ダイナマイト30㎏

 鼻孔を押さえているシャツの肩口が、流れ出る血液を吸ってじわりと重くなっていく。脈打つ鉄臭さが喉の奥を焦がし、視界の端が墨を垂らしたように暗かった。ハンドルを握る両腕も思ったように動いてくれない。


「帰京どころか、宿につくのも難しいぞ」


 停車して落ち着くのを待とうにも呼吸が浅くなっていき、視界が徐々に狭くなっていく。指先のしびれも気になりだした。救急車も来ないのは知っているのだ。田中角栄たなかかくえい先生になにかしら連絡ができる場所までには絶対に到着せねばならず、それが可能な場所は一つしかない。


 息も絶え絶えになりながら、徐行運転でなんとか村の入り口までたどり着く。山に挟まれた狭い集落だから、車から降りれば入り口からも実家が見えた。重い足を引きずりながら、一歩進めるたびに驚きを感じる。家も、村も、何一つ変わっていない。東京に比べれば時間が凍り付いたかのようだった。

 この村に電話があったのは自分の家だけだった。この光景を見れば、今もそれは変わっていないだろう。


 引き戸を開けると、囲炉裏の煤と柿渋の臭いが絡みつく。電話をあるところに目を向ければ、遮るように父親がいた。


「ただいま戻りました。公務が忙しく、突然の帰京となってしまい申し訳ございません」


 無言で立つ父は随分と小さく見えているが、瞳はかつて見たことのないほどに濁っている。


「祠を壊したのは、お前か」


 低い声が床を震わせるが、無視して上がり込む。体力に限界が来ている。説明する時間はない。ワンコールでもいい。角栄先生の事務所に一報を入れなければ。電話へと伸ばした手が受話器に届こうかという瞬間、節くれ立った指に胸ぐらを掴まれ、壁に叩きつけられた。


「村に、救急車が、来るように」

「守り神を、爆薬で吹き飛ばす馬鹿がいるか!」


 父の拳が頬骨を打つ。血と唾が混じった温さが口角を濡らし、視界が反転する。立ち上がるべく両脚に力を込めるも、床ごとぶち抜かんばかりに頭を踏まれた。床板の木目がぐにゃぐにゃと歪み、耳鳴りと父の罵声が溶け合っていく。


「なんでそんなことした」

 答えようにも舌がもつれて動かない。鼻腔を満たす鉄の匂いが濃くなり、口の中がぬめぬめとした感触の液体で満たされていく。深い井戸の底へと沈むように感覚が薄れていき、なにか大きな音が耳元で聞こえているらしいことしかわからない。


 そもそも、あんな物が自分たちのなにをどう守ったのか。意識と感覚が暗闇に沈む最後の寸前にそんなことを閃いて、そこから先は一切が闇の中へ消えていった。


「――カハッ」


 喉からなにかがこみ上げる感覚で意識を取り戻した。味噌樽の酸いた香りと煤の埃の匂い。井戸に放り込まれたかのような圧迫感のある空気。この感覚は十年ぶりだが覚えがある。小さい頃に過ごした家の納屋だ。療養する場所として放り込まれていた場所だが、今は独房代わりらしい。

手足が硬く麻縄で縛られて一切の身動きが取れなくなっている。


 縛られているなり動こうとしたが、指先一本すらまともに動かせない。祠を吹き飛ばしてから続く痺れが、骨の芯まで染み込んでいるようだった。痰が纏わり付くような感じが抜けず咳き込めば、べしゃりと音を立てて血反吐が地面に広がった。


 乱れようとする呼吸を整えようとするも耳鳴りまで始まってきた。動いていないはずなのに視界が揺れて、空気に血の匂いが混じってくる。縛られて苦しむしかない状況に置かれて、原因不明の体調不良という言葉に、『呪い』という単語が脳裏を掠めた。


 何度か状況を打破しようとし、余計な体力を消費して地面に這いつくばる。そんなことを何度か繰り返せば、芯から脱力して床に転がるばかりになった。曇りガラス越しから見ているような視界が、急激に光を捉え始めた。


「よう、センセ。生きてる?」


 唐突に聞こえた声に返事をするまでもなく、熱気すら帯びた煙が流れ込んでくる。線香と煙草が混ざったような香りが肌に触れ、肺に流れ込むと視界が戻り痺れが抜けてくる。


 なにが起こったのか。顔を上げれば派手な花柄シャツがゆらりと浮かんだ。目の前に流れ込んでくる煙を辿れば、にやついた笑みを浮かべる唇にたどり着いた。根元の黒い金髪の、軽薄な雰囲気の男が俺を見ている。


「煙なんてぶっかけてゴメンね。でもタバコの煙は効果あるんだよ、たぶんだけどね」


 棘を呑まされたかのような喉の痛みが和らいでいく。全身の痺れは軽い違和感に、視界は多少揺らぐが、それでも視界が欠けるということはなくなった。


 男は肩を竦め、どこからか取り出したナイフで俺を縛る縄を切った。謎の体調不良は改善されたし、身動きも取れるようになった。助けられたようだが、村にこんな人間はいないし、こんなところに来る人間もいない。礼より先に疑問がでるのは当然だろう。


「誰だ、お前は」

井坂いさか。田中先生に雇ってもらった拝み屋さ。この辺り不便過ぎだよね。道が悪すぎて、高木センセ宛の電報より俺の方が速かったみたい」

「田中先生から?」

「うん。この村に来る頃には諸々解決してるだろうからさっさと応援に行けってさ。大雑把だよね、どうにかするのは自分たちなのにさ」


 井坂は気安く肩をすくめる。随分と気安い奴だが、呪術やらに使えるのはありがたい。派手な花柄のシャツや金髪など、拝み屋というには場違いな感じがするが、それでも田中角栄先生がよこしたのなら聞くべきことはたくさんある。


「応援ってのは、お前一人か」

「ボクは先遣隊。けっこう大規模な儀式をやる予定でさ。その下準備に来たわけ」

「あんなかび臭い祠にか」

「うわなんも知らないんだ。あの祠にはさ、大和朝廷に滅ぼされた民族の神が封じられてたんだよ。祠に触るくらいは平気だけどさ、中身が厄介でね。呪いの爆弾みたいなものを抑え込んでて。うっかり開放させちゃうと見るどころかまわりの空気を吸うだけでも命が危ないんだ」


 石段くらいしかない苔むした祠。なんの逸話もなく、歴史があるらしいというだけの場所。そんな曰くがあるのなら、観光名所くらいにはなっただろうに。そう考えれば滑稽に思えてきて、笑いが止まらない。


「そんな面白い話したっけ。ボク」

「笑うしかないだろ。ダイナマイトで吹き飛ばしたんだから」

「えぇ。センセ――死ぬよ?」


 あーあ。とため息をつきながら肩をすくめる井坂は、ポケットから新しいタバコを取り出した。火を点ける仕草が妙に丁寧で、軽妙な態度の裏に冷静さを保とうとするのが伺える。


「こうなっちゃうとね。医者でも坊主でも無理。あと一日持つかどうかってとこかな」

「そうか。田中角栄先生へご連絡をしたいが、ペンと紙は持ってないか」


 やり方は間違えたかもしれないが、祠は撤去したのだ。公務員一人の不慮の事故で工事は止まらないだろう。果たすべきは果たしたが、礼の一つも言えずにこの世を去るのは未練になりそうだ。

納屋にだって紙はあるし、墨をするくらいの余命はあるだろう。水だけは外に出て探さなければいけないが、人目に付かない井戸は把握している。井坂が筆記具を持っていないにしても、大丈夫だろう。とまで考えて、肝心の返答がないことに気がついた。


「ふざけんなよ。センセの仕事はこれで終わりかもしれないけど、ボクの仕事はこれからなんだよ」


 吐き捨てたタバコを踏んで火を消す井坂には、これまでの軽薄さが感じられない。眉をしかめて、髪をわしゃわしゃとかき上げる様子は苛つきを感じさせるも、真剣そのものだった。


「田中先生からは関係各所の無事も含めて依頼されてるの。その中にはアンタもいて、自業自得とはいえ失敗したら明日から仕事受けられないよ」

「す。すまん」

「謝るのはいいけど。なんでニヤついてんのさ」


 なんのコネもない田舎出身の若者を、自分のような安い駒を、時の総理大臣田中角栄が気にかけてくれた。この感動を、あの人は何度体験させてくれただろうか。それを伝えてもなかなか理解されることはないが。


「いい案が閃いたからつい、な。俺が死ぬ前に儀式とやらを成功させればいいんだ」

「簡単に言ってくれるなぁ。大規模な儀式だって言ってるでしょ。安全な形で呼び出すだけで何日かかると」

「呼び出せないなら来させればいい。住処を吹っ飛ばした、殺したい相手が目の前にいるだろう」

「センセを生け贄にしろって。ダメだよダメダメ。もっといい案考えるから、ちょっと休みなよ。さっきまで縛られてたでしょ」


 井坂はため息をつきながらタバコを取り出して咥える。そこからは棒立ちしているが、どうやらライターを探しているらしい。意外と抜けてるところもあるようだ。


「ライター落としてたぞ。」

「あらホント。火なんかつけなくていいよセンセ。ボクなんか雇われなんだから」

「こんなクソ田舎で立場もクソもあるか。田中角栄先生の前では、俺もお前も一兵卒だ」

「火まで付けてくれちゃって。ありがとうね」


  煙の向こうで金髪が僅かに揺れた。口角を吊り上げながら井坂はタバコを取り出し、吸い口を俺に向けてきた。


「一服したら一仕事だ。ありがたく貰うぞ」


 井坂が行う儀式の準備を手伝うため、二人で儀式の段取りについて話し合うことにした。納屋にあった板を机代わりに、井坂のメモを参考にして儀式の会場を紙の上で組み立てる。

 柱穴の位置、注連縄を通すための杭の一本一本に至るまで、井坂の提示した情報をもとに、必要なものとやるべきことを分類して整理していく。加工するのにちょうどいい木材の場所など、幼い頃から染みこんでいる村の情報。省力化できる作業の提案や、問題があった場合の代替の提示。

 諸々を矢継ぎ早に決めたあとは速かった。ふらつく身体でマトモな手伝いができるか不安だったが、作業は想像を超える速度で進んだ。なんだかよくわからない札を貼った白木の御柱が次々に起き上がり、焚き木があっという間に積み上がってゆく。


「センセ、やるじゃん。動くのでやっとのはずなのに、手がまったく止まってなかった」

「霞ヶ関を舐めるな。搬送されても点滴を打ったら帰って仕事するのが俺たち官僚だ」


 額を流れる汗が目に染みるころには、井坂が会場の最終点検を始めていた。

 終わるまでは少し座って休んでおこう。手頃な岩に腰をかけようとした瞬間。耳鳴りが金属音に変わり、視界が傾く。世界が右下に向けて滑っていく。


 やっとの一念で膝を立てることに成功したが、上半身はそのまま岩に向かって倒れていく。南無三。という言葉が過った直後、世界からの滑落が急に止まった。


「センセ! いま倒れたら本末転倒だよ」

「いいから……最後の結界線を塩で描くんだろ。私は休むから」


 喉に鉄を流し込まれたように熱く痛い。井坂が水を飲ませようとしている辺り、声も相当かすれているだろう。岩に固定されるように寝かされた後は、黙って井坂が作業するのを眺めているしかできなかった。


「今日日さ。屋外に結界貼るのも工夫したいよね。学校のチョーク引く機械あるでしょ。こういう作業、ちょっと楽したい」

「そのくらい経費で買えるさ。角栄先生の太っ腹は見た目だけじゃないぞ」

「わお。嬉しいな。あ、でもダメだ。ボクらの業界って万が一がないんだ。死んだり末代まで祟られたりしちゃうから」

「昔ながらのやり方以外が恐いのか」

「せいかーい。現代チックなやり方で解決できないから、ボク呼ばれてるわけでさ。だからご飯食えてるわけだけれども」


 派手なシャツを着込んだり髪を金に染めてみたり。当世風に見える井坂にも、いろいろと事情があるのだろう。そう思ったが、感じたことをどう言葉にすればいいのか考えがまとまらない。時折話しかけてくる井坂に適当に相づちを打っていると、結界を張り終えたらしい井坂がこっちへ向かってくる。


「お疲れ様センセ。あとは本番組を待つだけ。今の状況や段取り伝えたりだとかはさ。ボクやっとくから。お喋りに付き合ってくれた分、ゆっくり休んでてよ」


 返事をするのも億劫になっている。曖昧に頷いたあと、目を瞑ってしばらく後、山全体が巨獣のように唸った。


「わ、なんだよこれ。地震か」


 うろたえた井坂は所在なさげに辺りを見回すが、どこを見るべきかを自分は知っている。山の稜線をなぞるように辿っていけば、遠く祠のあった尾根に、土煙が黒い棘を立てて噴き上がるのが見える。


「山鳴りだ。騒ぐなよ。もっとデカいのが来るから」

「嘘でしょ。じゃあ、逃げな」


 駆け寄ろうとする井坂を手を伸ばして静止させる。さっきの轟きより深い咆哮が地面を揺らした。祠のあった尾根から吹き上がる土煙。柱のように上がるその向こう側から、むき出しの地面が覗いていた。


「わ、なにあれ。こんなの初めて見たんだけど」

「あの辺りでダイナマイト百キログラム以上を一息で起爆させたんだ。ああいうことくらい起こる」

「そんなに」

「前々から吹き飛ばしたかったが、やり過ぎた。街につながる道もろとも一切合切土砂の下だ。応援は来られない」


 井坂が唇を噛み、目を細めた。準備を無駄に終わらせたどころか、仕事を失敗させてしまったのだ。わからないところも多い奴だが、少ない中でも人間味は感じられて、精一杯自分を助けようという気持ちは伝わった。

 ここまでかかせてきた汗と苦労を不意にしてしまったのに。一息するごとに、なにか大切なものが削れていくような状態の身体では土下座すらできないのが本当に心苦しかった。


「井坂、もうお前の仕事の範疇じゃない。動けない奴は置いて山から離れろ」


 山崩れがあったとき、山の中に安全な場所はない。少しでも離れるしかない。これは原理原則の話で、自分でも驚くほど澄んだ声だった。唇を噛んだ井坂は沈痛な面持ちでこの場を離れた。タバコがあるなら一本くらい貰っておけばよかったと思ったが、しばらくして風呂敷を抱えて戻ってきた。

 別れの挨拶のつもりか。ちょうどいい。タバコを無心しようとしたが、自分がなにかする前に井坂が背負っていた風呂敷包みを解き始めた。日本酒のなみなみ入った一升瓶、鈴、短刀。どれも儀式の設営で使うと聞いたものではない。

 指さし確認をした井坂は、思い切り背を伸ばしながら口を開く。


「本番組が来ないんじゃあ、二人でやるしかないね」


 言うが早いか、彼は一升瓶の口を開き、俺に回しかけ始めた。酒精が蒸気のように包んでくる感覚に包まれ、ほの甘い匂いが身体中から漂う。鈴の音を鳴らしながら、襟を掴まれた自分は引きずられるように儀式の会場へと運ばれた。


 供物として台に据え付けられ、鈴を鳴らした井坂が次々と会場の蝋燭と松明に火をつけていく。

たった二人きりの儀式が始まった。

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