鳴らずにいた風鈴

優夢

なんとなく時が流れて、今

 暦の上では夏が過ぎ去ったというのに、連日の猛暑。

 大学時代から見慣れ切った1LDKは、夏になるとすさまじく熱気がこもる。

 数年前、世間の流れで勤務形態がリモートワークになった。

 通勤の手間と引き換えに会社のエアコンで涼む時間がなくなり、電気代は爆上がりだ。

 たまには換気をしないと、とデスクを立ち、適当に伸びをする。俺は襲い来る熱気に覚悟を決めて窓を開けた。

 ぶわっと外気の熱が顔にぶつかり、俺は顔をしかめた。



 ふわり。

 窓辺で風鈴が揺れた。

 音はしない。

 もとは透明で、少し模様のあるガラス細工だ。排気と雨にさらされてひどく汚れ、見る影もないまだらの灰色だった。

 何年ここにぶら下げていたのだろう。

 この風鈴には、舌(ぜつ)がない。

 音がする部分がないのだから、揺れても無音。

 ただずっとここにあったもの。



 思わず指先を伸ばしたが、触ったら手が汚れることは間違いない。

 俺は手を引っ込めた。そのまま窓を閉めた。

 仕事が終わっても、俺はあの存在を覚えているだろうか。



 ……覚えていた。

 17時、時間ぴったりに仕事を切り上げ、勤怠管理のボットに『退勤』と入力する。

 覚えていたなら仕方がない。

 俺は、やや涼しくなった……と思い込みたい外気に耐えつつ、風鈴を取り外した。用意していた洗面器にそっと置き、風呂場でぬるいシャワーをかける。

 ざらつきに加えて、ぬめっとした感触。キッチン換気扇を掃除しているアレに似ている。シャンプーで丁寧に、指でなぞるように洗ったが、完全な美しさは取り戻せなかった。



 ガラスは日焼けして、ほんのり黄ばんでいた。白い水垢のような汚れと、黒いポツポツがうっすら残っている。

 それでもなんとか透明感は戻った。かつて水色と白の流線模様があった部分はくすんだ黄土色になっていたが、模様がない部分は光に透けて、天井をゆがめつつ映した。



 懐かしい痛みが、胸にちょっと刺さる。

 この風鈴は、当時の彼女からもらったプレゼントだった。

 暑すぎる部屋に辟易していた俺に、気持ちだけでも涼しくなってねと贈られた。

 音で苦情が来ないように、美しい和紙がついた舌(ぜつ)部分は、取り付け前に外した。だから、窓辺で鳴ったことはない。

 あの部品はどこに行っただろう。きっと、何かに紛れて捨ててしまっているだろうな。



 彼女は俺より三つ年上で、長い髪を編むのが好きだった。

 仕事では編み込みのお団子で、シゴデキ風。

 デートではハーフアップで甘めに。

 艶やかな黒髪に指を通すと心地よかった。



 あんなに好きだったのにな。



 彼女の転勤がきっかけで、いつしかやりとりが途絶えがちになって、日々の多忙で存在を忘れてしまって。

 数年後、何かの節にLINEで挨拶を送ったが、既読にならなかった。

 7年前の彼女。きっともう結婚していて、子どもにも恵まれて、幸せに過ごしているだろう。

 相変わらずあの時と同じ住まいで、年数分の給料が上がった程度の自分とは違っているだろう。



 ガラス焼けの黄色っぽい面は片側に集中していて、反対側は少しだけ本来の色が残っていた。

 爪一枚分くらいの範囲、涼しげな白と水色。

 彼女が好きだった色だ。

 明確に別れを言わずに終わった未練か、思い出すのはいいところばかり。

 喧嘩もしたし、合わないところもたくさんあったはずなのにな。

 今も好き、とは思わない。7年という歳月の向こう側、若かった自分の拙さが気恥ずかしくて、それでいて輝いて見えるだけ。


 

 時は戻らない。風鈴を洗っても、完全に汚れがぬぐえないように。

 こびりついた雨跡は指にひっかかる感じで、滑らかな指触りの心地よさが詰まる。



 この風鈴の音色は、箱から取り出した最初に聞いたはずだった。

 思い出せない音。

 彼女の声を、もう思い出せないように。



 風鈴にソーイングセットの糸を結び、無理やりスプーンをぶら下げてみた。

 不格好さにひとりで笑った。

 糸が長すぎて、揺らしても鳴らない。スプーンを手に持って、風鈴を軽く叩いてみた。



 かちん。



 違う。

 期待していたのは、こういう音じゃなくて。



 期待ばかり膨らんでいたかつての自分は、まわりが何も見えていなくて。

 一歩引いて自分を顧みることができたら、できることは随分減っていた。

 あの頃も、今も、自分はさほど変わっちゃいなくて。

 年月の重みだけを、やたらシビアに免許更新で思い知ったりする。



 32歳の俺は、風鈴越しに25歳の俺を見た。

 じゃれあうように笑う若い恋人たちの姿。自分とは縁遠い人種に感じられる。

 そんな自分もいたんだな、と苦笑する。



 俺は、間抜けなスプーン風鈴をテーブルに置いた。

 埃だらけの棚から、旅行土産にもらった絵はがきをさぐり出す。いつのだよこれ。はがきの値段がかなり古いぞ。

 秋の風景が水彩画で描かれたはがきに、「元気でいますか」と短く綴る。

 俺は夕飯調達がてら、コンビニで切手を買い足して、はがきをポストに放り込んだ。

 


 彼女の住所は、とうに変わっているだろう。

 届かないはがきを出すなんて、自分のセンチメンタルさがむずがゆくなる。

 宛先不明で戻ってくればいい。

 それで、なにか前に進める気がした。

 新しい彼女が欲しいとか、婚活とか、そういう気にはなれないけれど。



 この日焼けた風鈴程度には、俺の人生、そこそこクリアになれる気がして。



『私は元気です』



 返事が届いたのは、一か月後。

 コスモスの写真が美しいはがきに、短い一言だけ。



 正直、かなり驚いた。

 彼女の名字が変わっていないことに、何故か安堵する自分がいて。

 我ながら馬鹿げていると、思わず肩をすくめたその時。



 きん、かきん、きん。



 偶然、手が当たって、音色とも言えない音がハンガーラックの脇で鳴った。

 ハンガーラックの金属に当たった風鈴の音は、スプーンよりも少し澄んでいた気がした。



 勤怠管理のボットに『出勤』と入力する、朝8時。

 7年ぶりに風鈴が鳴った、秋も深まる水色の空。

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鳴らずにいた風鈴 優夢 @yurayurahituji

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