第53話 拒否する理由
しかし、回そうとしたその手をレオに掴まれてしまう。
「申し訳ありません。降りていただけないでしょうか?」
「なんで?」
ここは抱きしめてキスをする流れではないのだろうか。経験はないものの、高ぶった感情がそう身体に命じている。
「お願い致します」
しかし真剣にも阻まれている。
重いのだろうか? 重いから退けと言うのか? いや、そんな理由でレオが拒否するはずがない。
未だに顔も赤いまま、目も熱っぽく潤んでいるのに、嫌がっているはずもないと思う。
「嫌よ」
絵麻が言うと、レオは目を逸らし、歯噛みをしたように苦悶の顔になった。絵麻の命を絶対として叶えたい執事の矜持と、自身のなにやらと葛藤している感じだ。
しかし、無理に退かせるつもりもないようなので、身体を寄せて首元にキスをした。
するとレオは飛び上がったように跳ね、その勢いで抱きかかえられて、膝の上から降ろされた。
無理に降ろされるとは思わず、まさかのことで絵麻はしばし呆然となった。
「そろそろお時間です」
レオが何事かを言った。口調が執事のそれに戻っている。
「時間ってなに?」
「居酒屋のご予約時間です」
時計を見ると5時を過ぎている。
「ああ、そのことね。キャンセルしましょう」
それで気が気でなかったのかと脱力した。執事の鑑というよりも、いつものごとく空気を読まない愚直さのせいだったらしい。
「お約束だったのではないのですか?」
「レオは行きたい?」
「私と行くご予定だったんですか?」
「他に誰と行くのよ」
絵麻が答えるとレオはきょとんとした。思ってもみなかったという顔だ。
またも内心を表に出せたと愉快な気持ちになり、口元がにやけてしまう。
「行きたい?」
絵麻はもう一度聞いた。
「……いえ、あの、絵麻様はいかがしたいのですか?」
レオは動揺した様子で聞き返してきた。
「行きたくないわ」
最初は休暇にしたレオを誘う口実だった。休暇も、レオを喜ばせることが半分、気持ちを確かめることが半分で与えたものだった。結果は呆れるほど予想通りで、余暇よりも絵麻を優先してくれたわけだが、その場合も行くつもりだった。邸やレストランだとレオが緊張するだろうと考えて、居酒屋を選んだのだ。
しかし今やもうデートをするどころではない。
レオは戸惑い、困惑し、狼狽えている。
そんなレオをもっと見たい。まだ見ぬレオを知りたい。本音をさらけ出して欲しい。この場を終わらせるなんてもったいない。
絵麻はレオをの手を引き、ベッドへと連れて行った。
座らせ、その上にまたもや座り、今度は上半身を押し倒した。レオは驚愕の目で身体を硬直させている。
これまで知らなかったレオを見るだけでなく、ようやく触れることができたのだから、未知の感覚も味わってみたい。
そう思って、衝動のままにキスをした。
「おやめください……」
しかし弱々しい声でありながら、またもや身体を離された。
「やめたくない」
「……お願い致します」
さっきの苦悶の表情に近いが、なんだか泣きそうな顔にも見える。
「私のこと好き?」
「はい」
「じゃあ、行動で示してよ。好きならキスくらいしてよ」
先に愛を向けてきたのはレオなのに、絵麻のほうが率先している。それを喜ぶどころか、拒否してばかりで、いい加減にして欲しい。
「……私にはできません」
「なんでよ」
「今も、その、限界寸前だからです」
「なにが?」
「絵麻様にそのようなことをしたら、自分を抑える自信がありません」
「何を抑えるっていうの」
言ったとき、絵麻はようやく気がついた。
頑なにも説明せず降りろと言っていたのも、おそらく同じ理由だ。予約の時間だからでも重いからでもない。
絵麻ですらレオに触れる日を待っていた。18年もの想いを抱えていたレオならその比ではないだろう。
だったら喜び勇めばいい。そう思うものの、想像を絶するほどの愛を向けているくらいだから、それに関しても同様に、普通の頭では考えられない方向へ振り切れているのかも知れない。
「抑えなくてもいいのよ」
衝動を抑えて欲しくない。抱えている想いを表に出して欲しい。
「絵麻様がご不快になられるようなことは致したくありません」
頑固なやつめ。
絵麻は言葉で求めることを諦め、再びレオを抱きしめててキスをした。軽く触れるのではなく、わからないながらも、愛する人にだけする、夫とはしなかったキスを。
すると、それまで拒否の姿勢を取っていたレオが、いきなり強く抱きしめてきた。絵麻のそのキスで何かが弾けたかのように、レオ自らが返してきた。
それは目が眩むほどのキスで、呼吸すらもままならないほどだった。
「……レオ」
レオの上にいたのに、いつの間にかベッドに寝かせられている。
「……もう、無理です……何をおっしゃられても、止めることはできません」
そう言ってこちらを見たレオは別人のようだった。その目を見た瞬間、ゾクリと震え、射られたかのように硬直した。これまで向けてきた情熱など、ごく僅かだったとでも言うほどに熱く滾っていて、絵麻も身体が熱くなった。
本当に堪えていたのだと、今になってわかった。
未知のレオは驚くほど猛々しく、こちらを気遣いながらも全身で愛を訴えた。
レオに触れられるたびに、頭の中が痺れて何も考えられなくなった。レオの熱を感じること以外に、何もできなかった。
絵麻はされるがままに身を委ね、生まれて初めての感覚を味わった。
レオは絵麻に対して何も求めようとしない。愛どころか好意すらも求めず、全身全霊で愛し、自身の全てを注いで力になろうとする。レオが恐れていることは、絵麻から離れてしまうことだけだ。
何があっても守ってくれるし、どんなことでも率先してしてくれる。あまりにも頼りになりすぎて、レオのいない生活などもはや考えられない。
絵麻が求める限りはそばにいてくれるだろう。というよりも、あの絶望した顔を見た今では、拒否したら死ぬかもしれないとも思う。
不可解なほど不気味で、引くほど愛してくれているのに、ただ従順というわけでもなく、腹は立つし、呆れもする。
主人は絵麻のはずなのに、振り回されている気がしてならず、肩透かしを食らってばかりだ。
しかしそれこそが、レオに惹かれた一つの要因であり、無視できずに知りたくなったことが愛の始まりだったらしい。そして、その経過に幸せがあったのだ。
それを絵麻が知ったのは、もう少し苦しんでからのことだった。
なんて奇妙な相手に不可解な恋慕を抱いたのかと呆れたが、レオ以外の誰かを愛する自分など想像できないし、その苦しみはむしろ喜びを与えてくれた。
離婚して得たことは、生まれる前からのしがらみから解放されたことだけでなく、初めて自らの意思で人を愛し、行動した自負だった。
それはなんとも苦しく幸せで、生きている実感を感じられるものだった。
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