第三話 石壁の記憶
「三賢者の扉」の向こうは、下り階段になっていた。
ひんやりとした空気が、まるで遺跡の深いため息のように、三人の肌を撫でる。
一歩、また一歩と闇の中へ進むにつれて、あの奇妙な「歌」が、先ほどよりも強く、そして鮮明に聞こえ始めた。
それはもはや、ただの音の連なりではない。
一つ一つの音色に、明確な悲しみの感情が、言葉にならない言葉として込められているかのようだった。
階段の先には、巨大な円形の広間が広がっていた。
天井には、今はもう輝きを失った巨大な水晶がいくつも埋め込まれ、かつてはこの場所を明るく照らしていたことをうかがわせる。
そして、広間の壁一面に、三人の目を奪う光景が広がっていた。壮大な壁画だ。
顔料はほとんど色褪せ、所々が大きく損傷している。
だが、そこに描かれた物語は、数百年という時の流れを超えて、今もなお、見る者の胸を強く打つ力を持っていた。
「…信じられん」
最初に声を漏らしたのは、ゴリンだった。
彼は技師としての探究心から、壁に近づき、その表面を食い入るように見つめた。
「この壁画、ただの顔料で描かれたものではない。鉱石を微粒子レベルまで粉砕し、特殊な樹脂で練り上げて石に直接染み込ませている。だから、これだけの時を経ても、輪郭が消えずに残っているんだ。こんな技術、我々ドワーフのどの文献にも記されてはいない…」
「技術だけではないわ」
ライラは、壁画全体を見渡せる場所に静かに佇んでいた。
彼女は、ゴリンのように細部を分析してはいない。
ただ、壁画全体から発せられる、巨大な感情の渦を、その魂で感じ取っていた。
「この絵は、泣いている。描いた者たちの、あまりに深い悲しみが、今もこの石の中で、涙を流し続けているのよ」
リィナは、二人の間を行き来しながら、壁画の物語を、一つ一つ、ゆっくりと目で追っていった。
最初の壁画に描かれていたのは、平和な森と、雄大な山々だった。
エルフが木々と戯れ、ドワーフが陽気に鉱石を掘る。
その隣で、人間たちが畑を耕し、ささやかな王国を築いている。
だが、その平和は、次の壁画で無残に打ち砕かれていた。
人間たちの王国が、勢力を拡大し、森を焼き、山を削り始めたのだ。
エルフとドワーフは、故郷を追われた。
燃え盛る森、崩れ落ちる坑道、そして、嘆き悲しむ人々の姿。
その描写は、あまりに生々しく、三人は思わず息を呑んだ。
「…嘘だろ」
ゴリンの口から、呻き声が漏れた。
壁画には、故郷を追われたエルフとドワーフの生き残りが、この「眠りの森」で出会う場面が描かれていた。
彼らは、互いの傷ついた姿を見て、憎しみ合うのではなく、ただ静かに、互いの悲しみを分かち合っていた。
そして、彼らが手にしていたのは、武器ではなかった。
エルフは若木を、ドワーフは槌を手に、失われた故郷と、犠牲になった同胞たちのために、何かを「創り」始めようとしていた。
「この遺跡は…」
ライラの声が、震えていた。
「エルフとドワーフが、協力して建てたもの…? そんな歴史、私たちのどの伝承にも残ってはいないわ…」
三人は、まるで何かに導かれるように、次の壁画へと進んだ。
そこには、この「鎮魂碑」の建設風景が、克明に描かれていた。
ドワーフが寸分の狂いもなく石を切り出し、エルフがその石に癒やしの魔法をかけて、森と調和させる。
彼らの顔に、もはや絶望の色はない。
失われた者たちへの祈りと、新しい未来への希望が、その横顔を照らしていた。
「見てください…」
リィナが、壁画の一点を指差した。
そこには、幼いエルフの子供に、屈強なドワーフの男が、小さな木の彫刻を渡している姿が描かれている。
子供は嬉しそうに笑い、ドワーフの男も、その無骨な顔を、不器用にほころばせていた。
「…あり得ん」
ゴリンは、その光景から目を逸らした。
彼が教えられてきた歴史では、エルフとドワーフは、互いを決して理解できない、相容れない存在のはずだった。
だが、この壁画が描いているのは、彼が信じてきた歴史とは全く異なる、温かい「共存」の姿だった。
そして、三人は、最後の壁画の前にたどり着いた。
それは、広間の最も奥に描かれ、他のどの壁画よりも大きく、そして、最も損傷が激しいものだった。
描かれているのは、完成した鎮魂碑の中心で、エルフとドワーフの長老たちが、最後の儀式を執り行っている場面。
彼らの前には、巨大な音叉のような水晶が置かれ、そこから、天へと続く穏やかな光の柱が放たれようとしていた。
犠牲になった者たちの魂を浄化し、天へと送るための、希望の光。
だが、その神聖な儀式の片隅に、三人は、一つの、あり得ないものを発見した。
ローブで顔を隠した、一人の人物。
その人物は、誰にも気づかれぬよう、儀式の中心である水晶の台座に、何か黒い、禍々しい紋様の描かれた石を、そっと埋め込もうとしていた。
「…誰だ、こいつは…」
ゴリンが、低い声で唸る。
次の壁画で情景は一変した。
穏やかだったはずの光の柱は、渦を巻く絶望の奔流へと変わり、天へと昇るのではなく、逆に、その場にいたエルフとドワーフたちの魂を、叫び声と共に水晶の中へと吸い込んでいく。
壁画の最後には、嘆き悲しむ生存者たちと、彼らの背後で、ただ静かに、そして禍々しく「歌」を奏で始めた、巨大な水晶の姿だけが残されていた。
「…これが、真実…」
ライラは、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えた。
「この遺跡は、呪われてなどいなかった。誰かの悪意によって、鎮魂の祈りを、永遠の呪詛へと変えられてしまったんだわ…」
リィナは、大地に手を当てた。
「だから、大地は歌っていたんですね…。忘れられてしまった、この悲しい真実を、誰かに気づいてほしくて…」
「妨害された儀式…」
ゴリンは、壁画に描かれた、あの黒い石を睨みつけた。
「あの石が、今も、あの水晶の中で、悲しみを増幅させ続けている元凶だ。あれを取り除かない限り、歌は止まらない。眠った仲間たちも、目を覚ますことはない」
三人の間に、重い沈黙が流れた。
彼らが向き合っているのは、単なる遺跡の謎ではない。
数百年もの間、封印されてきた、裏切りと悲しみの歴史そのものだった。
その時だった。
三人が最後の壁画の真実を理解したことに呼応するかのように、遺跡の奥から、これまでとは比較にならないほど、強く、そして悲痛な「歌」が、奔流となって彼らに襲いかかってきた。
そして、最後の壁画が描かれていた石の壁が、ゴゴゴゴ…という地響きと共に、ゆっくりと、奥へと開かれていった。
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