大学受験に失敗して就職もせず、気づけば五十歳ニートになっていた

マルコ

第1部-第1章 少年の日の教室

チャイムが鳴っても、机の上の手は動かない。

 中学二年の田島浩一は、数学のノートに鉛筆を走らせるふりをしながら、窓の外を眺めていた。

 教室の外には冬の薄い陽射し。校庭ではサッカー部が声を上げて練習している。自分にはまるで別世界だ。


 教壇では加藤先生が二次方程式の解き方を説明していた。けれど、黒板に並ぶ数字と記号は、浩一の頭には砂粒のようにバラバラに散っていくだけだった。

 右隣の席の田村は、ノートの隅に部活の戦術図を描いている。左隣の松井は、眠気と戦っている。どちらも浩一には真似できない集中力を持っているように思えた。


 ――どうせ、俺はできない。


 頭の片隅で、そんな言葉が浮かんでは消える。

 勉強が嫌いなわけではない。ただ、やろうとすると頭が固まってしまう。先生の声が遠くなり、数字が意味を失っていくのだ。


 昼休みになると、机の中から文庫本を取り出す。今日の昼飯は母が作ってくれた卵焼き入りの弁当だ。弁当を半分食べたら、あとはページをめくる。

 周りの席ではクラスメイトたちがにぎやかに弁当を見せ合っている。「それうまそうだな」「昨日の試合、見た?」そんな声の輪に、浩一は入らない。誘われたこともあまりない。

 気づけば、図書室の司書が貸してくれる本や、古本屋で見つけた安い推理小説が唯一の話し相手になっていた。


 放課後になると、昇降口で靴を履き替え、誰とも話さずに帰る。

 途中、駅前の商店街を抜ける。焼き鳥屋の匂いが夕方の冷たい空気に混じって漂う。近所の小学生たちが自転車で駆け抜けていく。

 家に着くと、母が台所で夕飯を作っている。父はまだ仕事から帰っていない。テレビのニュースが流れる中、浩一は自分の部屋にこもり、漫画やゲームに時間を溶かす。


 ある夜、母がふと聞いてきた。

「浩一、進路調査票、ちゃんと書いた?」

「……うん」

 曖昧に答える。書いたのは「進学希望」という一言だけだ。具体的な高校名も、将来の夢もない。

 母はそれ以上何も言わなかったが、少し寂しそうな表情をしていた。


 冬休みが近づくころ、クラスでは進路の話題が増えていった。

「俺、公立受けるわ」

「私立の推薦決まった!」

 そんな会話を耳にするたび、胸の奥がざわつく。自分だけ取り残されていくような感覚。けれど、その不安を勉強で埋めることはできなかった。机に向かうたび、数字や英単語の列が壁のように立ちはだかる。


 年末、父が珍しく家で晩酌をしながら話しかけてきた。

「浩一、お前もそろそろ将来のこと、真剣に考えろよ」

 酒の匂いと一緒に、その言葉が重くのしかかる。

「……うん」

 そう返すしかなかった。


 その夜、布団の中で天井を見つめながら考えた。

 将来って、なんだろう。高校、大学、就職――みんなが当たり前のように進む道を、自分は歩けるのだろうか。

 答えは出なかった。ただ、時間だけが過ぎていった。


 外からは冬の風の音。遠くで犬が吠える声。

 その音を聞きながら、浩一はうすうす感じていた。

 ――自分は、普通にはなれないのかもしれない。

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