第3話 キャンパス
大学というのは不思議なところだと思った。
来いと言われているわけでもないのに自然に人が集まる。
義務教育の小中学校、日本では事実上義務教育の高校は少なくとも小熊と周囲の人間にとって強制的にに行かされる場所で、気まぐれに夜通しのカブ散歩をしている時や、朝目覚めてバイクに乗らないのがもったいないくらいの晴天に恵まれた時など、小熊は何度高校生という不自由な身分を恨んだかわからない。
同級生の椎も、時差のあるヨーロッパでのサッカーやフットサルの試合を好んで見ているせいか、ちょうど試合のいいところで学校に行かされた時など、スマホにかじりつきながら学校の外をにらみ、「ここから出して!」と悲鳴を上げていた。
小熊の目には高い塀や鉄条網は見えなかったが、高校生という身分からドロップアウトした人間に対する世間の厳しさという、見えない檻が見えた気がした。
週が明けてとりあえずやる事の見つからない小熊は、朝食を取ることなく一杯のお茶を飲み、スイングトップの上着を羽織りカブ90のエンジンをかけた。
何の用もないのに、どこにも行くところが無いので大学に向かった。
あれだけ行きたくなかった大学に好きこのんで行こうとする。カブを駐輪場に駐めてキャンパスの門をくぐると、同じような大学生が何人も居た。
大学が自由意志で通う学究の園である限り、休日も何もない研究や論文執筆でゼミの教室や研究室に日参、あるいは泊まり込みをしなくてはいけない人間は、この公立大学にもそれなりに居るが、小熊の見る限り、どうやらそうでもなさそうな男女のほうが多い。
部屋着と見分けのつかないだらしない恰好で冷房のついた教室や図書室に逃げ込もうとしている奴、単に待ち合わせの場として大学を利用し、学食で安上りなデートをしようとする男女。何か得体のしれない造形物をサークル棟に運んでいる学生や、これから多摩や丹沢の山道に挑もうとしているのか、ロードレーサータイプの自転車に乗った一団も居た。
自分もそんな暇人たちの一人なんだろうかと思いながら、小熊は大学の私鉄駅側にある正門から見て裏手にある、緑豊かな公園道路に面したログハウススタイルの学食に向かい、ドアを開けた。
「おはよう、ウェンディ」
赤い髪にアイスブルーの瞳を持つ店員が、小熊を迎えた。
ドアが開いた瞬間に見せた接客向けの笑顔が、失敗した自炊料理を見るような目になった。
「何しに来たの?」
まだ何も物が飛んできていないので、ウェンディの機嫌は悪くないと察した小熊は、自分では魅力的だと思ってる笑顔を浮かべながら言った。
「最高の朝食を食べに来た」
小熊の顔面にウェンディの持っていたテーブル拭き用の布巾が飛んできた。
少しご機嫌斜め、でもこういうのは滑り始めたタイヤと同じ、まだ姿勢制御と荷重移動をうまくやれば
ウェンディが布巾をひったくり、窓際の二人席を乱暴に拭いた。
ここに座っていいという意味だと判断した小熊は席につく、ウェンディは小熊を見下しながら非常に不機嫌な表情で言った。
「ブレックファストと夜明けのコーヒーなら、あのピンクのカーディガンの子と食べればいいじゃない、こんなとこよりずっと美味しいパイを出す店でね」
小熊には最近、吉村南海という友達が出来たが、高校生の南海は筆記という単純作業以外なんの意味も持たない夏休みの宿題と、最近出入りするようになった本郷の国立大学での論文執筆に忙しい様子。
小熊は数日前、連日の作業で少し疲れ気味の南海に誘われ、双方の家から徒歩で行ける南大沢駅前のペイストリー・カフェでラズベリーのパイを一緒に楽しでいる所を、駅前のタワーマンション寮に帰るところだったらしきウェンディに目撃され、メタンハイドレートのように冷たい瞳で睨まれたばかり
ウェンディの印象を少しでも良くしようとと思ってこのカフェに来たが、どうやら配られたカードはあまり有利ではないらしい
「ここのミートパイは世界一だと思っているよ」
小熊が彼女を見ながら言った言葉には、現状を維持出来る程度の効果はあったらしい。ウェンディは踵を返して背を向けながら言った。
「最低なあんたにふさわしい朝食を作ってやるから、大人し待ってなさい」
キッチンに消えていくウェンディをみながら、小熊はこれから出てくるであろう刑務所のような飯をどう誉めればいいのか考えていた。
ウェンディに褒めるところが無いわけではない、ただ創作に携わる人間が一生に一度だけ会うと聞く神に製法を教えて貰った彫刻師や画家の仕事のような完全な造形を褒める言葉が小熊の語彙では思いつかないだけ。
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