暗黒微笑のファントム

Sora Jinnai

ファントムのレクチャー

 今日も猛暑におそわれた関東は夕方の空に黒雲をまきあげて、雨脚を強めている。

 駅前のスクランブル交差点はごったがえしだ。帰りがけだったり、繁華街へ向かっていたり、あるいは夜職に向かう人々が四方八方で飛び出してくる。傘がぶつかり重なり、赤い点滅が終わる頃にようやっと渡りきる。だが、その先でも道幅いっぱいに人が往来し、いつしか前にも後ろにも進めなくなる。雨の一粒で都会は大渋滞だ。


 ビルの大型ビジョンは明日の天気を映している。雨マークが連続し、午前八時から一転して快晴の予報だ。三十九度の表示は、見る者の表情を強張らせるに十分だった。

 画面が切り替わり、アナウンサーが神妙にかしこまる。「南米での悲劇から一年」とテロップが浮かぶ。


〈バルベルデ共和国で復興作業をしていた自衛隊が、テロリストと戦闘状態に突入した事件から今日で一年です。一条寺総理は官邸での記者会見で追悼ついとうの意を示しました。〉


〈尊い命を落とされた自衛隊員の方々、そして現地で犠牲となられた人々に対し心より、お悔やみ申し上げます。そのような中での不意の襲撃、卑劣な暴力により、尊い活動がおびやかされることは断じて許されるものではありません。引き続き平和と、安定のための国際的な取り組みに責任をもって、関わっていく所存でございます。〉


 発言に一文ずつカットがはさまる。総理大臣は台本を反芻はんすうするように不自然なリズムで締めくくった。公に見せる悲しみは演説と同じ「仕事」なのだ。

 ニュースに耳を傾ける者はいない。大型ビジョンが濡れた地面に反射して揺れ、踏み荒らされてゆく。


 しびれを切らしたスポーツカーが勢いよくアクセルを唸らせた。同時に破裂音が鳴り響く。耳をつんざくアフターファイアに、歩行者は軽蔑の視線を向ける。


 突然バシャンと大きく波打った。

 人混みにぽっかりと穴が開く。群衆の視線の先には、中年の男性が頭を押さえて倒れている。

「ヒロ……すまない、俺が……したばっかりに」

 男は虚ろな目でうわ言を口にしていた。容赦のない雨は、男をあっという間にずぶ濡れにする。

 男の背中には悲しみがにじんでいた。まるで今降っているのは男の涙であるかのようだ。


「だいじょうぶですか」

 ついに通行人のひとりが男に声をかけた。キャップを被った青年だった。

 男がグルっと面を上げた途端、半径十メートルは暗黒に包まれた。





 午後七時三十六分、警察に緊急通報。通行人によると、駅前交差点付近で巨大なドームのようなものが発生したとのことだった。

 同時刻、警察庁は駅前の現象を「」と断定。自衛隊への連絡の後、消防庁と連携して駅前の緊急封鎖に乗り出した。

 午後八時八分、到着した警察によって道路が封鎖される。歩行者と車両が立ち往生し、交通機関にも影響を与えた。このときの経済損失は六十億円と言われている。

 午後八時二十五分、政府は「アルケメイズ対策本部」を設置。

 午後八時四十分、周辺のカメラ映像から、「アルケメイズ」の発生源は元自衛官の西山にしやま穂高ほだか(42)であることが明らかになった。西山氏は一年前のバルベルデ共和国で起きた事件で現場に居合わせ、生還した人物であることもあわせて判明した。

 午後八時五十九分、緊急編成された特殊作戦部隊が駐屯地を発つ。





 緑色のトラックが雨夜を駆け抜けていた。屋根はついているもののテントのように簡易なつくりで、外の音が漏れ聞こえてくる。

 荷台には、十二人が向かい合うように腰かけている。タクティカルベストに身を包み、もものホルスターには拳銃、肩から自動小銃を下げている。


 トラックが交差点を曲がる。スピードがついていたのか、荷台に座る兵士たちは振り回された。ひとりが目の前の兵の股ぐらに倒れこんだ。

「うわっ、すいません……」

「気にするな」


 おどおどとシートに戻る。目の前の兵は耳元に手をやった。

「アルファより各員へ。チャーリーが初仕事で緊張している。至急対応されたし」

 どっと笑いがわく。他の者たちもアルファを真似て、無線の仕草をする。

「こちらブラボー、了解」

 そう言ってブラボーはチャーリーに腕を回し、ヘッドロックをかける。チャーリーは苦笑いしながら三回タップした。


「デルタよりチャーリーへ、こういうときは映画になりきると緊張がほぐれる。どうぞ」

「こちらチャーリー、それはデルタだけです」

 再び笑いが一同をつつみこんだ。アルファの目論見通り、チャーリーの緊張はすっかりほぐれていた。しかし彼の見立てによれば、それはチャーリーに限ったことではなかった。ここにいる十二名、アルファ自身も車中で身を強張らせていた。

 当たり前だ。これから命をかけるのだから。アルファは内心怯える自分をそう納得させた。


「ほらよくあるだろ? 俺この戦いが終わったら結婚するんだ、とか」デルタは完全に調子に乗っている。

「フォックスよりデルタへ。自分はマジで来月結婚します」

「うおおおお、ホントに!? おめでとう」


 和やかな空気のなか、ひとりアルファは表情を曇らせた。作戦本部より新しい情報が入ったためだ。

「静かに。作戦情報が更新された」

 兵たちはすぐさま規律を取り戻す。チャーリーは切り替えの速さに戸惑いを隠せずにいた。

(皆ふざけているように見えて、真剣なんだ……)


 アルファはタブレットを繰りながら読み上げる。

「カメラ映像を確認したところ、付近にいた二十七名がアルケメイズに巻き込まれたことがわかった。事件発生からすでに一時間半が経ち、生存の確率は極めて低いと思われるが、生存が確認できた場合は連れて帰る」

「隊長」

 チャーリーが手を挙げた。アルファの双眸が向き直って思わずドキリとする。


「なんだチャーリー」

「生存者と発生源はどちらを優先しますか」


 アルファは厳しい面持ちになる。できることなら口に出したくはないことだ。けれど作戦指示を出す側として、ためらっていられる立場ではない。


「あくまでも我々の目的は、メイズ内にいるモンスターの対処だ。そのために発生源のが目標となる。言いたくはないが、目標達成が困難な場合は、生存者を捨て置く」


 チャーリーは手に抱える銃が重くなったように感じた。自分たちの無力さを実感せずにはいられなかった。

 それに、状況次第では発生源――なんの罪もない人を撃つことになる。なぜなら発生源はモンスターにとって心臓のようなもの。最も簡単な撃退方法だからだ。

 そうしなければ、次に死神が鎌を向けるのは自分である。いや、その程度では済まないだろう。モンスターが成熟してメイズから出たとなれば、何百、何千という被害者を生むことになる。いずれにせよ、この作戦に参加した時点で誰か死ぬのだとチャーリーは理解した。





 特殊作戦部隊を乗せたトラックが交差点に停車した。時をおかず、チャーリーたちは車両を飛び出した。

(こ、これは……)

 目の前には吸い込まれそうなほど真っ黒な半球が鎮座していた。まるで写真を現像してその部分だけハサミで切り取ったかのように、現実離れした景色が広がっていた。


「報告よりデカいな」

 チャーリーのわきでブラボーが口をつく。メイズにいるモンスターが着実に成長していることを物語っていた。


 アルファが確認をとったところ、発生時より二倍に広がっているとのことだった。メイズ内は時空が歪んでおり、現実での空間がメイズでは何倍にも膨れ上がる。このデータをスーパーコンピューター日神の計算にかけたところ、内部空間は約百六十万㎥であると算出された。

 知らせを聞いたアルファは思わず胸の前で十字を切った。チャーリーは物珍しそうに見ていた。

(隊長、クリスチャンなんだ)


 ブラボーが進み出てアルファの肩を叩いた

「作戦、中止しますか?」

「中止したところでどうにもならん。どうせ東京ドームぐらいの空間だ、無理ではないさ」

「やれるだけやりましょう。人生短いですから」


 彼ら十二名は不安を胸にしまいこみ、メイズの前に立った。これが突入前、最後のミーティングだ。

「作戦通り、一班と二班が探索。三班が入口付近で待機し、脱出経路を確保する。また、メイズの内と外では通信が行えない。よって三班は外に出て情報交換を行った後、定時報告を行うこと。そして最後に……」


 アルファはひとりひとりに目配せする。各員との出会いを思い返すようにじっくりと時間をかける。


「諸君とともに作戦に挑めたこと、心から感謝する。必ず生きて帰ろう」

「はい!」隊長の言葉に呼応するように、隊員たちの心に勇気の火が灯った。

 午後九時四十分、作戦行動開始。アルファやチャーリーら十二名がメイズ内に突入した。





 黒の帳をくぐると、凍りつくような感覚に襲われた。

 先程まで駅前にいたにもかかわらず、目の前には暗く狭い回廊が延びているのである。床には赤い絨毯が隙間なくしかれ、壁紙はツタの絡み合う有機的なデザインだ。つぼみを模した壁照明にはさまれるようにしてベルベットのカーテンが垂れている。そして鏡を向かい合わせたかのようにどこまでもそのパターンが続いていた。チャーリーはよく知らないものの、なんとなく欧州貴族の邸宅を思い浮かべた。


 ふと足元に目をやると、ところどころに水たまりができている。メイズに降り注いだ雨が床を濡らしていた。

「不気味な」チャーリーはウェポンライトを点灯し、小銃を構える。

「メイズはたいていこんなふうに暗い。行くぞ」


 一班と二班が先行し、暗闇を人工の光で切り裂いて進む。

 アルファの言葉を最後に、一同は静寂に飲まれていった。風の音ひとつしない空間では、段々と自分の音が気になり始める。水がはねたり、息を吸いこむ音さえも耳にとまる。絹擦れ音で自分の居場所は筒抜けなのではないか、と不安がつのりはじめた。


 どのくらい歩いただろうか。チャーリーは息を吐いた。

「うっ!」

 吸いこんだ瞬間、鉄のような臭気が鼻をついた。すぐに最悪な光景が頭をよぎる。ライトの先でぬらぬらと光を反射するものがある。

「隊長、これは……」

「分かっていたが、気が滅入るな」


 落ちているのは、人間の腕だ。彩られた爪からすらっと細い指がのび、前腕から上腕にかけて美しい線を描いているものの、肩の付け根辺りからブリッとちぎられていた。

「食べ残しか。行儀の悪いモンスターだぜ」

 デルタは悪趣味な皮肉をこぼす。その場にいる誰も、彼を批判しなかった。する気も起きなかった。


 と、その時。廊下の奥の暗闇が動いた。

 隊員たちは一斉に姿勢を構え、狙いをしぼる。アルファに続いて、ゆっくりと近づいていった。

「ひいぃっ」

 ライトに反応して怯えた声が響いた。見ればキャップを被った青年が腰を抜かして倒れている。

「助けて! ワニの化け物が!」

 青年は血で真っ赤だが、どこも怪我をしていないようだった。その証拠にこちらに気づくとすぐに助けを求めた。


「落ち着いてください。我々は自衛隊です」

 アルファは膝をついて手を差しのべた。目的のために被害者は見捨てると啖呵たんかを切ったものの、いざとなれば良心がブレーキをかけてしまう。


 アルファは肩ごしにブラボーを見る。判断に迷ったとき、アルファは同じく経験の深いブラボーを頼ってしまう。ブラボーはあごで来た道を指した。


 結局、青年はフォックスとともに帰すことに決めた。ふたつの影が背後に消えると、いよいよ静寂が空間を支配した。


「あれ、見てください」

 チャーリーが指を示す。廊下の突き当りが見える。そこには高さ三メートルはあるだろう扉があった。重厚な両開きのつくりで、扉から血が漏れている。

「きっとここにモンスターが……」

 アルファはまた十字を切った。大きく深呼吸をして

「行くぞ」

 扉を開くと血が流れ出てくる。ブーツ越しにぬるっとした感触が伝った。ちょうど砂浜で足に波がかかる感覚に似ていた。


 七人は扉をくぐり、目を疑った。顔を上げれば、天井が見えないほど広大な空間が広がっている。豪奢なシャンデリアが下げられ、ギラギラとえんじ色に輝いていた。先ほどまでの圧迫感が嘘のようだ。


「これは、劇場か」

 奥には広々とした舞台があり、その上でふたりの男が身を寄せ合っているのが見えた。

「ヒロ……すまない、俺のせいで」

 チャーリーはすぐに銃を下ろした。片方はアルケメイズの発生源、西山穂高だったからだ。しかし奇妙なことに、彼が抱いているのはどう見ても人形だった。西山はそれを、割れ物を扱うように優しく抱いている。


「うわぁやめろ、やめてくれ! 来るな!」

 西山が急にパニックになって体を振り回し始めた。

 いつの間にか舞台袖やスクリーンの影からワニがゾロゾロと這い出てきた。ぐわっと湿気た空気があたりを包みこむ。

「あれがワニのモンスターか」

「待て、突っこむな!」


 アルファの制止を聞かず、チャーリーは舞台に駆け上がって引き金を引いた。

「うおおおおらああああ」

 5.56mm弾の連撃がワニを蹴散らす。だが次から次へと這い寄ってくるワニを倒しきれない。チャーリーには目もくれず、ワニたちは一目散に人形に噛みついた。

「ヒロ、死ぬな! ダメだ!」

 西山はもう正気を保っていなかった。人形はバラバラに噛みちぎられ、引きずられてゆく。


「やった、やった」

 チャーリーは撃退できたと満足そうに硝煙に笑った。遅れてアルファたちが西山を取り囲む。

「こちらアルファ、発生源を確保、ただちに帰還する」

 無線で三班に連絡する。けれど応答は返ってこなかった。

「こちらアルファ、三班応答しろ」

 無線機は沈黙を守ったままだ。壊れたのか、と苛立たしげに膝を打つ。


「おいおいおい、なんだあれは」

 デルタが声を荒げる。人形の破片をくわえたワニたちが一箇所に集まり、折り重なってゆく。何百匹が溶け合い、やがて巨大な人の形を形成しはじめる。

(合体する前に叩く!)

 チャーリーは再び銃を放つ。それに触発されるように、ほかの隊員たちも弾丸の雨を浴びせた。


 硬い外皮が形成され、被弾の音が甲高く変わる。合体したモンスターは地面を揺らしながら立ち上がった。

 丸太のような四肢と尻尾、胸からはワニの顔が飛び出し、その上に植物のつるで巨大なしゃれこうべが結びつけられている。巨人の体高はゆうに六メートルに達していた。


「くそっ、なんで効かないんだ」

 一心不乱なチャーリーはあっという間に弾を撃ち尽くしてしまった。出し抜けにモンスターは近づいてくる。リロードに気を取られ、気づくのが一瞬遅れた。

「ぐふぇッ!」

 強靭な体躯がチャーリーに激突する。からだから力が抜け、衝撃で呼吸が止まる。

 朦朧もうろうとする意識のなか、モンスターの肌で何が起こっているのかを見た。

 弾丸は間違いなく当たっていた。ただモンスターに当たる直前、磁石が反発するように運動をいちじるしく弱めているのだ。攻撃してもモンスターに傷がつかない理屈はこれだった。


 チャーリーは空き缶を蹴ったように宙を舞い、壁に激突してゴロゴロと転がった。

「うあ……ぐっ」

 赤く滲んだ視界で目にしたのは、惨状だった。

 モンスターは隊員をちぎっては投げ、動けなくなったものから丸呑みにしていく。


 三人、四人と飲みこんだところで異変が起こる。ワニの尻尾が三叉みつまたに裂け、浮遊しだしたのだ。

 アルファは混乱する戦場でも指示を出す。

「アルファよりデルタ、発生源を連れて撤退しろ」

「はい」

 デルタは西山の肩を掴んで扉に走る。彼は気づかない。モンスターの尻尾が背中を狙っていることに。

 三本の閃光が走る。バチバチとプラズマをまとわせ、デルタのベストを貫いた。

 デルタは死んだことに気づく間もなく蒸発した。彼だったものが黒煙を上げてボドボドと床にぶちまけられた。


「そんな」

「隊長、前!」

 ブラボーが叫んでアルファを押し出す。瞬間、腕が伸びてきてブラボーを掴み上げた。

「ぐああああああ」

 化け物の腕がむくむくと膨らみ、ブラボーがうめき声を上げる。チャーリーの耳に胡瓜きゅうりを折ったような高音が何度も届いた。


 アルファがモンスターの腕を撃ち落とそうとするも、逆にモンスターは差し出してきた。ライフルの射線がブラボーと重なる。

「こいつ、ブラボーを盾に」

 言い終える前に尻尾から再び閃光がとぶ。

 とっさに身をよじるも、熱線がアルファを捉えた。右腕が縦半分に焼き切られた。

「あああああああ」

 隊長は腕を抱えて倒れこむ。ついに戦えるものはいなくなった。


(みんな、みんな死ぬ)

 チャーリーは恐ろしくなり、地面に手をつく。そこでライフルが手元にないことに気付いた。ライフルは化け物の足元に転がっていた。

「チャーリー!」

 はっと声の方を向く。アルファが嗚咽おえつ混じりに叫んでいた。

「発生源を撃て! もうそれしかない」

 何を言っているのか、脳が理解を拒んだ。だが再び意識を引き戻される。

「俺たちの死が無駄になる! お前の手でモンスターを止めてくれ」

「あ、ああ……」

 ホルスターから拳銃を抜く。震える手で西山に狙いを定める。


 チャーリーは拳銃の扱いに自信があった。同期の誰よりも正確に撃ち、特に有効射程ギリギリの的中率がずば抜けていた。上官からの叱咤しったも、吐きそうなほど辛い訓練も、銃の腕を誇りに耐えることができた。

 その誇りが今、無垢な命を撃とうとしている。


(こんなことのために、訓練してきたわけじゃないのに)

 葛藤を抱えながらも隊長の命を理解し、チャーリーのからだは冷静に引き金を絞った。

「撃て! チャーリー」

「うおおおおおおおああああああ」

 撃鉄が起き、弾丸が空を裂く。二発、三発。そのどれも、西山の胴体の中心めがけてとんでいた。


 はずだった。


 突如、轟音を上げて劇場の扉が吹き飛び、射線上に黒い影が降り立つ。

「へっ?」

 そして影がうねったかと思うと、西山に放たれた弾丸をはじきとばした。チャーリーは何が起こったのかわからず、立ち尽くした。


 モンスターは宿主が攻撃されたとみて、チャーリーに尻尾を向ける。

「まずい! チャーリー避けろ」

 熱線が空間を駆け巡る。アルファの声に、チャーリーは振り向くことさえ間に合わない。


 だが熱線もまた、間に入った影によって阻まれた。ホースの水を傘にかけたように、炎があたりに飛び散った。


(これは)

 激しい逆光を浴びながら、チャーリーは影のなかに白くきらめく仮面を見た。

 重なったのはオペラ座の怪人。学生の頃、母に連れられて劇場に行ったことがあった。醜さを仮面に隠し、美しいものにとらわれた悲しき天才。役の名前は忘れてしまったが、劇中ではたしかこう呼ばれていた。

「ファントム……」

「ほう、わたしをご存知か」


 ニヤリと影が微笑んだ。チャーリーは完全に混乱していた。なぜ空想上のファントムがいるのか。どうしてここにやってきたのか。どうやって弾丸とモンスターの攻撃を防いだのか。


 尻尾の熱線が止む。マントがなびかせ、仮面の男がその姿を現した。

 黒いスーツに、コントラスト著しい真っ白なシャツ。そして仮面。劇の格好と同じく、額と顔の左半分が隠されている。

「なんだあいつは」

 アルファがか細く呟く。血を流しすぎたため、意識を保つことがせいいっぱいだった。


「ごきげんよう、特殊部隊の諸君。いい夜だな」

 ファントムは両手をかかげ、高らかに挨拶した。すでに死に体の彼らには返す力など残っていない。返事を待たずファントムは続ける。


「発生源を消す。実に効率的な方法だ。けれど、いつまでそうやって罪のない人々を切り刻むつもりだ」

 顔の右半分がにやりと歪む。口調は変わらないが、言葉は厳しさの色を含んでいた。ファントムはつかつかとモンスターに歩を進める。


「学ばない諸君らにここはひとつ、わたしがレクチャーしてさしあげよう」

「グオオオオオオオ」

 モンスターが雄叫びを上げてファントムに突っ込んでゆく。銃弾を浴びせられていたときには見せなかった「焦り」が表れていた。

「ふんっ」

 ファントムはふところに潜りこむと、ワニの顎を蹴り上げる。モンスターは思わず後退りし、ふるった拳はむなしく風を切った。


「す、すごい」

 あのからだの一体どこにそんな力が。チャーリーは目をむき、開いた口がふさがらない。


「やつらは所詮、ひとの幻想が実体を得たに過ぎない。理性的に見れば無理のある部分がおわかりになるだろう?」

 モンスターは胸に大きなワニの頭がついているため、両碗の可動域が狭い。加えて足元に死角が生まれるため、前方下からの攻撃に完全に無防備になる。ファントムは一瞬でモンスターの弱点を把握していた。


 ファントムの攻撃は続く。再び巨体の足元に近づき、そのまま股下を通り抜けた。モンスターの蹴りは土埃を上げるだけの結果になった。


「そして次のメソッドだが」

 モンスターは尻尾から三連続で熱線を放つ。ファントムはしゃべりながら跳び上がってかわすと、尻尾のひとつにまたがった。

 尻尾の先をぐいっとねじ伏せる。熱線は向きを変え、自身の尻尾を焼き切った。


「ギャボアアアアアア」

 モンスターが初めて痛みに悶え、膝から崩れ落ちた。

「モンスターの攻撃はモンスターに有効。相手の武器を逆手に取れ」


 ファントムは息を乱さず、淡々と攻撃を叩きこんでゆく。ももを突き、すねを叩き、脇へ拳を沈める。三倍以上の体格差があるにも関わらず、その様はあまりにも一方的だった。


 さすがのモンスターもこの猛攻に堪えられず、腕でガードを固めた。

 ファントムは腕の死角に入りこみ、スルスルとモンスターのからだを登っていく。

「この程度か。もっと楽しませてもらえるものかと」

 しゃれこうべを踏みつけ、黒い笑みを浮かべてささやいた。安い挑発だったが、モンスターは激情にかられて腕を出す。ファントムは当然、跳び上がって避けた。


 漆黒の影はシャンデリアに降り立ち、カッと見下ろした。

「さあこれで仕上げだ。ようく覚えておくがいい」

 その言葉とともに手刀でシャンデリアをつなぐチェーンを断ち切る。優美と幻想の象徴は、勢いを増してモンスターの頭上に落下した。


「……ァ」

 爆音とともに巨体は弾けとぶ。煙が舞い、骨片があたりに散らばった。

 化け物の腕がブルブルと持ち上がる。が、しばらくして糸の切れた人形のように倒れた。最後の力を振り絞ったようだった。

 モンスターは断末魔もあげず、ファントムによって撃破された。


(本当にたったひとりでモンスターを倒した)

 チャーリーはへたりこんだまま、身動き一つ取れずにいた。あまりに見事な戦いぶりに我を忘れて見惚れていた。


 メイズが白い輝きに包まれる。幻想は肉体を失い、再び幻想へと帰る。メイズの収縮現象である。このまま消滅を待てば、中にいる者たちもいずれ現実世界へ開放される。


 メイズの消滅を待たず、ファントムは背を向けて立ち去ろうとする。

「ま、待て! ファントム」

 チャーリーが訊いた。ファントムはチラっとこちらを振り向く。彼の眼光が仮面ごしにチャーリーを捉えた。


「お前は敵なのか、それとも味方なのか」

 ファントムは逡巡しゅんじゅんした素振りを見せ、フッと消える。気づくとチャーリーの眼前に立っていた。瞬間移動でもしたかのように一瞬で現れたように見えた。


「それはあなたの上司が決めることだ、ミス・チャーリー。ただひとつ言えるのは――」

 ファントムは手を差しのべた。チャーリーはおそるおそるその手を取る。力強く引っ張られてチャーリーは立ち上がった。

 ファントムと水平に目が合う。


「わたしは、救われるべきひとを救いたい。それだけだ」

 そう言うと再び彼は姿を消した。チャーリーはまだ訊きたいことが山ほどあり、あたりを見回したけれど、既にどこにもいなかった。

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