第45話 澄と澈のわがまま

 僕は、侍衛一。

 謝景澈シャケイテツ?そんな名前、誰が欲しがるんだろう。

「謝」って苗字も変だよね……なにを、誰に謝れってんだよ。


 皇子なんて肩書き、いいことなんてひとつもない。

 食べるのも遊ぶのも、全部制限だらけ。

 親の愛なんて、最初から期待するほうが間違ってる。

 少しはしゃげば「享楽きょうらくばかり」と言われ、

 静かにしていれば「本ばっか読んでる変人」扱い。

 まるで僕たちは、生まれた時から何重もの色眼鏡で見られてるみたいだ。

 そうでもなきゃ、どうして誰も、平等な目で僕たちを見ようとしないんだろう。


 六歳になる前の記憶――

 母上はよく笑い、そしてよく泣く人だった。

 僕の悪ふざけで笑って、父上が顔を見せないせいで泣いた。

 兄上は、そんな母上の代わりに僕を守ろうとしてくれた。

 周りの偏見をねじ伏せるために、命を削るように努力してた。

 昼は経史を読み、夜になるとこっそり僕に昔話をしてくれた。


 六歳のあの日。火の海の記憶は、ほとんど無い。

 ただ、背中が焼けて、死ぬほど痛かったことだけは覚えてる。

 そして、それ以上に痛かったのは――兄上の泣き顔だった。


 その時、父上は言った。

「死んだなら好都合だ。これで片がつく。」


 その言葉を聞いた瞬間、僕は思った。

 ……この家には、人間らしい温度なんて、もうどこにも無いんだな。


 母上と兄上だけが、僕を愛してくれた。

 父上は、僕を嫌っていた。まあ、釣り合いが取れてる。

 この世界、案外公平なのかもしれないね。


 侍衛一になってからの僕は――見た目だけなら、

 顔の半分を覆った冴えない男に見えるだろう。

 でもね、違うんだ。

 視界が半分に限られたおかげで、見たくもないものを見ずに済む。

 下半分の顔は自由だ。食べるのも、飲むのも、笑うのも、僕の勝手。


 もう、あの窮屈な宮中で息を潜めて生きる必要もない。

 白夫子ハクフウシの奥方は、僕を本当の息子みたいに可愛がってくれるし、

 白夫子の厳しさはぜんぶ兄上に向かう。

 兄上は僕にとって、もう一人の父みたいな存在だ。

 だからさ――僕、今けっこう幸せなんだ。


 昔の「第四皇子」の座?返されてもいらないよ。

 それに……今の四皇子は、もう別の誰かなんだろう?

 だったら僕は僕で、これでいい。


 僕の兄、景澄ケイチョウは――本当はわがままなんて言葉から一番遠い人間だ。

 なのに、いつも自分のことを「わがままだ」って言うんだ。

 何枚もの仮面をかぶって、誰よりも我慢強くて、誰よりも優しいくせに。


 子どものころ、誕生日が近づくと僕は何日も前から母上にお願いしていた。

「花火を上げたい。孔明灯も飛ばしたい」って。

 でも母上はきっぱり言った――「だめ。危ないから」。

 だから僕は、兄上のところへ甘えに行ったんだ。

 そしたら「わがままを言えない兄上」が、母上に「わがままを言って」くれた。

 その結果、僕たちは火の海を見た。

 そう、あの火の原因は僕だ。流言は、ある意味では正しかった。


 兄上は全部僕のせいにしたくなくて、自分のわがままで火が起きたと言い張った。

 彼がそう言うたびに、僕はただ苦笑いするしかなかった。何もできなかった。ただ、悔しかった。


 それから僕は、兄上の世界から消えた。

 彼はひとり、あの窮屈で冷たい宮中に残った。

 権力、私欲、抑圧、陰謀――そんなものばかりが渦巻く場所で、

 彼は「二度目のわがまま」を始めた。


 つまり、自分ひとりで「景澄ケイチョウ」と「景澈ケイテツ」の二人分の人生を生きること。

 誰にも僕を忘れさせたくなくて、あえて放蕩息子を演じた。

 本当は誰よりも努力家なのに、わざと怠け者のふりをした。

 周りに「わがままだ」「昔の景澈ケイテツみたいだ」って言われても、あの人はそれでいいと思っていた。

 僕にはどうしてそんなことをするのか、わからなかった。

 でも、人がそう言うたびに、僕はただ苦笑いするしかなかった。何もできなかった。ただ、痛かった。


 三度目の「わがまま」は、兄上からの手紙だった。

「少しの間、私のふりをしてほしい。愛する人と過ごす時間が欲しい」と。

 ――そんなの、わがままのうちに入らない。

 僕は自由だ。好きな人と飲んで、好きな街を歩いて、誰にも縛られない。

 だから手紙を読んだ時、嬉しくて仕方なかった。

「やっと兄上が、自分のために動こうとしてる」って思ったんだ。

 それに、久しぶりに父上の顔でも見てみたくなったしね。


 最初に沈言シンゲンを見かけた時、嫌な予感がした。

 あの人も僕と同じく、血の匂いを背負って生きてる。

 けれど、選んだ道はまるで違った。

 ……たぶん、あの人には兄がいなかったからだろう。


 そのあと、父上に頭を下げたって話を聞いた時、

 正直、腹が立った。あの人は何も悪くない。

 悪いのは、父上のほうだ。

 昔から何ひとつ変わらない。

 母上がいながら、他人の妻にまで手を出す。

 理由がどうとか、順番がどうとか、そんなの関係ない。

 そんな男、僕は軽蔑する。


 白夫子ハクフウシだってあれだけ聡明で有能なのに、

 愛したのは白夫人ひとりだけじゃないか。

 皇帝だからって、なんの特権がある……ああ、腐ってるんだ。

 それでも、僕は我慢した。


 兄上の名を背負っている以上、軽々しく口を開けない。

 これ以上、兄上に迷惑をかけるわけにはいかないから。


 ……だけど、あいつは。

 よりによって、兄上の悪口を言い始めたんだ。

 ふざけるな。あれだけ長く一緒にいて、兄上がどんな人かもわからないのか?

 流言、また流言だ。

 流言が「死ね」と言えば本当に死ぬのか?

 ああ、でもそうだった。

 流言が「景澈ケイテツは死んだ」と言った時、

 お前は何も確かめずに、僕の死を信じたんだよな。


 ――忘れてたよ。流言は智者で止まる。

 けど、僕の父上は、生まれてこのかた一度も「智者」なんかじゃなかった。


 ああ、もういい。そんなに玉座にしがみつきたいなら、

 せいぜい早く退位して兄上に譲れば?


「何をお尋ねでしょう。その問いの意味がわかりません。野心があるとはどういうことか。景澄ケイチョウに野心があろうと、それを実現する能力があるならば、お前よりも景澄ケイチョウの方がよほど良いではありませんか!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る