どこにもいかないで


「ゆっきー、お風呂入る?」


 浴室から出てきた寝間着姿のヨミに聞かれる。


「ん、大丈夫。お構いなく」


 コンビニで買ってきたカップ麺をすすりながら、僕はなるべく彼女の方を見ないようにして答えた。


 平常心を保つことを、今の僕は何よりも優先していた。


「じゃ、ちょっと寝室片づけてくるけど、絶対に覗かないでくださいね」


「鶴かよ」


「本っ当に覗いちゃダメだからね。覗いたら記憶が消えるまで頭叩くから」


「はいはい」


 そのヨミの発言の真の意味を、このときの僕は正確に理解していなかった。


 ヨミが寝室に入ってから数分後。


「終わったー」


 ドアを勢いよく開けて、彼女が出てきた。


「お疲れさま」


 僕はヨミに視線を合わせないように声のした方を向くと、寝室の中が見えた。


 初めて見るヨミの寝室は、特に変わったところはない、ごく普通のものだった。


 ベッドと小物を置くようなラックが置かれている。床に物が散乱していることもなく、全体的にきちんと整っていた。今の数分でこれだけに片付けられているということは、元から整理整頓を心掛けていたのかもしれない。


「ってわけで、ゆっきー、ベッド使っていいよ」


 予想外の発言に、僕は驚く。


「いや、それはさすがに……。ヨミを床で寝させるわけにもいかないし」


 泊めてもらう立場なのに、気を遣われるのは申し訳なさすぎる。


「え、あたしも一緒にベッドで寝るけど?」


「なんで⁉」


「あはは、ゆっきーおもしろーい!」


 僕で遊ばないでほしい。


 ふと、違和感が脳裏をよぎった。


「ん、あれって……」


 視線の先にあったのは、一着のリクルートスーツだった。


 ベッドが面している壁の上の方にある突起に、ハンガーで吊るされている。


「……ああ、あれね。片づけんの忘れてたわ。姉のやつ」


 ヨミの声が少し低くなる。歯切れも悪くなったような気がする。


「お姉さんいたんだ」


 たしかに、天真爛漫な彼女の性格は、妹っぽいような気もする。


「うん」


 途端に口数が減った。ちょっと不機嫌そうですらある。


「……あんまり、仲良くない感じなの?」


 恐る恐る、僕は尋ねてみる。


「まあね。暗いし、卑屈だし、どうしてあんなのがあたしの姉なんだろって、いつも思う」


 聞き間違いかと思ったけれど、ヨミの表情は明らかに陰っていた。


 ヨミが誰かをこれだけはっきりと悪く言うのは珍しい。


 僕はひとりっ子だからわからないけれど、きっと色々とあるのだろう。


「へぇ」


 そういえば、どうして姉の服がヨミの家にあるのだろう。


 他にも疑問はいくつかあったけれど、それ以上、突っ込んで聞くのもためらわれた。


「よし、そろそろ寝るか~」


 明るい声に戻って、ヨミは立ち上がった。


 結局、ヨミはベッドで、僕は布団を借りて床で寝ることになった。本当に同じ部屋でいいのだろうか。せめて別の部屋がいいのではないかとも思ったけれど、ヨミが「修学旅行みたいでいいじゃん」などと言うものだから、この状況に落ち着いた。


「なんか、逆に眠くなくなってきたかも」


「あはは。めっちゃ爆睡してたもんね。五時間寝たらそりゃそうなるわ。かなり疲れてたんでしょ」


 思い返せば、今週はちょっと頑張りすぎていたかもしれない。塾での授業に加え、夏期講習のワークを自宅でひと通り解いていた。そのツケが回ってきたのだろう。


「すみません……」


 家庭教師として働きにきているのに、本当に情けない。


「いいってことよ。じゃあそろそろ電気消すよ~」


「うん」


 先ほど寝てしまったこともあるし、他人の家で落ち着かなく、なかなか寝つけずにいる。


 斜め上から、微かに寝息が聞こえてきた。


 ただ、友達の家に泊まっているだけだ。


『友達の家に泊まることの、何がおかしいの?』


 ヨミだってそう言っていた。


 友達、という響きが、僕の心の表面を優しくなでた。


 心地よい感覚に、徐々に落ちていく。




 いつの間にかしっかり眠っていたらしい。


 上の方で、ごそごそと何かが動く音が聞こえて、僕はうっすら目を開けた。


 蛍光灯は一番弱い明かりになっていたので、完全な暗闇というわけではない。


 ヨミが体を起こしている。半そで短パンのゆったりした寝間着はいつも以上に無防備で、白い肌が多めに見えていた。


 頼りない明かりで照らされた時計の短針は、三時を示している。


 目が合いそうになり、慌てて瞼を閉じる。


 ヨミがベッドから下りる。


 トイレだろうか。


 どこ行くの? と聞くのもなんだか変なので、僕は寝たふりをする。


 わざとらしいかも……と思ったけれど、半分だけ体を回転させて、壁の方を向いた。


 彼女の気配が通り過ぎ――ることなく、僕の枕元にしゃがみこんだ。


「ゆっきー、起きてる?」


 囁くようなヨミの声が、鼓膜を小さく震わせた。


「…………」


 なぜかはわからないけれど、僕は寝たふりを続けることを選択した。


 今起きた、なんて言って目を開ければよかったのかもしれないけれど。


 ヨミの静かな声が、いつになく真剣だったからかもしれない。


 数秒の沈黙。頬にかかる彼女の吐息に、反応しないよう努める。


 そして――ヨミはゆっくりと布団に入ってきた。


 思わず目を開きそうになったが、グッとこらえる。


 ヨミは、左腕を僕の首と布団の間に差し入れるようにして、そのまま僕を抱きしめるような体勢になる。


 柔らかい体温を背中に感じながら、僕は意識して深く呼吸をする。


 今、僕が起きたら、ヨミはどんな反応をするのだろう。


 寝相が悪くて……とでも言い訳するのだろうか。


 速くなった心臓の音が、ヨミに聞こえていないか心配になる。


「――ゆっきー、お願い」


 暗がりに響いたヨミの声は、今まで聞いた彼女のどの声とも、明確に違っていた。


「どこにもいかないで」


 縋るように真剣で。


 祈るように切実で。


 どうしようもないほどに、痛々しかった。


 僕は、目を開けるタイミングを完全に失ってしまっていた。


 寝ていることを確認してからその言葉を発したということは、僕に聞かれたくないのだろう。


 このまま、彼女が布団から出ていくのを待つしかない。


 そんなことを考えているうちに、僕は再び眠りに落ちていたらしい。




「あ。ゆっきーおはよ」


 翌朝目覚めると、ヨミはすでに着替えていた。


「……おはよ」


「寝ぼけてる?」


「うん……ちょっと」


 寝ぼけているのもあるし、深夜、彼女に抱きしめられたことを思い出して、頭が混乱していたというのもある。


 ヨミの方に変わったところはなく、あれは夢なのかもしれない、と思ってしまう。


 だけどやっぱり、僕ははっきりと覚えているので、現実での出来事のような気がする。


 そうだとしたら、ヨミはきっと、僕に聞かれたくはなかったはずで。


 僕の方も、あのとき寝ていたことになっている。


 今はとりあえず、なかったことにしてしまおう。


 考えをまとめ終わったタイミングで、


「なんか新婚さんみたいだね」


 彼女が爆弾発言を投下した。


「しっ、ししし新婚っ⁉」


 声が裏返った。


「ちょっと! マジに反応されると困るんだけど!」


 頬を少し赤らめて、ヨミが怒ったように言う。


 普段だったら、軽く流せるのに。


『どこにもいかないで』


 あんなことを言われたからだろうか。


「寝ぼけてるんだから仕方ないでしょ。お手洗い借りるね」


 僕はトイレに逃げ込んだ。


 あの言葉は、どういう意味なのだろう。


 考えれば考えるほど、わからなくなってくる。


 なかったことにしようとは決めたけれど、それは表向きの話で。


 ヨミへの態度に出てしまう可能性は大いにある。


「はぁ……」


 とてもまずいことになった。

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