第30話 嵐のあとで

 轟音と、全身を引き裂くような衝撃。

 それが、カイの最後の記憶だった。


 鉄の棺桶と化した脱出ポッドは、セクターCの空を切り裂いた後、放物線の頂点で推進力を失い、奈落の底へと再び墜落した。衝突地点は、リアの工房からは遥か彼方、セクターCの中でも特に汚染が酷い「化学物質の沼沢地」。

 凄まじい衝撃で機体は半壊し、カイの意識は、深い闇の中へと完全に沈んでいった。


**********


「……クソっ! あのバカ犬……!」


 溶接横丁の工房で、リアはコンソールのモニターを拳で叩きつけていた。

 画面には、セクターCの地図の上に、「SIGNAL LOST」という赤い文字が点滅している。カイとの通信も、彼のバイタルサインも、全てが途絶していた。


 一日が過ぎた。リアは眠らなかった。

 二日が過ぎた。リアは栄養剤を流し込むだけで、席を立たなかった。


 彼女は、広域センサー、非合法にハッキングした上層区の監視衛星の低解像度データ、下層区の微弱なエネルギー波形、考えうる全ての索敵システムを並列で起動させ、ノイズの海の中から、ありえないはずの信号を探し続けていた。

「あたしの資産クリスタルを失い、逸品レクス7を失い、その上、ようやく見つけた使える犬まで失うだと……? 割に合わん……! あたしの計算が、こんなガキ一人のせいで狂わされてたまるか!」


 彼女の口から出るのは、あくまで損得勘定の言葉。だが、その赤い髪は乱れ、目の下には深い隈が刻まれ、モニターを睨む横顔には、これまで見せなかった焦燥の色が浮かんでいた。


 そして、三日目の夜明け前。

 リアのモニターの片隅に、ノイズと見分けがつかないほど微弱な、しかし特徴的な波形の信号が一瞬だけ灯っては消えた。

 それは、カイの装備からではない。カイが手に入れた「共振性チタン合金」そのものが、墜落の衝撃と、直前まで浴びていた動力炉の放射線に刺激され、微弱な共振エネルギーを発していたのだ。

 リアの目が、カッと見開かれる。


「……見つけた」


 彼女は躊躇なく席を立つと、隠しドックに待機させていたステルス輸送機へと、その体を翻した。


 数時間後、リアの輸送機は、化学物質の沼沢地に突き刺さるようにして半壊した脱出ポッドを発見した。

 機外カメラの映像が、歪んだハッチの隙間から、血まみれで意識のないカイの姿を映し出す。だが、その腕は、まるで赤子を抱くように、命がけで手に入れた「共振性チタン合金」の塊を固く守っていた。

 リアは、舌打ち一つすると、輸送機のワイヤーウィンチと、遠隔操作の医療アームを慎重に展開させた。


「……手間のかかる、本当に運のいい犬め」


**********


 カイが、次に目を覚ました時、鼻を突いたのはオイルと鉄錆の匂いではなかった。

 清潔なシーツの匂いと、消毒液のかすかな香り。

 彼が横たわっていたのは、作業台の下の寝床ではなく、柔らかなベッドの上だった。

 見回すと、そこは工房の片隅に隠されていた、小さな、しかし全ての医療設備が整った医務室だった。腕には点滴が繋がれ、今までの死闘で負った無数の傷は、綺麗に処置されている。


「……ここは……」

「あたしの工房の医務室だ。お前は丸三日、眠ってた」


 声のした方を見ると、リアが壁に寄りかかり、腕を組んでカイを見下ろしていた。

 その視線の先、ベッドの横にあるテーブルの上には、カイが命がけで手に入れた「共振性チタン合金」の塊と、「量子カスケード変調器」のケースが、静かに置かれていた。


「……よくやった、とは言わん。無謀で、馬鹿で、あたしの計画を滅茶苦茶にしやがった。……だが」


 リアは、テーブルの上の二つのパーツに、顎をしゃくった。


「……再生の『核』となる、一番厄介な材料は、揃った」


 彼女は、カイの目をまっすぐに射抜く。

 その目はもはや、犬やガキを見る目ではなかった。対等な、あるいはそれ以上の覚悟を問う、共犯者の目だった。


「ここからが、本当の地獄の始まりだ。覚悟はいいな、――カイ」


 初めて、その声は、カイを名前で呼んだ。

 それは、カイの「犬」としての日々が終わり、リアという「魔女」と共に世界の禁忌に挑む、本当の「相棒」としての日々が始まる合図だった。

 カイは、まだ痛む身体を起こすと、ただ一言、短く答えた。


「……ああ」

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