第36話 解体
自宅を前に引き返した小熊はカブを飛ばし、拓が滞在しているネットカフェに向かった。
私鉄で小熊の家や大学の最寄り駅の隣。夕方の混雑した時間でも十分もかからなかった。
ネットカフェ地下の駐輪場にカブを駐める。つい先ほど小熊や春目のカブと一緒にワイヤーロックしていたビーノに、拓が持っていたらしきチェーンロックがかけられている。
このビーノを盗まれでもすれば拓の生活が崩壊する。小熊はそうならない手助けをしたいと思った。
崩壊を防止するために解体するなんて、火災が燃え広がらないように家を壊す破壊消防みたいだと思ったが、少なくとも二度と取り戻せない物を守るという目的は共通していると思った。
店に入り無人の受付でスマホに入った会員証を使ってログインする。勢いに任せて来てしまったが、連絡先すら交換していない拓を見つけられるのか少し不安になった。
個室スペースには中の様子が伺える窓がついているが、利用者の多くは窓に服やタオルをかけて目隠しをしているというのは先ほど見たばかり。
拓の連絡先を知っている春目に頼ろうと思って小熊がスマホを取り出した頃合いに、拓はあっさり見つかった。
拓はシャワーを浴びていたらしい。さっきまでとは違うデニムパンツに袖を短く切ったスウェットシャツ姿。短い黒髪に化粧っ気の無い顔だが、高校生時代は自転車でかなり遠くの街の古本屋まで行き、今も主に入浴目的で利用しているという二四時間営業のフィットネスクラブでよくマシントレーニングをしているという均整の取れた体は健康的な色気を感じさせる。
拓も小熊の姿を認め、快活な笑顔を浮かべて軽く手を挙げる挨拶をする。
「小熊さん、今日はネットカフェ泊ですか?」
小熊は自分が愛想笑いをするほど愛想のある人間だとは思っていなかったので、特に表情を変えないまま拓に言った。
「あのビーノをしばらく預からせて欲しい」
彼女の健全なように見える生活、小熊はその一層下に潜む危険要素を解体するためにここに来た。
拓は小熊を見つめ、それからレストランスペースを見ながら言った。
「シャワー上りのコーラを飲ませてください、いつもそうしているので、その後でいいですか?」
小熊は頷き、ドリンクバーを見ながら答える
「わたしが入れて来る、氷抜きのほうがいいんだったかな」
小熊にも人並みの観察眼くらいはある。特に返事を聞かずドリンクバーに向かい、二人分の冷たいコーラをグラスに注いだ。
グラスを両手に持った小熊が拓の待つ席に向かう、コーラをテーブルに置くと、拓は小熊が席に着くのを待たず、グラス三分の一ほどのコーラを一気に飲んだ。
拓が幸せそうににコーラを飲むのに釣られて、小熊もコーラを飲む。今日のように夏の終わりつつあることが信じられないほど暑い日に飲むと美味い。
話の切り出し時が読めなかった小熊はグラスをいじりながら言った。
「もし春目がこんなもの飲んだら、贅沢すぎて目を回すかもしれない」
拓は笑いながらオレンジ色のネイルが塗られた指でグラスに触れ、中で弾けては消えるコーラの穴を見つめながら言う
「はるちゃんも以前はコーラをよく飲んだそうですよ、ポスティングの仕事中に倒れないために、糖分が多くて利尿作用の無い飲み物は必須で、そういう時はコーラを買って飲んだそうです。安くまとめ買いして家から持って行ったりすると、コーラ一缶の重みが体力を削ったり、転んだ時にポケットに入れたコーラ缶で怪我したりするので、ポスティング中に自販機で買っていたそうです」
大学に入ってからそれなりに話をしたと思っていた春目の、小熊にも知らない話。人と人の関係の濃さは時間じゃないと思った。きっとつい最近友達になったという春目と拓は、互いの心を見せ合う時間を過ごし、春目はたとえ思い出すのに痛みを伴う記憶でも、それが拓のためになるなら共有しようとしている。
拓はコーラを一口飲み、大量に入った砂糖の底にある苦味を味わうように飲み下しながら言った。
「私も次に小熊さんにお会いした時、ビーノをお渡ししたいと思っていました、小熊さんの言っていた私の生活の破壊と再構築のために」
小熊がここに来た理由は、拓の今の暮らしを解体するという、あまり聞こえの良くない言葉について補足説明するためだったが、どうやら不要なようだった。
拓は小熊の発した言葉の真意をわかっていて、彼女なりに危惧している。それは拓の生活から色々な物を切り離すべく動こうとする小熊に最低限の警告だけをして、それ以上何もせず連絡さえ寄越さない春目も同じなんだろう。
ならば自分に出来る事をやるだけだと思った小熊はコーラを飲み干して席を立った。拓も残っていたコーラを、まるで甘ったるい今の暮らしの最後を味わうように飲み、強い意志を窺わせる仕草で立ち上がった。
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