第6話 原付の初心者
カフェダイナースタイルの学食を出た小熊は、炎天下の大学構内を歩いた。
原付の初心者なら、広く道路状態が良好で、歩行者や自転車、大学構内でよく見かける電動の新基準原付の少ない場所を走ろうとする。
原付は他の移動物が作る流れに対し脆弱。三〇kmの速度制限は車から邪魔者扱いされ、原付より移動速度の遅い物の多くが交通における優先権を有しているため、接触や妨害をしてはならない。
小熊もかつては原付の初心者だった。勾配を問わず自転車より速い速度を維持出来るカブの移動能力には感嘆させられたが、原付とは異なる速度域を走る自動車や原付二種と混じり合って幹線道路を走るのは恐怖や心労を伴うもので、結局原付免許取得の翌々月に稼ぎをつぎ込んで普通二輪免許を取得し、カブのエンジンを加工して原付二種に登録変更した。
春目がカブに乗り始めて間もない初心者なら、大学敷地の表門から裏門を結ぶメインストリートを走るはず。そう思った小熊は、広い構内道路を外れ、講堂の間を抜ける細い道へと向かった。
春目が普通の原付初心者と異なるのは、原付を扱う技量に関しては小熊を大きく上回る事。
車体の幅をミリ単位で把握していそうな感覚でギリギリの隙間を抜けたり、タイヤの限界を熟知しているからこそ可能な傾斜地の走行技術に関しては。小熊が直で確かめている。春目は自宅で突然の病に罹った小熊を後ろに乗せて、公道にを無視した経路で町田北部の山岳地帯を駆け抜けて救急車より速く病院まで届けてくれた。
春目は十代の頃、大規模災害で両親を亡くし小熊と同じく孤立無援になったが、親の扶助が受けられない未成年を福祉に繋げる公的機関の怠慢で、労働環境良好とはいいかねる歩合制のポスティング会社で生きるために働く事になり、そこで原付二種に乗って行う各戸ポスティング業務に高い技量を発揮しつつ、社が受注した従業員数に見合わぬ仕事の帳尻を合わせるために酷使された結果、親友を喪い心身に傷を負い、大学サークル主宰の竹千代に拾われるまで最低の暮らしをしていた。
大学で春目と出会った小熊は、価値観の違いから友情と呼べるような関係を構築することは出来なかったが、命を助けて貰った恩は返さなくてはいけないと思い、高校時代に乗っていたカブを譲渡した。
小熊が事故で廃車になった車両を自宅ガレージの設備を使いたいという気持ちで修復したカブを春目は受け取ってくれたが、彼女はポスティングの仕事で体に馴染み、そして自分を傷つけて友達を奪ったカブを自宅アパート敷地内でしか乗ろうとしなかった。
彼女の趣味で食い扶持である道端に遺棄された不用品の回収と野草採集。そしてこの大学までの通学なら老朽した自転車で足りているし、彼女はそれ以上の恩恵を求めてはいない。
早歩きで大学構内で歩いていた小熊は、いつの間にか走っていた。汗が滴りTシャツを汚す事に関しては気にしていてもしょうがない。
自分のカブを所有して日が浅く、しかしカブの扱いに関しては決して素人じゃない春目がカブに乗っている。
あれだけカブに乗る事を拒んでいた春目がカブに乗っているからには、ただの散歩じゃない。何らかの目的を持って走ってる事は、一瞬見えた姿だけでもわかる。
春目が自分の意志でカブに乗って行こうとしている場所は小熊にも察しがついた。大学敷地の西側。武蔵野原生の森林が植林でビオトープ的に再現された人工的な森の奥。
大学構内ながら未舗装で、原付初心者なら木の根やぬかるみにタイヤを取られすぐに転倒してしまいそうな道の奥に、大学キャンパス建築のために作られた作業員用の宿舎を取り壊す事無く占拠したというプレハブの建物がある。
この大学で節約と節制を重んじ、そのためしばしば触法ギリギリの活動を行う。小熊が現在入部はしていないが頻繁に出入りしている大学サークル。
セッケンの部室棟の前に、春目のカブが駐められていた。
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