第44話 エナジードリンク

 ビーノのメンテナンスは特に何のトラブルも無く終わりつつあった。

 小熊がカブの整備をしている時にも何度も思ったことだが、バイクと言うより家電か玩具のような印象のスクーターも、一皮剥けば他のバイクと変わらない。

 消耗部品を通販で注文したりガレージのストックから出した部品と交換し、車体を組み立てる作業。

 まだガレージにあるボール盤や最近買ったプロクソンのミニ旋盤で部品を自作するような事にはならずに済み、塗装や錆取りのような待ち時間の長い作業が不要だっただけラクとも言える作業内容だった。

 ノギスと水糸で歪みを簡易測定したフレームに、組み上げたエンジンと電装、駆動部品、前後の足回りを組付け、マニュアルに載っている規定トルクでボルトを締めた。

 前後のタイヤは一度交換しているらしく山が充分に残っていて補修歴も無く、タイヤに刻印された製造年月も去年のものだったので、空気圧調整とムシと呼ばれるバルブのゴム部品だけ交換してそのまま使うことにした。

 燃料タンクと外装部品は、新車で買って二年少々の若い車体だったからか簡単な洗浄だけで新車のように綺麗になった。

 小熊は高校の頃、礼子と一緒に後輩のホンダ・モトラを修復した時の事を思い出した。故障の修理ではなく「起こし」と呼ばれる不動車の再稼働のため各部を洗浄し消耗部品を変え、再調整する作業はそれほど難しい整備では無かったが、二十年近く倉庫に入れっぱなしだったというモトラの錆びや樹脂、ゴム類の経年劣化には苦労させられた記憶がある。

 ガレージに流れるNHK-FMのように、規定のタイムテーブルを逸脱しない作業をしただけで、見た目は新しいが中身は各部の消耗品が機械的寿命を迎えているため、いつ壊れるかわからないビーノを、小熊の自尊ではメーカーの製造ラインより高精度な組み立てを行い、あと二万kmは壊れる事の無いビーノに仕上げる事が出来た。

 最後にハンドスプレータイプの車体洗浄剤で外装からホイールまで綺麗にした後、使い捨てシート型のワックスで車体を磨く。

 

 工具を機械清拭用のペーパータオルで綺麗に拭いて片付け、ガレージ内を清掃した小熊は、百均の台所洗剤やハンドソープで充分ながら見た目の玄人っぽさに惹かれて買ったピンク色の工業用粉末石鹸を手にこすりつけ、コンテナガレージを出て外の水道で洗う。

 整備作業を全て終えた小熊は、コンテナガレージからビーノを押し出し、アルミパイプの椅子と冷たいエナジードリンクの缶を持ってきて、紫色のエナジードリンクを飲みながら、公道に立っているが自宅敷地まで白銀色に照らしてくれる街灯に照らされたビーノをじっくりと眺めた。

 道の上や街の駐輪場、あるいはテレビの中でいくらでも見かけるビーノだが、自分の手で組み立て磨き上げたバイクは特別な物。ガレージの白熱灯よりLEDの街灯のほうが、オレンジ色の車体が映える。

 エナジードリンクの甘味を味わいながら、小熊はこのまま作業を終えてシャワーを浴び、寝室で眠りにつけばこれまでに無いくらい深く眠れるような気がした。

 小熊は随分長い間ビーノを眺めていたが、缶の中身を飲み干して立ち上がった。

 そのまま家に飛び込み、水のシャワーを浴びて髪を手早く乾かし、デニムパンツと長袖シャツ、スイングトップを身に着ける。

 持っていくべき物など何も思いつかなかったので、ポケットにスマホと財布だけ突っ込み、玄関のヘルメットとグローブを手に取る。

 普段エコバッグ替りに使っている。畳めばデニムのポケットに収まる布製のヘルメットバッグは持って行かなかった。バッグに入れるような荷物は無いし、持って帰る物も多分無い。


 外に出て白銀色の灯りに照らされたビーノにそっと触れた小熊は、バイクのエンジンをかける時にいつもそうしているように、心の中で祈りながらキーを回し、セルボタンを押した。

 ビーノは軽快な音をたてて始動した。小熊はエンジンの鼓動に自らの胸の中にあるエンジンが生み出す拍動を同調させながら、ビーノに跨る。

 今日は早く寝なくてはいけない。一日中の整備作業で疲労しているし、大学は夏休みだが生活を不必要に荒らしてはいけない。特に明日は拓にとって最良の働き先を見つけるため、朝早くから動かなくてはいけない。

 組み上げたビーノの試走は明日じっくりとやればいい。

 でも、目の前にバイクがある。この手で組み上げた最高性能のバイクが、今すぐ走りたいといっている。

 それならば小熊がやるべき事は一つ。普通の人間が布団に入って眠るべき時間。しかし残念なことに、そして非常に喜ばしいことにバイクに乗り始めた小熊は、思考がちょっと普通とは異なる。

 充分な暖機を終えた小熊はビーノに跨り、アクセルを捻って走り出した。

 きっとコーヒーよりややカフェインの多い、夜の空にように紫色のエナジードリンクが悪いんだと小熊は思った。

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