第四話 調和の響き

 最後の壁画が描かれた石の扉の向こうは、静寂と、そして青白い光に満ちていた。

 三人が足を踏み入れたそこは、遺跡の中心部「沈黙の石室」。

 壁も床も、全てが継ぎ目のない一つの巨大な水晶でできており、それ自体が淡い光を放っている。


 そして、その広間の中央に、全ての元凶は鎮座していた。


 天を突くほどの巨大な、音叉のような形をした水晶。

 それが、あの眠りへと誘う「歌」の源だった。

 水晶は、絶え間なく、しかし不規則に振動し、そのたびに、キィン、という心を掻き乱すような高周波の音と、何百もの魂が泣き叫ぶかのような悲痛な歌声を、周囲の空間へと放ち続けている。

 その表面には、壁画で見たあの禍々しい黒い石が、まるで心臓のように埋め込まれ、脈打つように明滅を繰り返していた。


「…ひどい…」

 リィナは、そのあまりに強大な悲しみの奔流に、思わず胸を押さえた。

 ここにいるだけで、魂がすり減っていくようだ。

「あれが、歌の発生源か」

 ゴリンは、技師としての目で、巨大な水晶を分析した。

「構造は、ドワーフが使う音叉槌に似ている。だが、規模が桁違いだ。あの黒い石が、この水晶に異常な振動を与え、魂の悲しみを共鳴・増幅させている。あの振動を止めない限り、歌は鳴り止まない」

「止めるには、どうすればいいの…?」

 ライラは、弓を握りしめながら、ゴリンに問いかけた。

 彼女のクールな表情にも、隠しきれない焦りの色が浮かんでいる。

「方法は、一つしかない」

 ゴリンは、水晶の根元、床と一体化した巨大な台座を指差した。

 台座には、古代ドワーフの文字で、いくつかの小さな紋様が刻まれている。

「この紋様…古代の文字で、俺には読めん。だが、その刻まれ方、深さ、そして配置…これはただの装飾じゃない。巨大な鐘を鋳造する時や、大聖堂の柱を据える時に、共鳴点を制御するために刻むものと、原理が同じだ。あれは、調律用の刻印だ。正しい順番で、正しい力の強さで叩けば、水晶の振動を相殺し、調和させることができるはずだ。だが…」 彼は、悔しげに唇を噛んだ。

「今のこの水晶は、ただの物質ではない。何百という魂の悲しみが、内部で不規則な振動を引き起こしている。例えるなら、無数のひびが入ったグラスのようなものだ。叩くタイミングを間違え、振動が最大になった瞬間に槌を打てば、共鳴が一気に暴走し、水晶は粉々に砕け散るだろう。そうなれば、この森全体が、解放された呪詛に飲み込まれる…」

 ゴリンの論理が、初めて限界を告げた。

 その時だった。

「…私に、歌わせて」

 ライラが、静かに、しかし強い意志を込めて言った。

 エルフの民には、古くから伝わる特別な歌がある。

 それは、理屈ではない。

 森の木々や傷ついた動物たち、その魂に直接語りかけ、その苦しみを鎮めるための、癒やしの力そのものだ。

「石の調律があなたにしかできないのなら、魂を癒すのは、私の役目よ」

 彼女は、ゴリンの目を真っ直ぐに見つめた。

「私が歌で魂を鎮める。その一瞬の静寂の中で、あなたが、水晶の音を調律するの。できる?」

「…無茶を言うな」

 ゴリンは、即座に否定した。

「お前の歌が、魂の振動を完全に鎮められる保証などどこにもない!それに、タイミングがコンマ一秒でもずれれば、全てが終わりだ。そんな博打、打てるわけが…」

「博打じゃないわ」

 ライラの声は、静かだった。

「信頼よ。私は、あなたの技術を信じる。だから、あなたも、私の歌を信じ なさい」

 二人の間に、張り詰めた沈黙が流れる。

 ゴリンの脳裏に、眠り続ける師、バリンの顔が浮かんだ。

 自分のプライドも、常識も、もはや何の役にも立たない。

 今、目の前にあるのは、自分にはない力を持つ、一人のエルフの、揺るぎない瞳だけだった。

「…分かった」

 ゴリンは、ついに折れた。

「だが、一つだけ約束しろ。俺の合図があるまで、絶対に歌うな。そして、俺が『歌え』と言ったら、たとえ何が起ころうと、歌い続けろ」

「ええ、約束するわ」

 作戦は決まった。

 リィナは、二人が儀式に集中できるよう、広間の入り口で、万が一の事態に備えて結界を張る。

 ゴリンは、巨大な水晶の台座の前に立った。

 彼は、常に腰の道具袋に入れている、最も精密な仕事道具一式を取り出した。

 それは、岩盤や巨大な石材の内部構造を、その反響音で診断するための、小さな音叉と、先端に様々な鉱石を取り付けられる特殊な打診槌だった。

「いいか、ライラ。刻印は全部で七つ。俺が槌で叩くたびに、水晶の音色は変わる。お前は、その音色に合わせて、歌の調子を変えろ。魂の叫びが、最も静かになった瞬間が、次の刻印を叩く合図だ」

「…分かったわ」

 ゴリンは、大きく息を吸い込むと、最初の刻印に、槌を振り下ろした。

 カーン、という、硬質で、しかしどこまでも澄んだ音が響き渡る。

 水晶の歌声が、ほんのわずかに、その悲しみの色を薄めた。

「今だ、歌え!」

 ライラは、目を閉じ、歌い始めた。

 それは、森の木々を癒すための、古いエルフの歌。

 彼女の澄んだ歌声が、水晶の悲痛な叫びに、優しく寄り添っていく。

 水晶に囚われた魂たちが、その歌声に気づいたかのように、その叫びを、ほんの少しだけ和らげた。

「次だ!」

 ゴリンが、二つ目の刻印を叩く。

 今度は、少しだけ低い音が響き、歌声の乱れが、さらに収まっていく。

 ライラも、その音に合わせて、歌の旋律を、より穏やかなものへと変えていく。

 三つ目、四つ目と、ゴリンの槌が正確に刻印を叩き、ライラの歌がそれに呼応する。

 二人の呼吸が、寸分の狂いもなく、一つになっていく。

 ゴリンは、もはや計算で槌を振るってはいなかった。

 彼は、ライラの歌声を通して、水晶に宿る魂の「痛み」を、その肌で感じていた。

 ライラもまた、ゴリンの槌音を通して、水晶が求める「調和」の響きを、その魂で理解していた。


 だが、儀式が佳境に入った、その時だった。

 あの黒い石が、最後の抵抗を始めたのだ。

 水晶の内部に、黒い石が禍々しい光を放ち、これまで鎮まりかけていた魂たちを、再び暴走させる。

 ライラの歌声が、苦痛に乱れた。

 魂たちの、増幅された絶望が、彼女の精神を直接攻撃する。

「ライラ!」

 ゴリンが叫ぶ。

 彼女の歌が乱れれば、調律も失敗する。

 ライラは、膝をつきそうになるのを、必死に堪えた。

「二人とも、しっかり!」

 その時、広間の入り口で結界を維持していたリィナの声が響いた。

「あなたたちだけじゃない!私も、ここにいる!」

 彼女は、大地に手を当て、自らの持つ全ての力を、床を通して二人へと送り込んだ。

 それは、戦闘の力ではない。

 ただ、仲間を信じ、支えようとする、温かい、生命の力だった。

 その力が、ライラの心を支え、彼女の歌声に、再び力を与えた。

 途切れかけたライラの歌声が、最後の力を振り絞るように、ひときわ高く、そして力強く響き渡った。

 それは、もはやただの歌ではない。

 魂を鎮め、闇を祓う、一筋の光の矢。

 ゴリンへと託された、渾身の合図だった。

 ゴリンは、迷わなかった。

 彼は、最後の七つ目の刻印に、全ての信頼を込めて、調律槌を振り下ろした。


 キィィィィン……!


 これまでとは比較にならないほど、清らかで、美しい音が、神殿全体を震わせた。

 水晶の中心で禍々しく輝いていた黒い石に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、甲高い音を立てて砕け散る。

 呪詛の源が消え失せ、水晶に囚われていた魂たちの悲痛な叫びは、完全に沈黙した。


 そして、その静寂の中から、一つの、新しい歌が生まれ始めた。

 それは、もはや悲しみの歌ではなかった。

 数百年もの間、囚われていた苦しみから解放された、魂たちの、感謝と、安らぎに満ちた、穏やかで、優しい子守唄だった。

 水晶は、青白い光から、温かい黄金色の輝きへとその色を変え、その歌声は、遺跡全体を、そして森全体を、優しく包み込んでいった。



 遺跡の中心部、「沈黙の石室」には、穏やかな静寂と、温かい光だけが満ちていた。

 ゴリンとライラ、そしてリィナは、その光景を、言葉もなく見つめていた。

 極度の疲労と、そして達成感が、三人の体を包む。

「…見事な、歌だった」

 やがて、ゴリンが、隣に立つライラに、ぽつりと言った。

「あなたの槌の音も、悪くなかったわ」

 ライラも、静かに、そして誇らしげに答えた。

 二人の間に、もはやいがみ合いの空気はない。

 そこには、全く異なる力を持つ者同士が、互いを認め、一つの奇跡を成し遂げたことへの、静かで、しかし確かな、絆が生まれていた。


 三人が、疲れ果てた体を引きずるようにして遺跡の外に出た時、空は朝焼けに染まり始めていた。

 森に響き渡っていた悲痛な歌は完全に消え、代わりに、鳥たちの祝福のようなさえずりが、彼らを迎えた。


 ドワーフの野営地では、奇跡が起きていた。

 眠り病に倒れていたドワーフたちが、一人、また一人と、穏やかな寝息から、ゆっくりと目を覚まし始めていたのだ。

「…あれ…俺は、何を…?」

 ゴリンが野営地にたどり着くと、仲間たちが、何が起きたのか理解できないといった様子で、呆然とテントから出てくるところだった。

 ゴリンは、言葉もなく、師であるバリンのテントへと駆け込んだ。


 最後に目を覚ましたのは、老ドワーフのバリンだった。

 彼は、心配そうに自分を覗き込むゴリンの顔を見ると、その節くれだった手で、弟子の頭を、少しだけ乱暴に撫でた。

「…馬鹿弟子が。そんな泣きそうな顔をしおって」

 ゴリンの目から、こらえきれなかった涙が、一筋、流れ落ちた。

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