第二話 三賢者の扉

 遺跡の巨大な石の門は、三人が近づくと、まるで水面のようにその表面を揺らめかせた。

 そして、音もなく、内側へと静かに開かれていく。

 門の向こうにあったのは、数百年、あるいは数千年もの間、誰の目にも触れることのなかった、地下へと続く石の階段だった。

 ひんやりとした、黴と古い石の匂いが、湿った空気と共に下から吹き上げてきて、三人の鼻腔をくすぐる。

 リィナが魔法のランタンに火を灯し、三人は慎重に階段を下りていった。

 長い階段を降りた先には、広大な空間が広がっていた。

 その空間――広大なホールの全貌を、ランタンの頼りない光がぼんやりと照らし出した。

 天井は、夜空を模したかのように高く、壁には、今はもう色褪せてしまったが、かつては壮麗であっただろうエルフとドワーフの交流を描いた壁画が残されている。

 だが、その壁画の所々は、何か鋭利なもので故意に削り取られたかのように、無残な傷跡が残っていた。

「…空気が、重い」

 ゴリンが、警戒を込めて呟いた。

 彼の声は、しんと静まり返ったホールに、奇妙に大きく響き渡る。

「ええ」

 ライラも、背中の弓に手をかけながら、静かに頷いた。

「空気が、泣いているわ。この場所で、何かとても悲しいことが起きたのね」

「また非科学的なことを…」

 ゴリンは呆れたように言いかけたが、途中で口をつぐんだ。

 眠り続ける師と仲間たちの顔が、脳裏をよぎったからだ。

 彼の信じる科学が通用しないこの場所では、彼女の直感の方が、羅針盤として信頼できるのかもしれない。

 その事実が、彼のプライドを少しだけ傷つけた。


 三人は、広大なホールを抜け、奥へと続く一本の通路へと足を踏み入れた。

 ランタンの光が、壁に彫られた古代のルーン文字を照らし出す。

 それは、この遺跡が「鎮魂の碑」であることを示す、荘厳な詩だった。

 だが、その通路の突き当たりには、彼らの行く手を阻むように、巨大な石の扉が立ちはだかっていた。

 扉は、三枚の巨大な石板を組み合わせたような構造になっており、それぞれの石板には、ローブをまとった賢者の姿が彫られている。

 左の賢者はコンパスと定規を、右の賢者は竪琴と若木を、そして中央の賢者は天秤を手にしていた。

「三賢者の扉…」

 リィナが、ごくりと息を呑んだ。

「開かずの扉、という伝承が、王都の古い書物に残っていました。知恵と、心と、そして均衡。その三つが揃わなければ、永遠に開くことはない、と…」

「ふん、要はただの仕掛け扉だ」

 ゴリンは、すぐに技師の顔に戻っていた。

 彼はランタンを高く掲げ、扉の構造を隅々まで観察し始める。

「この扉、物理的な錠前は見当たらん。つまり、動力は魔力か、あるいは内部の歯車による圧力制御だ。この幾何学模様…寸分の狂いもない。見事な仕事だ。この模様の配列そのものが、一種の数式になっているに違いない。この数式を解けば、扉は開くはずだ」

 彼は、懐から羊皮紙と炭を取り出すと、その場で複雑な計算を始めた。

 カリカリ、という炭の音だけが、静寂に響く。

 一方、ライラは、ゴリンのそんな姿には目もくれず、扉にそっと近づいた。

 そして、右の石板、竪琴を持つ賢者の像に、静かに手のひらを当てた。

「…聞こえる?」

 彼女は、石に宿る精霊に、囁きかけるように問いかけた。

「あなたたちは、何を望んでいるの?なぜ、この扉を閉ざしているの?」

 彼女の意識が、石の冷たさの奥にある、微かな記憶の残滓へと、深く潜っていく。


 数十分後、ゴリンが「分かったぞ!」と叫んだ。

「この模様は、古代ドワーフの暗号数学だ!この中央の円盤を、左に三回、右に一回半、そして最後に月が満ちる角度まで回せば、内部の歯車が噛み合い、扉は開く!俺の計算が間違っていなければな!」

 彼は、自信満々に扉の中央にある石の円盤に手をかけ、計算通りに動かした。

 ゴゴゴ…と、重々しい石の擦れる音が響き、扉が動くかと期待された、その瞬間。

 カチリ、と小さな音がして、円盤は固くロックされ、動かなくなった。

「なっ…!馬鹿な!計算は完璧なはずだ!」

 ゴリンが、激情に駆られて円盤を力任せに揺さぶるが、びくともしない。

「あなたの計算は、石の心を無視しているからよ」

 その時、扉に手を当てていたライラが、静かに言った。

「この扉は、怒っているわ。無理やりこじ開けようとする、あなたの傲慢さに。この扉が開くのは、歌に、心が通じた時だけ」

 彼女はそう言うと、竪琴を持つ賢者の前で、澄んだ声で歌い始めた。

 それは、森の木々を癒すための、古いエルフの歌だった。

 彼女の歌声がホールに響き渡る。

 すると、扉の表面が、彼女の歌声に共鳴するかのように、淡い緑色の光を放ち始めた。「ああ…!」

 リィナが、感嘆の声を上げる。

 だが、光はそれ以上強くなることはなく、やがて、ふっと消えてしまった。

「なぜ…?」

「歌だけでは、駄目だということだ」

 今度は、ゴリンがライラを嘲笑う番だった。

「お前のその、根拠のない直感とやらも、役には立たなかったようだな!」

「なんですって!?あなたの、石ころしか見ていない石頭よりは、ずっとマシよ!」

「何だと、この葉っぱ頭め!」

「あなたこそ、この石ころ頭!」

 二人の間に、再び険悪な空気が流れる。リィナは、頭を抱えた。

(どうしよう…このままじゃ、本当に喧嘩になっちゃう…)

 彼女は、二人の口論からそっと離れると、扉の中央、天秤を持つ賢者の像の前に立った。

(この人が、一番偉いのかな…。きっと、お腹が空いて、機嫌が悪いのよ)

 彼女の思考は、良くも悪も、常に素朴で、実直だった。

 彼女は、鞄から、故郷の母が持たせてくれた、非常食用の大きな木の実を一つ取り出した。

「あの…どうぞ。お供え物です。どうか、この先の道をお開きください」

 そして、天秤の賢者の足元にあった、杯のような小さなくぼみに、そっとその木の実を置いた。

 その瞬間、カチリと小さな音がしてくぼみが沈み込んだ。


 ゴゴゴゴゴゴゴ……!


 これまでびくともしなかった巨大な扉が、地響きのような音を立てて、ゆっくりと、そして確実に、内側へと開かれていく。

「「え…?」」

 口論していたゴリンとライラが、信じられないというように、その光景を呆然と見つめている。

 リィナが置いた木の実が乗ったくぼみこそが、扉を開けるための、唯一の仕掛けだったのだ。

 それは、ゴリンの複雑な計算にも、ライラの美しい歌にも関係のない、ただの簡単なスイッチだった。

「…う…そだろ…」

 ゴリンは、自らの計算式が書かれた羊皮紙と、開かれた扉を、何度も見比べ、その場に崩れ落ちた。

 ライラもまた、言葉を失い、ただ、きょとんとした顔で木の実を置いたリィナを見つめている。

「あ、開きましたね!」

 リィナだけが、状況を理解せず、満面の笑みで言った。

「きっと、賢者様がお腹が空いていたんですよ!よかったですね、お二人とも!」

 そのあまりに天然な結論に、ゴリンとライラは、互いに顔を見合わせ、深いため息をつくことしかできなかった。

 三人の間には、これまでとは全く質の違う、奇妙で、そしてどこか滑稽な空気が流れていた。

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