第34話

「ヘンリー殿下がお探しです」


 浮き上がった気持ちが途端に沈む。膨らんだ風船に穴が空いたように、マルガレーテは心まで萎んだ。


「まあ。ここにいると伝えたつもりだったのに、ごめんなさい。貴方の手を煩わせてしまったわ」


 恥ずかしい。

 オーディンが、自分を探してくれていたと聞いて、すっかり浮かれてしまった。

 もしや、そんな浅はかな内心が賢いオーディンに見抜かれてはいないだろうか。


 そう思うだけで、マルガレーテは見上げていた顔を咄嗟に俯いた。そのまま、


「今、行きます。ヘンリーはどこに?」

 そう尋ねた。


 一国の第一王女に生まれながら、どうしてこれほど気弱なのだろう。両親に愛されて、弟はたった一人の姉だと言って慕ってくれている。十分な学びを与えられ、大切にしてもらっているというのに。


 その時、左手が温かなものに包まれた。驚いて顔を上げたマルガレーテに、


「こんな時でなければ、貴女の手を引くことすら許されない」


 オーディンは、消炭と翠の瞳を細めてマルガレーテに言った。


 オーディンに手を繋がれている。

 大きくて温かな手の平が、マルガレーテの手をすっぽり包んで、それからカウンターに向かって歩き出した。


「これ、返すのでしょう?」


 そう言って、オーディンはマルガレーテが右手に持ち胸元に抱えていた本そっと抜き取る。


「この物語、登場人物が500人いるのはご存知で?」


 オーディンの思い掛けない言葉に、マルガレーテは心が沈んでいたことも忘れて尋ねてしまった。


「オーディンも読んだの?」

「ええ。母が東国好きなので」

「まあ!サフィリア夫人もお読みなのね?」


 オーディンの母、コットナー伯爵夫人サフィリアが東国贔屓なのは有名で、他にも彼女は様々な逸話の持ち主なのだが、実はマルガレーテはあのおっとりとした夫人が好きである。

 母である王妃が令嬢時代から可愛がっていたのは知っているが、どこか自分と同じ匂いがすると幼い頃から感じていた。


 だが、今はもっと気になることがある。


「その……オーディン、貴方はどんな感想を?」


 面白かった小説の感想を共有できるのは楽しいことだ。王城でも、読書好きの侍女と小説談義に花を咲かせるのが好きだったりする。

 この侍女が、市井で人気の小説に鼻が利いて、聞くところによると表紙を開いた瞬間に、良書との出会いがわかるのだという。

 読書好きの侍女から勧められるまま、恋愛小説を読み込んでいたマルガレーテは、些か耳年増なきらいがある。


 そんなマルガレーテは、あの東国の一大恋愛小説にオーディンがどんな感想を抱いたのか、聞きたくてうずうずしてしまった。


「まあ、最低な男、でしょうかね」

「え?」

「先ず一つに、妾の数が多すぎる」

「え、ええ」

「二つ目に、本妻を蔑ろにしすぎる」

「え、ええ、確かにそうね」


 件のライト王子には、元々政略で結ばれた妻がいた。年上の高位貴族のその妻を、まだ若かったライト王子は内心で敬遠するのだが、彼女が死の床に就く頃に漸く愛を抱く。 

 しかも、前述の最愛と言われた幼くして掻っ攫った妻とは、戸籍上の本妻ではなく「内縁」なのである。


「三つ目は、一途な飽き性」


 オーディンのライト王子評は辛辣だ。だが、いちいち的を射ているので反論の仕様がない。


「上っ面や見目に容易く惑わされ、しょっちゅう女難に見舞われる。よく見もしないで得た恋人が、夜が明けて明るいところで見た時に醜女とわかって、それをしくじったと思う体たらく」

「はあ」

「まあ、愛せずとも衣装料の援助を続けた責任の取り方は認めてやります」

「そ、そうね」

「物語の構想は別にして、主人公を一言で言うなら、猿ですね」

「え?」


 ライト王子は大陸一の美丈夫という設定である。なんと言っても、その名の通り「光り輝く君」なのだもの。


「見目良いお面を被ったエテ公です。女人の尻ばかり追いかける」


 聞かなければ良かった。

 ライト王子にとんでもなく申し訳ない気持ちがして、マルガレーテは再び俯いてしまった。


「マルガレーテ様は、あんな男がお好きなのですか」


 思わぬ低い声に、マルガレーテははっと顔を上げた。オーディンの顔は能面のように表情が見えない。

 どうしよう、つまらないことを聞いて怒らせてしまったのだろうか。


「マルガレーテ様は。ああいう見目の良いだけの、尻軽な、エテ公がお好きなのですか」

「い、いいえ」

「ああ、それはよかった」


 マルガレーテの答えは、どうやら正解だったらしい。オーディンは、そこでニコリと笑った。


「ということで、こちらは返却します」


 そう言ってオーディンは、二人の遣り取りの一部始終を黙して見ていた司書に本を手渡した。この司書は、とある男爵家の夫人であるのだが、司書業の傍ら匿名で婦人向けの週刊誌に小説投稿をしている。

 学園は恋の花咲く舞台であるから、ネタに事欠かない。日々、目の前で展開される貴族子女らの恋愛模様を資料に纏めて、小説の構想を練っている。


 去りゆく王女と伯爵令息の背中を見つめて、「今の若者には不実はウケないのね」と思うのだった。



「マルガレーテ様はあんな本がお好きなのですか?」

「……あんな本?」

「不誠実な男がもてはやされる」

「そ、そんなのではないわ。あの小説は文学としてとても価値が高くて」

「わかってます」


 わかっていて、何故、それほど厳しい評価をするのだろう。それよりも!


 マルガレーテはいまだに繋がれている手が気になって仕方がない。手汗が滲んでしまうようで、恥ずかしくて恥ずかしくて嬉しくて堪らない。


 離して欲しいと思いながら、ずっとこのまま時が止まって、オーディンの温もりの中で生きていたいと、決して本人には知られたくない劣情に溺れそうになるのだった。







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