第44話 澄と澈の火
私のそばには、七人の侍衛がいる。
だが、そのうちの一人――侍衛一だけは、ただの侍衛ではなかった。
私が六歳の年、運命を変える「あの火」が訪れた。
それは、私の生誕を祝う夜だった。
母妃も、宮女も、宦官も、そして……弟の
すべてその炎に呑まれた。
そう、私の名は
「澄」と「澈」――たった一字の違いで、運命は夜と朝に分かたれた。
私たちは双子だったが、同じ日に生まれたわけではない。
母妃は私を産んだあと力尽き、誰もがもう助からないと思っていた。
けれど夜が明けたとき、再び泣き声が響いた。
それが、弟の産声だった。
私は闇の中に生まれ、
彼は朝日の中に生まれた。
私は幼い頃から体が丈夫で、経史、礼法、騎射を叩き込まれた。
弟は細く、天真爛漫で、母妃はいつも彼を甘やかしていた。
嫉妬なんてしなかった。
むしろ、そうでいいと思っていた。
あいつは私の弟、たった一人の弟だったから。
彼はよく、私の真似をした。声も、字も、話し方も。
「兄上みたいにできた?」と、母妃に笑いながら聞いていた。
……似てなんて、いなかった。
あいつの目は、眩しいほどに真っすぐで、無邪気で、あたたかかった。
そんな光は、私にはなかった。
だから、あの時、私はわがままを言ったんだ。
「花火が見たい。孔明灯を上げたい。宮中の誰もが見えるように。」
――そして、迎えたのは、火の海だった。
その夜、私は夫子のもとから戻る途中だった。
自分の殿舎に着くころには、空はすでに闇に沈んでいた。
目の前に広がっていたのは――天そのものが燃えているような光景。
炎は風に煽られ、舌のように夜空を舐めていた。
立ち尽くした私の耳に、泣き声と叫びが飛び込んでくる。
「
――違う、それは私だ。
「見たぞ!灯を点けていたのは景澈殿下だ!」
――私じゃない、あいつだ。
だが、たかが子どもが灯そうとした火で、どうして宮殿ひとつが燃え上がる?
……そんなはずがない。
あの火は、最初から仕組まれていた。
私は侍従を突き飛ばし、炎の中に飛び込んだ。
夫子の言葉を思い出す――「火に入るときは、まず衣を濡らせ」。
庭の蘭鉢を掴み、水を浴びてから、息を止めて突っ込む。
視界は火の粉で白く霞み、息を吸うたびに喉が焼けた。
母妃は崩れた梁の下で倒れていた。
その腕の中には、意識を失った弟。
私は這うように近づき、涙で視界が歪む。
母妃の顔が見えない。ただ、かすれた声だけが聞こえた。
「
私は弟を抱き上げ、よろけながら走った。
その体は驚くほど軽く、まるで壊れかけた陶人形みたいだった。
足がもつれて転び、口の中に灰と血の味が広がる。
その時――
「出宮の途中で聞いた。殿下が火海に飛び込んだと。」
彼はそう言って、私たちを抱き上げた。
あとの記憶は、熱と轟音と、空がひっくり返るような眩暈。
目を開けた時、すべては灰になっていた。
弟の背中は焼け焦げ、三日三晩、高熱でうなされた。
だが外の噂は、それ以上に恐ろしかった。
「
――違う。景澈じゃない。あれは、私だ。
「
――違う。景澈がそんなことをするはずがない。母妃も、最後までそう言っていた。
「
――違う。私たちはただ性格が違っただけだ。たしかに親しくはなかったが、憎み合ったことなど一度もない。あいつは、優しい弟だった。
けれど……誰が六歳の子どもの言葉を信じる?誰が真実を知りたいと思う?
火が焼いたのは宮殿だけじゃない。真実までも焼き尽くした。
私は泣きながら、
――その泣き声が、昏睡していた弟を呼び覚ましたのだ。
「……母上、死んだの?火を……点けたのは、僕?」
私は必死に首を振った。
「違う。信じるな。流言は、智者で止めるものだ。」
あの時の私の声は、自分でも知らないほど低かった。
翌日、父上は言った。
「死んだ者はそれでよい。この件は終いとせよ。
これ以上騒ぐな。あの宮の者たちには葬礼を。
あの愚か者は――放っておけ。」
……骨の髄まで、凍えた。
その後、白夫子がやってきた。
彼は私の前に膝をつき、深い眼で私を見つめ、言った。
「景澄。お前は分かっているだろう。これは偶然ではない。誰かがお前たちを消そうとした。母妃の最後の言葉は『守れ』だった。これは遺言ではなく、命令だ。」
肩を掴まれた。
その手の強さに、息が詰まる。
「これからは、弟を隠せ。成長し、背負え。流言を断ち、誤解を絶つ者となれ!景澄はいつか国を照らす明君となり、冤を晴らし、『焼かれる者』を、二度と出すな。」
彼の声は炎よりも鋭かった。
あの日から、私は「孤独な三皇子」となり、弟は名を失った。
彼は黒衣をまとい、名も身分も隠された。
それが、侍衛一の誕生だった。
あの火は母を奪い、私たち兄弟の名まで焼き切った。
けれど、夜ごと夢の底で、あの啼き声が聞こえる。
私は闇に生まれ、あいつは光の下に生まれた。
だが滑稽なことに――私は陽の下を歩き、あいつは私の影に隠れて生きている。
もっと滑稽なのは――
人々が信じる『陽光』など、陰謀と流言が燃やした火の色にすぎない。
そんな光に、人の心を照らせる力があるのか。
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