職場の先輩がめっちゃいじってくる

つきしろ

第1話 好きな匂い

 朝5時40分。僕、河原優吾は職場の更衣室のドアをノックする。

 「失礼します、おはようございます」と言いながらドアを開ける。

 「おはよう、河原くん」

 挨拶を返してくれたのは、職場の2年先輩、細田善彦だった。

 彼はいつものように目を細めほのかに口角を上げていた。僕の入室を歓迎してくれるようだった。

 「おはようございます、細田先輩」

 更衣室の自分のロッカーへと向かう。7番と書かれたロッカーを開けようと手を伸ばすと、先輩の手が僕の右手を掴んだ。

 「な、なんすか…」

 先輩の目を見る。

 先程と変わらず目を細め、口角を少し上げて笑っている。

 いや、笑っているように見える。


 いつも不思議だ。先輩の考えていることは、僕にはよく分からない。

 先輩は感情を表に出すことが少ないように思う。仕事が忙しいときもキビキビ仕事しているが、表情に焦っている様子は窺えない。他の社員と話しているときも、基本真面目な顔をしている。

 でも僕には、こうやって表情を作ってくれている。笑っている、と表現してよいのか分からないが、真顔ではないことは分かる。


 先輩は僕の右手を掴み、じっと僕の目を見ている。

 僕も先輩を見る。

「あ、あの…」

 そろそろ着替えたいからその手を離して欲しいんだけれど…

 すると先輩は僕の右手を先輩の顔の近くに寄せ、右手首のあたりを嗅いだ。

 先輩の鼻が、僕の手首に触れそうなほど近かった。

「えと…先輩…?」

 すぐに先輩は手を離し、

「香水つけてないかチェック」と言った。

「なんかいい匂いするから、香水つけてんのかなーと思って」

なるほど、香水つけてるんじゃないかと疑ったわけか…

「つけないですよー。身だしなみのルールに、香水は不可ってあるじゃないですか」

「だよね〜」

 先輩が笑った。

 今度は間違いなく笑った、と思う。

「でもなんか、今日の河原くん、いい匂いするんだよね〜」

「うーん…柔軟剤の匂いですかね?」

「あ〜柔軟剤!たぶんそれだわ〜」

 先輩は納得したように着替え始めた。

 先輩は匂いに敏感なのか…柔軟剤とかシャンプーの香りとか、苦手な匂いあるのかな…

「先輩って、苦手な匂いとかありますか?」

「苦手な匂いか〜特に無いかな〜好きな匂いはあるけどね」

「へえーどんな匂い…」

 先輩の顔が僕の耳元に寄ってきた。

 少しびっくりした。先輩の端正な顔が、すぐ近くにある。

「河原くんの匂い♡」

「……へ?」

 僕の匂いってどんな匂い?汗臭い?汗臭い匂い好きなの?困惑だ。

「柑橘系の匂いがする。柔軟剤とかシャンプーとか、シトラス系の香り使ってる?」

「あ、はい。レモンとかベルガモットとか好きでよく使います…」

 先輩がまた笑う。

「めっちゃ好きな匂い。河原くんの匂い」

 先輩は顔を離すと、作業着のエプロンをピシッと着て、更衣室のドアノブに手をかける。

「今日も一日頑張ろ〜ね、河原くん」

 また目を細めて口角を少し上げたまま、先輩は僕に声をかけ、更衣室を後にした。


 そういえば先輩からは、ふんわりとせっけんの香りがした。それほど強くない匂いだったのに、思い出すと少し、くらっとした。

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