魔王様、どうか瞳を抉らせて?―最強魔法〈魅了〉を駆使して、ヤンデレヒロインたちとともに成り上がります―

浜風ざくろ

プロローグ


 

 こんなはずじゃなかった。


 こんなはずじゃなかったんだ。




 


「……は、はは……」


 僕は、受験票を手から落とした。


 沢城シイラと名前の書かれた紙が、溶けかけた雪の上に落ちて、濡れる。


 張り出された掲示板に、僕の番号はなかった。何回見返しても、書かれていない。


 涙が勝手に溢れてくる。


 頑張った。


 頑張った、はずだった。


 三年、浪人した。白い目で見てくる親に頭を下げて、必死にバイトをしてお金をためて、寝る間を惜しんで何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も……毎日勉強したはずだったのに。


 勉強は、陰キャで目立たなかった僕の唯一の取り柄で。


 僕が、プライドを持っていたことだったんだ。


 なのに、それさえもダメだった。


 ダメだったんだ。


 だって、ここにはない。僕の番号は、ないんだ。どれだけ探したってない。ないんだよ。


「……は、はははは……」 


 乾いた笑いがこぼれる。


 僕は、たしかに聴いたんだ。


 こころが折れた音というものを。


 僕の人生が、決定的に負け犬になった瞬間の泣き声を。


 膝から崩れ落ちて、僕はさめざめと泣き叫んだ。


 ああ、ダメだ。


 もう、ダメだ。


 僕は、もう頑張れない。


「――」


 雪が、ぽつりぽつりと落ちてくる。


 ふと、芥川龍之介の言葉が浮かんだ。


 ――人生は一箱のマッチに似ている。


 ――重大に扱うのは馬鹿馬鹿しい。しかし重大に扱わなければ大変である。


 僕は、人生の無常に触れて思う。


 湿気たマッチになったら、捨てるしかないだろうと。


 

  



 


 

「ねえ、リヒト。魔王様。あなたの瞳を、抉らせて?」


 ――その綺麗な瞳が欲しいの。


 冷たい瘴気のただよう謁見室えっけんしつで。


 は耳にタコができるほどに聞いた物騒な願いに溜息をついた。魔石でしつらえられた玉座に肘をつき、足を組み直し、ひざまずく少女へ目を向ける。


 彼女の瞳は熱っぽい。


 光をあてたエメラルドのような輝きを放ちながら、若干引き気味に笑う俺の表情を映している。


 なんて欲深い、魔族らしい瞳なんだろうか。


「……いつも言っているだろアイファ。すべてが終わったらくれてやるって」


 少女――アイファズフトは子供のように頬を膨らませた。


 雪色の髪が、くゆりとたゆたう。謁見室に流れ込んだ隙間風のせいなのか、それとも彼女の欲望の燻りに反応したせいなのか。水にさらされた白絹のように流れた髪の隙間から、小さな角がのぞいた。


「すべてってなに? いつ終わるの?」


「だから、魔王になって魔界を支配したらだよ。そういう約束だろ? 頼むからいい加減覚えてくれないか」


「あなたはもうすでに魔王。……私の、魔王様」


「お前だけのな。俺はまだ、みんなの魔王にはなってないだろ」


「いま欲しい。いますぐ。……ね、片目だけ。片目だけでいいから頂戴? 大切にするから」


「話しきけよ。大切にするとか、そういう問題じゃないって」


「……?」


「なぜそこで首を傾げる。傾げたいのはこっちだよ」


 こめかみに手を置いて息をついた。


 こいつはいつもそうだ。マイペースというか、自由気ままというか、とにかく話を聞かない。正直少し持て余しているし、子供っぽいところは辟易するけど、これでもかなり優秀だからな……。とくに戦闘面では彼女に助けられてばかりだから、多少は大目に見なければならない。


「……我慢できない。お願い、ちょっとだけだから。痛いのは一瞬だから」


「……なんか色々引っかかる言い方だからやめなさい。代わりに、アイスゴーレムの氷菓子をベルモンドに作らせるから」


「にゃ、わかった」


 彼女の腰から伸びる悪魔の尻尾が、犬みたいに揺れた。


 それでいいのか……。瞳とアイスじゃあまりにも釣り合いが取れてない気がするんだが。


 アイスで欲望を中和したアイファズフトは下手くそな鼻歌をならして歩み寄ってくる。感情の起伏はあまり感じられない表情だったが、機嫌を直してくれたようだ。


 今日も自分の失明を免れてほっとしていると、アイファズフトが膝をついた姿勢で俺の腕に絡みついてきた。


 鼻歌が、止まる。 


「……ところで、リヒト」


 アイファズフトが、冷たい声を発した。


「また――別の女を〈誘惑〉したの?」


 心臓が、どくりと震えた。


 横を向くと、光のない深緑の瞳が俺を射抜いていた。まるで、樹海の中に引きずり込まれるような、根源的な恐怖を呼び起こされる眼差し。


 アイファズフトが豹変した。嫉妬深い彼女は、俺から漂う〈浮気〉の痕跡を読み取ったのだろう。背筋に走った悪寒に、俺は引きつった笑みを浮かべそうになった。


 ああ、ゾクゾクするよ。


 魔族の殺気は甘く、匂い立つものだから。


「……ねえ、リヒト。どうなの? あなたから他の女の魔力が匂っている」


「……」


「リヒト。ダメだよね? 私、何回も言った。他の女に、その力を使うことは許さないって。その綺麗な瞳で、私以外を魅了したらいけないって何度も何度も忠告したよね?」


「……」


「聞いてる? 聞いてない? 誰を魅了したの? ね、誰? そいつの名前を教えて? 私のリヒトをたぶらかした泥棒猫……」


「落ち着いてくれ」


 肩を掴まれた。


 俺は思わず顔をしかめる。信じられない怪力で握り潰され、筋肉と骨が悲鳴を上げていた。痛いなんてもんじゃない。痛みの感覚か麻痺した俺でも、油断すると叫びそうになる。


 そう、そうだ。彼女は、魔族なんだ。


 それも、最強の力を有する魔族の中の魔族。


「消毒しなきゃ。消毒しなきゃ消毒しなきゃ消毒消毒消毒消毒消毒消毒消毒消毒消毒……。この世から、一片の肉片も残らないように消してしまわないと。リヒト。私のリヒトに手を出したやつを八つ裂きにしてやらなきゃ」


「……っ。アイファ痛いよ」


 アイファズフトは、怨念のように「消さなきゃ」と繰り返していた。俺の言葉なんか耳に届いていない。


 肩の痛みはいっそう増していく。


 痛いなあ。


 ああ、痛い。他人事のように痛みを観測し、俺は恐怖を愉悦に変えながら、くつくつと笑う。生きている実感。ああ、痛みとは悪いものというばかりではない。俺は生きている。〈模範的な魔族〉として、第二の人生を楽しんでいるよ。


 ぼくんっ、と音が爆発した。ビリビリと神経が騒ぎ、分厚い杭で貫かれたような重い痛みが走りぬけた。肩が不自然に吊り下がる。まるで、樹木で首を吊った死体みたいだ。


 あはは、痛いなあ。


 滝のようにあふれた脂汗が、目にしみる。


 最高に――生きているよ。


「……っ、……ふふ。アイファ」


 俺はアイファズフトを、真っ直ぐに見つめた。


 瞳に魔力が迸る。

 


 

『手を離せ。そして、跪け』



 

 俺の瞳から、虹色の光が広がる。


 魔眼――アスモデウスの瞳。


 力の発動とともに己より魔力の低いものや、恋慕や忠誠を寄せているものの精神を支配することができる。最強の精神魔法……〈魅了〉の異能。


 アイファズフトの暗い瞳が、全身が、かすかに揺れた。そして、力を失ったように手を肩から離して、その場にひざまずく。俺を見上げる顔には、恍惚とした笑みが浮かんでいた。


「……ごめんな、不安にさせて」


 俺はアイファズフトの頬に指を添え、膝をついて彼女と目線の高さを合わせた。熱を帯びた瞳が、潤んでいく。


 彼女の吐息は、毒を含んだ花の香りのように甘かった。


 甘くて、熱くて、官能的ですらあった。


「許してくれ。ファールハイトのやつと謁見するには、まだ力が足りないから。……これも俺が魔王になるために必要なこと。どうか、理解してほしいな」


「…………は、い」


「ありがとう」


 ああ、俺はなんて最低なんだろう。


 こんなの、ただの手の込んだおままごとだ。そして、だからこそ……だからこそ最高に魔族的な、歪みきった愉悦と欺瞞に満ちた喜劇だ。


 でも、すべてが嘘というわけではない。


 約束は、かならず果たす。


「俺はお前のものだから。瞳だけじゃないよ。この命も、この心も、いずれすべてお前に明け渡すつもりだ」


「……ほ、んと?」


「ああ、約束したからな。俺たちは、魔界を支配して永遠を共に生きる」


 感激したように表情を歪ませる彼女の顎に、指をおいて、俺は笑いかけた。


 ――そう、永遠を生きるんだ。


 〈模範的な魔族〉として、際限のない欲望に身を委ね、この地に楽園を創生する夢を叶えるために。俺は、魔王となるんだ。


 最高位の魔族〈大罪〉の一人として。


 魔王の資格を有する怪物として。


 大罪〈色欲ヴォルスト〉の、リヒト・フォン・ビルケンシュトックとして。


 沢城シイラでは、見い出せなかった高みへ登る。


 この人生は、湿気たマッチでは済まさない。


 永遠に燃え盛る業火となるんだ。


 たとえ、壊れていようとも。 


 







――――

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