路地裏カフェ「蓮華庵」へようこそ

そらね

第一章 出会い

1

じめじめとした雨上がりの路地に、パトカーの赤色灯がぼんやりと滲んでいた。

新米刑事・榊悠斗は、まだ慣れないスーツの襟を何度も直しながら、現場の人垣の後ろに立っていた。


「おい、新人。突っ立ってねぇで、現場確認してこい」


先輩刑事に背中を押され、思わず

「はいっ」と声が裏返る。

足元はまだ覚束ない。

靴底にまとわりつく水気が、やけに冷たかった。


アパートの前に横たわるのは、若い女性の遺体。

掛けられているシートの隙間から、血の気を失った指先が覗いている。

――飛び降り自殺。

誰もがそう言った。


悠斗もそう思おうとした。思おうとしたのに。


「……っ」


背筋に氷を流し込まれたような感覚が走った。

遺体のすぐ脇に、同じ顔をした女が立っていたのだ。

濡れた髪が頬に張りつき、瞳は虚ろ。

それでも確かに“見て”いる。こちらを。


「……ひっ」


思わず声が漏れた。


「どうした、新人?」


先輩の声に慌てて振り返る。

しかし、そこには誰も立っていない。

戻って視線をやると、女はまだいる。

こちらに近づいてきている。


「な、なんでもないですっ……!」


声が震えた。

汗が頬を伝う。

呼吸が浅くなる。


女の口が、ゆっくりと動いた。




――たすけて。




悠斗は膝が折れそうになるのを必死で堪えた。


翌日。


取調室の片隅で、悠斗は勇気を振り絞って上司に打ち明けた。


「……すみません、信じてもらえないかもしれないですけど、昨日の現場で……遺体の女が立ってるのを見ました」


上司は鼻で笑った。


「はぁ?お前、寝不足で幻でも見たんだろ。そんな報告、書類に残せるわけないだろ」


「……はい」


小さく頭を下げるしかなかった。

自分の立場は弱い。

新米が怪しいことを言えば、ただでさえ低い信用は地に落ちる。

それでも、あれは夢でも幻でもない

――悠斗はそう確信していた。


数日後。

突然、警視庁から呼び出された。

先輩方に、何したんだ、お前。という視線を浴びせられながら向かった会議室で、しばらくの間待っていると、現れたのはスーツ姿の男、穏やかな表情の奥に鋭い光を宿した目。


「君が……現場で“見た”という刑事だな」


「……は、はい。榊悠斗です」


姿勢を正し、慌てて敬礼をする。手の震えを押さえられない。


男は手を挙げて応え、静かに言った。


「この話はここだけにしておけ。……ただし、黙って忘れろとは言わん。君には“紹介したい場所”がある」


そう言って渡されたのは、一枚のメモ。

そこには、都心の裏通りの住所が記されていた。


その日の夜。


雑居ビルの影、細い路地の奥。

人通りもなく、灯りも少ないはずなのに、不思議と吸い寄せられるようにその店に辿り着いた。

木の引き戸に「蓮華庵」れんげあんと小さな看板が掛かっている。


「……カフェ?」


扉を開けると、カラン、と澄んだ音。

ふわりと香る珈琲の匂いに、少しだけ緊張が和らいだ。


「いらっしゃいませ。本日はマスターにご用ですか?」


カウンターから現れたのは、年若い店員の青年だった。

白いシャツに黒いエプロン、柔らかい笑みを浮かべている。

だが、その瞳はどこか底知れぬ透明さを湛えていた。


「えっと……ここに来るようにって、上司から……」


言葉を選びかけた瞬間。


「客か」


低い声が奥から響いた。

次の瞬間、暖簾を押し分けて現れたのは黒いシャツの男。三十代半ばほどか。

整った顔立ちだが、瞳だけが異様に鋭い。


「……こいつか」


男が言い、店員が頷く。


「はい。例の人だと思います」


「な、なんですか、それ……」


悠斗は腰を折り、思わず頭を下げる。


「俺、本当に何も分からなくて、ただ言われた通りに……」


男は灰皿に煙草を置き、悠斗を一瞥した。


「……見えたんだろう。死者の姿が」


息が詰まった。

誰にも信じてもらえなかった言葉を、目の前の男は当然のように口にした。


「安心しろ。俺にとっては珍しくもない」


「あなたは……一体」


男はゆっくりと名乗った。


「九条蓮。この店のマスターだ。……ただのカフェの店主だ」


「……ただの、ですか」


蓮は短く笑った。


「君は霊能者だよ。自覚はないだろうが、見えるということはもう普通じゃない」


その言葉を聞いた瞬間、カランと鈴が鳴った。

振り返ると、ガラス戸に女の顔が映っていた。

――あの夜、現場で見た女だ。


今度ははっきりと、血の気のない唇が動いた。


『助けて……』

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