第29話

好きなようにさせてやれ。黙ってすうはあさせてやれ。


 昨日ルクスに来客があって、それは王城に似つかわしくないキャソック姿の司祭だった。

 二人がどんな会話をしたのか、その後ルクスは机上の書類も片付けず、引き出しの鍵も施錠せぬままに、大凡事務方文官としては有り得ない、立つ鳥跡を濁しまくって自邸へ帰ってしまった。

 当然、半日休暇の届け出なんてしていない。

 司祭が王城まで会いに来るのだから、余程のことがあったのだろう。

 触らぬ神に祟りなし。跡を濁しまくったルクスには触れないほうが良いだろう。


 だがあくる朝ルクスは何事もなかった風に、寧ろここ最近では見なかったほど元気に登城して、それですうはあしてるんだから、一層のことそのまま帰ってほしいと思っていた。


 それを態々わざわざ突くとは、この王太子、もっかい寝込んでくれないかな。文官たちは一人残らずそう思った。



 ルクスは妻が誤解しているだなんて有り得ないと誤解していた。

 誤解とは、いつだって小さなすれ違いから起こる。ほんの些細な行き違い、ほんの少しの言葉足らず。


 ほんのなんとか、ほんの何某。

 それらは一見すれば、どれもこれも小さなことなのに、すれ違ってしまった道の果ては大きく結果を違えてしまう。


 危うく妻を失うところだった。今後の心の安寧を保障する為にも、王国中の役場から離縁届を滅却したい。


 誤解なら昨日解いた。白昼からたっぷり愛を注いで前から後ろから愛しまくった。

 だが、粗忽者の己が再び愛する妻の心を失うことが起こったなら……ああっ、考えただけで頭が可怪しくなりそうだ!

 

 その愛しいペンペン妻は、腰が立たないとか言ったから朝餉の席まで抱っこした。

 妻の部屋に迎えに行った際に、盗っ人より素早く妻のクローゼットからハンカチを引き抜いた。


 それからサフィリアに約束を取り付けたのだ。


「私にもハンカチに刺繍してくれないか」

「ええ?もう沢山お待ちではないですか」

「もっと欲しい」

「まあ!欲張りさん」


 妻は優しい。路傍のペンペン草のように愛らしい。

 さあ、愛しの妻が待っている。この目の前の小五月蝿い王太子を退かして、バリバリ仕事を熟して早くお家へ帰ろう。


 ルクスは邪魔とばかりに、目の前に立ち塞がる王太子を左手で脇に押し退けて、ハンカチを鼻に押し当てすうはあしながら仕事に取り掛かった。

 押し退けられて驚く王太子をまるっと無視して、爆速でペンを走らせ山のような書類を次々さばく。


 愛妻家の仕事のデキる漢。それがルクスなのだから。



「あのぅ」


 司祭はその声に、思わず椅子から転がり落ちた。「あのう夫人、また来たのか」と、久し振りのサフィリア登場にすっかり慌ててしまった。


 友人の危機的状況は回避されたと聞いている。その証拠に、ここ暫くあのぅ夫人を見ていない。礼拝堂にも告解部屋にも来ないから、司祭は毎日平和だなぁと安堵していた。


 厄災は忘れた頃にやって来る。

 あのぅ夫人は忘れた頃に訪れる。


 だが、厄災、ではなくサフィリアは、そんな司祭の心中など露知らず、しおらしくもじもじしながら言った。


「あのぅ、本日はお礼に参りましたの」


 どうかそのまま元気に伯爵邸にいておくれ。そのほうが余程ありがたい。もうお願いだ、思い違いも甚だしい夫婦の面倒ごとに神を巻き添えにしないでほしい。


 内心を磨り硝子の窓に覆い隠して、司祭は椅子に座り直した。


「神様にだけお教えしたいと」


 辞めて頂戴。そんな秘密を神様に打ち明けないで。


「うふ、恥ずかしい」


 なら帰ってくれ!


 磨り硝子越しに、夫人がもじもじしているのがぼんやり見える。


「ええっと」


 早く言え!言うのか!言わないのか!


 司祭は思わず硝子窓のへりに掴まった。


「あのぅ。ワタクシ、ハハ二ナリマシタノ」

「え?」


 司祭は思わず声が出た。告解を聞き届ける為の役目を忘れて、思わず反応してしまった。


「まだ夫には話しておりませんの。安定期まで待とうかと。私と神様だけの内緒のお話ですわ」


 いや、そうじゃない、そんなの困る。

 そんな大切な話は、是非ともあの泥のように妻を愛する夫に最初に言ってほしい。

って、もう聞いてしまった、どうしよう。


 許せ、友よ、アーメン。


 司祭は胸の内で友に懺悔した。このあと自分が向こう側に座って告解したい気持ちになった。


「旦那様、喜んで下さるかしら」


 どうやら、あのぅ夫人も窓の縁に肘をついたらしく、思い掛けず司祭と夫人は薄い磨り硝子越しに接近した。


「きっと泣いて喜びます。お身体を大切に、どうか元気なお子をお生み下さい」


 思わず出てしまった本音。後から「と、神も仰っておられます」と付け加えた。


 夫人が去って行く後ろ姿を司祭は窓から見送った。馬車に夫人が近づくと、二人の侍女と二人の護衛騎士が馬車からわらわら飛び降りて、夫人を囲むようにして馬車に再び乗り込んだ。後ろには更に二人の騎士が騎乗して護っている。


 あのぅ夫人。ばればれだよ。あんた、秘密事が苦手だろう。それでもってどれだけニブいんだ。あれほど堅い護りに囲まれて、夫にバレていないと思えるだなんて。


 なんて可愛いひとなんだ。良かったなルクス。恋しい女性ひとを妻に得られて、もうすぐ子が生まれる。


 生真面目な苦労人の友を思い浮かべて、司祭は去りゆく馬車を見送った。


 あの馬車、一体何人乗りなんだ?

 大男と侍女と夫人の五人が吸い込まれた馬車に素朴な疑問が浮かんだのは、馬車が見えなくなってからだった。


 



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