第43話 仕事

 ビーノのメンテナンスに集中していた小熊は、いつの間にか時間が夕暮れに近くなっている事に気づいた。

 コンテナに籠っているとつい時間の経過を忘れてしまうが、流しっぱなしのラジオはまっとうな職場で働く人たちの終業時間になった事を告げている。

 ずっと同じ姿勢で少し強張った体をほぐすために、小熊はコンテナの外に出た。

 この時間は西日が照っていて、まだ暑いだろうとと思って外に出ると、夕日はもう多摩の里山に沈みつつあり、風は涼しさを感じるものだった。

 バイクに乗る人間にとって過酷な物でしか無かった猛暑の季節が終わりつつある。安堵より戸惑いを感じた小熊は、空腹を自覚したので家に入り、オーブンで焼いたピザと炭酸水の食事を摂る。

 近所のスーパーで買った冷凍ピザにチーズと缶詰のトマト、瓶詰めのオリーブを足したせいかそれほど安物っぽい味にならなかったピザを食べながら、小熊はビーノの整備を進めている間、頭の中を占めていた問題について考えた。

 拓の仕事について。 

 親元での扶養から脱することを望んでいる拓がどうやって生計を立てていくかについては、正直なところ今の拓が高額な収益を得ている古書の背取りより良好なものは思いつかない。

 たとえ慎ましく暮らしていても、東京の大学生として生きていくにはそれなりに金がかかり、特に拓は、背取りで充分な収入を得つつ大学に通い文学専攻の学習をし続けることを望んでいて、その学費を捻出してくてはいけない。

 既に拓の両親によって入金された大学学費にもまだ未納付金はある。拓の両親はその金を人質にして、家に戻る事を強要するかもしれず、類似の話は小熊も大学で同じゼミを取っている人間やバイク便の同僚から幾つか聞いた事がある。

 他の人間からはどう見ても脅迫としか思えない行為も、親の愛とかいう都合いい免罪符の元では正当化されるものらしい。 

 だからといって拓が後腐れなく大学をやめ、学費の安い通信制の大学にでも入り直すようなことでもすれば、それは拓の望んでいない両親との断絶という結果を引き起こす。家族との対等な関係構築という拓の望みを叶えるためには、親の側に学費というカードを持たせないのが必須条件で、拓はそのために必要な金と、大学生活の両立を可能とする生業を必要としていた。

 

 金を稼げる仕事の知識も伝手もない小熊は、ピザによく合う冷たいスパークリングウォーターを飲みながら、いっそ拓に動画配信でもやらせてみようかとも思った。

 彼女は書籍についての知識も豊富で語り口調も丁寧、何より聞く人間に清涼感を与えるような声に恵まれている。Vtuberプロデュースをしている知り合いの中村にでも彼女を紹介すれば、すぐにでも拓を金の稼げる配信者に仕立て上げてくれるだろう。

 ただ、同じく小熊の知り合いで動画配信をしている後藤は言っていた。浮わついた金をどんなに稼いでも所詮小遣い銭だと。

 無数に居る配信者の中で、それだけで食っていけるのはひと握り、それを自らの正業として銀行融資やクレジットカード会社の信頼を受けられるような人間はほんの一摘まみ。その下にはそうならなかった人間、そういう未来を夢見て人に騙され使い捨てられた人間の死体の山がある。

 小熊は拓を本業の保険の無いリスクまみれの仕事をやらせる気にはなれなかった。後藤だって配信でサラリーマンの給与以上の金を稼ぎつつ電子機器流通の仕事をやめていないし、配信で金を得ている人間の大多数は堅い本業を持っている。

 なんだか自分には全く畑違いな事を考えていると、飲んだ炭酸のせいか頭が痛くなってくる。

 小熊はスパークリングウォーターの青いガラス瓶とピザの紙皿を片付け、家を出てコンテナガレージに入った。

 外はもう暗くなり始めている。かけっぱなしのラジオからは交通情報が流れ、アナウンサーは幹線道路の渋滞と帰路の安全運転を呼びかけている。

 小熊は煌々と照らされたコンテナの中であとは組み立て《セットアップ》と試走を残すだけになったビーノの部品の前で、作業準備を始めた。

 NHK-FMは家に帰るドライバー向けの軽薄なポップスを流している。今は世に多く居る善行に励む人達が仕事や学業を終えて家に帰る時間なんだろう。

 ならば、これからの時間は普通でない人間、悪い事をする人間の時間の始まりだ。

十七歳でバイクに乗り始めて以来、小熊はずっとそっち側に居る。

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