第9話 魔王の息子、村人を覗く

俺の名前はギール=アポリア。

ドレイクの紛らわしい発言のせいで一瞬ペースを崩したが、今はもう大丈夫――そう思っていた。


だが、まだ大きな試練が残っていたのだ。


「ギール! 先に風呂入っていいぞ」


……そう、風呂だ。

魔界でも王族なら風呂に入るのは当たり前だったから、それ自体は問題ない。


問題は――俺は一人で風呂に入ったことがない。


いつも召使いが洗ってくれて、俺は目をつぶって立っていれば全部終わっていた。

体をどう洗えばいいかなんて、正直よくわからない。


もちろんドレイクに正直に言ったところで、馬鹿にされはしないだろう。

だが、あいつのことだ。きっとこう言うに決まっている。


「風呂の入り方わからないなら、一緒に入るか?」


……いや、別に一緒が嫌ってわけじゃないんだ。

嫌じゃないのに、なぜか嫌だ。いや、やっぱり嫌かもしれない。

とにかく複雑な気持ちだ。


ここは何としても回避しなくては。


「ドレイク、今日は疲れただろう。俺の代わりに先に入っていいぞ」


「いいのか? てっきり『魔王たるもの、先に風呂に入る』って言うかと思ったんだが」


「いや、魔王たるもの気遣いが大事なんだ」


「……なるほどな。じゃあお言葉に甘えて入ってくるわ。大体三時間ぐらい待っててくれ」


――は? 三時間!?


長すぎるだろ!!

だがまぁいい。むしろ三時間もあれば勉強する時間ができる。


俺の作戦はドレイクがお風呂に入ってる間に覗く。

そして、自然と“人間式の体の洗い方”を学ぶ、完璧な作戦だ。


ドレイクが服を脱ぎ始めた。

さっそく俺は外に出て、風呂場についている小窓を確認する。


……あった!

ここからなら、ドレイクの入浴を――


……って、閉まってる!?


なぜだ!?

風呂といえば、窓を開けて夜風を浴びながら湯に浸かるのが至高だろう!?

ドレイク、もしかしてそんな常識も知らないのか?


「ドレイク!!」


「どうした、ギール? なんで外から声が聞こえるんだ?」


「今、外で夜風を感じてるんだ! お前も窓を開けて確認してみないか!」


「いや……窓開けても風を感じられるわけないだろ」


くっ、ややこしいやつめ。早く窓を開けて、俺に風呂を覗かせろ。


「ドレイク!!」


「今度はなんだ」


「えっと……超絶美少女が街を歩いてるぞ! 窓を開けて見てみろ!」


「興味ないから、遠慮するわ」


……さすが俺が見込んだ男!

そんなもので心を乱されないとは……って、違う!!


なんとしてでも風呂をのぞかなきゃいけないのに、なんで俺は“ドレイクの清廉さ”に感心して喜んでるんだ!?


ピーーピィィィィィ……。


ピーーピィィィィィ……。


ピーーピィィィィィ……。

夜の虫が鳴き始める。


そういえば、昔もこんな音を聞いたな。

勇者にオヤジを殺されて、行くあてもなく森で魔力を吸って生きていた頃。

草の中で眠れず、ようやく寝たと思えば夢に出てくるのは勇者の顔ばかり。

虫の声を子守唄代わりにして、どうにか眠ろうとしていた。


思い出すのは嫌だ。

俺の記憶の大半は、悪いことしかないんだから。


──「その髪、面白いな。よこせよ」

ああ、本当に最悪な記憶がよみがえる。


バン。


後ろを振り向くと、ドレイクが風呂の窓を開けていた。

「お前が言った通り、夜風は気分がいいな。それに……虫の音がこんなに心地良いなんて知らなかった。もう少し一緒に聞いていかないか? 俺の周りにはほとんど家がないから、誰にも見られないし」


「だろ!? いい音だろ!! もっと一緒に聞こうぜ」


……そのとき、俺は見てしまった。

ドレイクの体を。


「なっ……なんだその筋肉!? 俺よりあるじゃねえか!」


「普通だろ? それより、もうちょっと虫の音を聞こうぜ。せっかく丁寧に体を洗ったあとで気分がいいんだ」


……今なんて言った?

体を洗った?


シマっっっっっっっタ。

俺としたことが、当初の目標をすっかり見失っていた。


その後、俺は普通に風呂に入った。

すると、そこにはドレイクのメモ書きが置いてあった。


──シャンプーの使い方。

──体の丁寧な洗い方。


細かく書かれている。

さすがドレイク、気が利く。


……でもな、ドレイク。

完璧なお前にも、ひとつだけ欠点がある。


それはな──


俺、文字が読めないんだよ。









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