クマさんを殺すな!(その4)
「熊だああああ! 熊が出たぞおおおお!」
「に、逃げろ逃げろ!」
「いや、み、みんな、ぶ、武器を持って戦うんだ!」
広場で魔王たちにひざまずいていたゴブリン達も、慌てて立ち上がり右往左往していた。
家族の下に向かう者、物陰に逃げ込む者、武器を手に取ろうと家屋や倉庫へ向かう者、様々だ。
しかし、そこに意思の統率は見られない。
各々の判断で走り回り、ぶつかり、転ぶ。
ゴブリン区画は大混乱に陥っていた。
「お? ウワサの熊共が、とうとうお出ましか」
魔王が、手を額にかざして街の入り口へと目を向ける。
紅葉の季節だからだろうか。
遠くに見えるタカウォ連山は、ところどころ葉を茶や黄色に枯らせた木々が見えた。
そして、山々から続くなだらかな平原を、何やら茶色いコロコロとした毛玉が走っている。
熊である。それもヒグマ。
その数、十数頭ほど。
体長2メートル半、体重300キロ以上もある肉食獣は、しかし遠目には子供向けのぬいぐるみがヨチヨチと四つ足で走っているようで、愛嬌がある。
だがその見た目とは裏腹に、熊は大型のシカや牛、果ては本来なら天敵のはずの虎ですら捕食することもあるほどに狂暴だ。
その剛力は家の柱など腕の一振りでへし折り、人間なら頭蓋骨を一撃で粉砕する。
「馬の首をすっ飛ばす」とは人間達がやや誇張気味に語る表現だが、爪の一掻きで致命傷を与える事は十分可能だろう。
そして、実は熊は哺乳類の中でもトップクラスに鼻が良い。
どれほどかというと、鼻が良い事で広く知られる犬や狼と比べてすら、数段良い。
二つ隣の山にいる獲物の臭いすら、風向きによっては嗅ぎ分ける事が出来るほどだ。
そして一度獲物の味と臭いを知った熊は、執念深く追い回す。
何度も何度もこのゴブリン街に来るのも、完全に餌として記憶しているからだろう。
狡猾で、狂暴で、執念深い。
それが熊という生き物だ。
上空では獲物を捕まえたドラゴンが、相変わらずのんびりと空を飛んでいた。
時折首を、両足で掴んだ獲物へと伸ばして齧りつく。
ここらで捕まえたカバだろうか。結構な大きさだ。
ドラゴンが咀嚼する度に、下のタカウォ連山へと獲物から流れ出た血が零れていった。
巣に持ち帰る前に、小腹を満たしたいようだ。
そんなのんきなドラゴンを他所に、数十頭の群れの熊達は、みるみる内に平原を走り抜け、ゴブリン街へと押し寄せた。
申し訳程度に街を囲っていた木の柵を前足でへし折り、踏み倒して街の中へと駆け込む。
柵の近くにいたゴブリンが、あわてて逃げようとするも即座に熊に追いつかれ、押し倒される。
鈍重な見た目に反して、相当な素早さだ。
そもそも、熊の走る速度は時速50キロを超える。
これがどのくらい速いかと言うと、通常の騎兵の乗る軍用馬の全力疾走時とほぼ変わらない。
ゴブリンのような二足歩行かつ歩幅の小さな生物が、逃げ切れるはずも無かった。
「ひっ、ひっ、ひぃぃぃぃ!?」
恐怖の悲鳴を上げるゴブリンの胸に前足を置き、熊が押さえつける。
ゴブリンの耳元に、ふぅー、ふぅー、と熊の穏やかな息が掛かった。
そして熊は、ゴブリンの肩口から首筋、頬から頭までをペロリと舐めた。
「は、はあ?」
さながら、懐いた犬が親愛の情を示すような熊の態度に、ゴブリンの顔に困惑と、わずかな生への期待が浮かぶ。
ひきつった笑みを浮かべたゴブリンは、次の瞬間右肩を熊によって一口でかみ砕かれた。
「あ、ぎあああああ!? なんで、なんでえええ!?!?」
鋭い牙が肩口に食い込み、ゴキリと嫌な音を立てる。
鎖骨と肩甲骨、そして腕の上腕骨上部が熊の口内でまとめて砕け、肉が裂け、盛大に肩口から血が噴き出した。
熊の体の下で、ゴブリンが激痛に身をよじる。
足をばたつかせ、どうにか熊の束縛から逃れようと、それこそ比喩でも何でもなく死に物狂いでもがく。
だが熊はびくともしない。
前足をたった一本ゴブリンの胸に乗せているだけなのに、どれだけ足掻こうとまるで逃れられる気配はなかった。
熊が首を横に振る。
食いつかれていたゴブリンの右肩が胴体から外れ、腕ごと宙を舞う。
遅れて、血の筋が中空に弧を描いた。
哀れゴブリンは喉がつぶれんばかりの悲鳴を上げ、そして気絶した。
ゴブリンの腕を食いちぎった熊は、一声も吠えたてることなく咀嚼を続けていた。
街に押し寄せた熊達は、静かにゴブリン達に襲い掛かっていった。
粗末なボロ屋が熊に柱を壊され崩れ落ち、中から首を噛まれて引きずり出されるゴブリンがいた。
我が子をかばった母ゴブリンが足を噛まれて振り回され、宙を舞っていた。
ゴブリンに襲い掛かる熊達は、みな一様に静かで穏やかだ。
相手を威嚇するような唸り声や鳴き声は、まず上げていない。
何故か。
これは、人間の行動に置き換えて見れば分かる。
人が家禽であるニワトリの首を折るとき、家畜の牛の首を刎ねる時、わざわざ大声を上げて威嚇などするだろうか?
威嚇をするのは敵に対してだけだ。
脅威を覚える相手にしか、追い払うか立ち向かうべき敵に対してしか、威嚇などする意味が無い。
獲物は、脅すのではなく落ち着かせる。
だからこそ、つぶらな瞳で見つめ、穏やかな呼吸で優しく頬を舐めるのだ。
熊にとって、ゴブリン達は敵ではない。ただのエサだった。
「あのよー参謀。熊ってあんな群れでやって来るもんなのか?」
周囲の地獄のような惨状を尻目に、魔王がふと感じた疑問を参謀に尋ねる。
確かに熊は本来ならば、犬や人間等とは違い群れをつくらず行動する単独性動物だ。
一斉にゴブリン区画へと押し寄せてきた熊達の行動は、確かに自然下では考えづらい。
これほどの集団をつくるのは、冬眠前の熊が産卵のために川へと戻って来た大量のシャケを捕獲する時くらいの物だろう。
状況的には似たようなものではあるが。
「うーん、調査したわけでは無いのでわかりませんが……」
参謀がそう前置きをして、白手袋を嵌めた手をヒュドラ沼の方角へと向ける。
「彼ら熊は鼻が利きます。もしかするとですが、毒を含むヒュドラ沼の臭気が風に流れて山へ向かった際に、臭いと毒気を嫌って彼らは街へと降りてきているのかもしれませんね」
「あー、なるほどねぇ。まあどうでもいいけど」
聞いておきながら、興味なさげに魔王が欠伸をする。
涙の浮いた目をこすり、熊達が晩餐会を開いている街並みを見渡す。
視界に、動物愛護団体のメンバー達が集まっているのが見えた。
「いよーし、熊さん達のお食事を邪魔しないように撤収だ! 仕上げにおみやげおいていってやれ!」
一匹のオークがそう言うと、先ほど魔王と口論をしていたダークエルフの女性が大きな麻袋を持ってやって来る。
相当な重量があるだろうが、華奢な体で軽々と持ち上げている所を見るに、何かしらの魔法を用いて重量を軽減させているのだろう。
袋を逆さにして、中の物がザァァァーと乾いた音を立てて地面にぶちまけられる。
どんぐりだった。
「熊さん達ー、ここにデザートおいていくからねー!」
「元気でな―」
「たっぷり食べて、大きく育つんだぞー!」
口々に熊へ声援を送ると、彼らは手を振り城下町の中へと続く南門へと去っていった。
満足げに引き上げる動物愛護団体の後ろ姿を、特に何をするでもなく魔王が眺める。
「うーわ、言うだけ言って帰りやがったよ」
参謀が、彼らの地面にぶちまけたドングリを拾って殻を割り中を調べる。
「あ、これ茹でてありますよ。意外とやる事細かいですね、彼ら」
参謀が感心したようにうなずく。
熊の食べる物の代名詞的な感のあるドングリだが、実は生のドングリはタンニンを多く含んでおり、大量に食べると熊によっては中毒を起こす。
流石に大人のヒグマが中毒することは少ないが、それでも子熊や老齢で肝機能の弱まった熊には安全とは言い難い。
茹でてアク抜きしてあるドングリは、タンニンの大部分が除かれており熊の体にも優しいのだ。
彼ら動物愛護団体の、細やかな気遣いとやさしさの感じられる処理の仕方だった。
今現在そのやさしさを最も欲しているのは、熊に襲われ周囲で悲鳴を上げ逃げまどっているゴブリン達なのだろうが。
「う、うわあああ! 俺の足、足がぁぁぁ!」
「おとーさーん、おかーさーん!」
「武器は、武器は無いのか!?」
「ダメだぁ! 武器庫が燃やされてる!」
どうやら動物愛護団体は、ご丁寧にゴブリン達の武器庫を燃やして行っていたようだ。
確かに仕事が細かい。
街の隅、城壁に近い場所に建てられていた小屋が燃え、煙が立ち昇る。
そこがゴブリン達の武器庫だったのだろう。
燃える小屋を前に、膝をついて呆然とするゴブリン達の姿があった。
「うーん、なんか大変そうだなぁ」
ゴブリン街を歩きながら、魔王が他人事のように呟く。
と、ゴブリンを引き倒していた熊が、横を通り過ぎようとした魔王に気付き、唸り声を上げた。
鋭い牙を剥き出しにして、険しい目でこちらを睨みつけている。
ゴブリンに対する態度とはまるで違った。
すぐ横を通り過ぎようとした魔王を、エサを横取りしようとしているとでも感じたのだろう。
険しく睨みつける熊は、完全に魔王を排除すべき敵として見ていた。
「ああー? 何ガンくれてんだお前」
四つ足で、ゆっくりとにじりよる熊を前に、魔王が足を止めて見下ろす。
牙をカチカチと鳴らし、唸り声をあげていた熊が立ち上がる。
魔王とほぼ同じ高さで目が合い、互いに睨み合う。
人間やゴブリンが相手なら縮み上がる事だろう。
魔界を代表する脳筋の魔王は特に怯える様子はない……というかむしろ喧嘩を売られたと捉えて、熊同様に苛立ちを露わにしているわけだが。
「クマカスがよぉー。テメー誰に牙向いてっかわかってんのか? おお?」
ぶっとい両腕を広げ威嚇する熊と、鼻が触れ合うほどに近づいて、魔王がメンチを切る。
「魔王様。どこぞの歌劇に出てくるプリンセスさながら、動物に語りかけているところ申し訳ないのですが。同じ魔族相手にもマトモに談笑出来ず友達いないぼっちのコミュ障な魔王様が、動物と意思疎通を図るのはちょっと無理筋なのでは」
参謀の嫌味に、魔王が熊に背を向けて反論した。
「うるせー余計なお世話だ! 頂点は常に孤独なもんなんだよ!」
「グオオオオ!」
完全に無防備な魔王の背に、熊が鋭い爪を備えた腕を振り下ろした。
クマさんを殺すな!(その4)……END
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