いが宿っているように見えた。その表情が、俺の心を掴んで離さなかった。そして、その長い黒髪と、どこか儚げな雰囲気が、ふいに妹の陽菜に似ていることに気づいた。陽菜も、時折こんな表情をすることがある。その共通点に、俺は不思議な親近感を覚えた。


 次の講義が始まるまでの休憩時間、俺は勇気を出して立ち上がった。彼女に話しかける口実を探す必要はなかった。手元に、完璧な話題があったからだ。

「あの、もしかして、建築に興味あるの?」

 そう尋ねると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。大きな瞳が俺を捉え、心臓が跳ね上がる。その視線は、俺の予想よりもずっとまっすぐだった。

「うん。建物を見るのが好きなんだ」

 彼女は微笑んでそう答えた。その笑顔は、さっきまでの物憂げな表情とは打って変わって、まるで夏の日差しのように明るかった。


 その一言が、二人の物語の始まりだった。

 志望大学が同じこと。そして、お互いが将来の夢を建築と工業デザインという、隣接する分野に抱いていること。そんな共通の話題で盛り上がるうちに、俺たちは急速に距離を縮めていった。

「俺、工学部の建築学科に行きたいんだ。それで、いつか温かい家を設計したい」

 俺がそう言うと、彼女は目を輝かせた。

「すごい。私、工学部の工業デザイン学科に行きたいんだ。拓海くんが家を建てて、私がデザインした家具をそこに置けたらいいね」

 そう言って笑った彼女の言葉に、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 まだ出会って数時間しか経っていないのに、まるでずっと前から知っていたかのような不思議な感覚。それは、運命と呼ぶにはあまりにも早すぎる出会いだったけれど、確かに二人の未来は、この暑い夏の日に、同じ空間で交錯し始めたのだった。


#### 第2話:『教室の外で、僕らだけの時間』


 夏期講習を終え、駅の改札を出たところで、再び楓と顔を合わせた。二人とも同じ方向のバス停に向かっていた。

「ねえ、来週も一緒に勉強しない? 今日みたいに、図書館とかで」

 そう誘うと、楓は嬉しそうに頷いた。

「うん、する! 拓海くんがいたら、数学も頑張れそう」

 その言葉に、俺は柄にもなく胸が高鳴るのを感じた。


 放課後、俺たちは約束通り駅前の図書館で待ち合わせた。静かな空間に、ページをめくる音と、時折聞こえる鉛筆が走る音だけが響く。

 俺は数学の問題集を広げ、楓に解き方を教えた。普段、誰かに何かを教えることはあまりない。それでも、楓が真剣な表情で俺の説明に耳を傾けてくれるのが、新鮮で、少し誇らしかった。楓は、俺が理解しやすいように、図を描きながら英語の文法を解説してくれた。彼女のノートは、丁寧で分かりやすかった。


 勉強の合間に、ふと楓が口を開いた。

「ねえ、拓海くんはなんで建築家になりたいの?」

 俺は少し考えた。言葉にするのは、簡単なようで難しかった。

「なんだろう……。なんか、人が安心できる場所を作りたいんだ。家族が笑顔でいられるような、温かい家とか、そういうのを設計したくて」

 それは、両親と妹が笑顔で暮らす、俺の家を思い浮かべていたからかもしれない。

 俺の言葉に、楓はそっと目を伏せた。その横顔に、またあの憂いが宿るのを感じる。

「……そっか。素敵だね」

 そう呟く彼女の声は、少しだけ寂しそうに聞こえた。


 ふいに楓が顔を上げ、俺の目をじっと見つめてきた。

「私ね、将来は家具デザイナーになりたいんだ」

 その言葉に、俺は驚き、そして胸の奥が熱くなるのを感じた。

「俺が家を建てて、楓が家具をデザインする。……それって、すごくないか?」

 そう言って笑うと、楓もつられて笑い声を上げた。彼女の笑顔が、俺の心を温かく満たしていく。

 勉強を終え、二人は帰途についた。夕暮れのバスの中、隣に座った楓の髪から、甘いシャンプーの香りが漂ってきた。その香りが、俺の心臓をさらに高鳴らせる。


 まだ出会って間もないけれど、俺たちはもう、ただのクラスメイトではなかった。お互いの夢を共有し、支え合える特別な存在になり始めていた。この日から、俺にとっての「日常」に、楓という特別な時間が加わったのだった。


#### 第3話:『夕焼けに染まる帰り道』


 夏期講習の最終日。最後の授業が終わり、俺は楓と一緒に教室を出た。昨日まであれほど憂鬱だったこの時間が、今では名残惜しくてたまらない。

「お疲れさま。なんか、あっという間だったね」

 楓はそう言って、にっこりと笑った。

「うん。楓と一緒だったからかな」

 俺が素直な気持ちを口にすると、楓は少し照れたように俯いた。


 バスを待つ間、楓が不意に口を開いた。

「ねえ、アイス、一緒に食べない? 講習、頑張ったご褒美」

 普段は自分から何かを誘うことがない俺だったが、その誘いに迷いはなかった。二つ返事で快諾し、近くのコンビニへ向かった。


 コンビニでアイスを買い、近くの小さな公園のベンチに座った。夕焼けに染まる空の下、俺たちはただ静かにアイスを食べていた。他愛のない会話が途切れた時、沈黙が二人の間に流れる。でも、それは気まずいものではなく、心地よいものだった。


 ふと、隣に座る楓の横顔に目をやった。夕陽が彼女の長い黒髪を黄金色に染め、その白い肌を優しく照らしている。大きな瞳は、夕焼けの空をじっと見つめていた。その横顔は、講習で初めて会った時と同じように、どこか物憂げな表情をしていた。


 その時、俺の心臓が大きく跳ねた。

 ああ、俺は楓のことが好きなんだ。

 そう自覚した瞬間、胸の奥が熱くなり、どうしようもなく苦しくなった。


「楓、アイス……」

 小さく声をかけると、彼女は「ん?」と不思議そうな顔でこちらを向いた。

「アイス、ついてる」

 そう言って、俺は人差し指で、彼女の唇の端についた白いアイスをそっと拭った。

 楓の肌は驚くほど滑らかで、その感触に俺は息をのんだ。

 彼女は一瞬、目を丸くしたが、すぐに頬を赤く染め、俯いてしまった。


 その小さな触れ合いが、俺たちの関係を、これまでのただの「友達」とは違う特別なものに変えたのだった。


#### 第4話:『一歩踏み出す、僕らの未来』


 アイスを拭った指先が、ほんのりと熱を持っていた。楓の頬は赤く染まり、俯いたまま顔を上げない。俺は、さっきの行動がやりすぎだったかと後悔しかけていた。

「ご、ごめん。なんか、つい」

 俺がそう言って謝ると、楓は小さく首を振った。

「ううん。大丈夫……ありがとう」

 彼女が顔を上げると、その大きな瞳が、照れくさそうに揺れていた。


 心地よい沈黙が、再び俺たちの間に流れる。でも、今度はもう、気まずさなんて微塵もなかった。俺の心は高鳴ったままで、楓の隣にいるというだけで、世界が色鮮やかに見えるようだった。


 公園を出て、バス停に向かう。普段ならあっという間の距離が、今は永遠に続く道のように感じられた。

 このまま別れるのは嫌だ。

 そう思った瞬間、心の中で何かが弾けた。行動しなければ、後悔する。そう直感的に思った。

「あのさ……」

 楓が「ん?」と顔を上げたその時、俺は勇気を振り絞って言葉を紡ぎ出した。

「もしよかったら、来週末……一緒に遊びに行かないか?」

 まるで、受験の面接試験を受けるときのように緊張していた。


 突然の誘いに、楓は一瞬、戸惑いの表情を見せた。俺は心臓が口から飛び出しそうなほど焦っていた。もしかして、嫌だっただろうか。

 しかし、次の瞬間、楓は満面の笑みを浮かべた。

「うん、もちろん!」

 彼女の返事は、想像していたよりもずっと明るく、俺の胸は安堵と喜びに満たされた。


 二人は連絡先を交換し、メッセージで映画に行く約束をした。バス停で別れ際、楓がひらひらと手を振ってくれた。その小さな仕草が、俺にとっては最高に嬉しかった。

 俺と楓の関係は、確かに一歩進んだ。ただの「友達」から、特別な「恋人」へと。

 まだ夏休みは始まったばかり。この夏が、俺たちの未来を大きく変えることになるなんて、この時の俺は知る由もなかった。


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