第2話
ドアが閉まった音が、合図みたいに部屋に広がった。ここが、これからの「共同生活と共同制作」の現場――シラベ私立芸能高校のコライト寮、二人一組で暮らして曲を作るハーモニーペア制度の部屋だ。
俺――リョウは靴を脱ぎながら、向かいに立つサユリを見る。腕を組み、顎を少し上げ、もう負ける気がないみたいな顔。こっちが何か言う前から、もう返しの台詞を持っているタイプだ。
「……まあ、同居になった以上、やるしかない。せいぜいこの時間を、良いものにしよう」
「その言い方、全然うれしそうじゃないんだけど」
「うれしがる必要はないだろ。たぶん、君も同じだ」
「同じだけど、そこまで露骨に言わなくてもいいでしょ。せめて“それっぽく”取り繕う努力くらいしてよ」
「取り繕っても結果は変わらない。――でも、少なくとも一つは同意できた。俺たちは“必要以上に期待しない”ってことで」
サユリが小さく鼻で笑った、そのときだ。ポケットの中でスマホが震える。画面には「ケイゴ」。予想通りのタイミング。
「ちょっと失礼」
『リョウ!? 助けてくれ、もう無理!』
「さっそく相方に疲れてきたって?」
『BROOOOO! 聞いてくれよ! イロハ、引っ越してきた瞬間からずっと小言。マジで俺の生命力を吸ってくる!』
「想定内だな。それで、電話の要件は?」
『要件は――』
スピーカー越しに、別のはっきりした声が割り込む。
『要件は“散らかさないこと”。まずはそれを覚えてください、ケイゴ』
『はあ!? 誰が寮長だよ、お前は!』
廊下の外で言い合っているような音量。スピーカーにしていないのに、サユリの耳にも届いているらしく、彼女は目を瞬かせてから、ぽつりと呟いた。
「……少なくとも、うちよりはカオスかもね」
ほどなくして、通話が一度遠のき、そして戻る。
『コンビニ、学校の角のとこ。五分後。来い!』
一方的に切れた通話画面を見つめて、俺はため息をひとつ。仕事は山ほどあるのに、親友は待ってくれない。サユリへ向き直る。
「少し出る。君は君で、必要な準備をしててくれ」
「今?! 真面目に言ってる? 曲は? 生活のルールは? 決めること、山ほどあるでしょ」
「音楽の部分は任せてくれ。君の声の特性は、作りながら拾う。生活は――外で案がまとまったらメッセージする。今日はまず、大枠を決めるだけでいい」
「……はあ。勝手にどうぞ」
吐き捨てるような声音。ドアが閉まる寸前、彼女の心の声が背中に刺さる。
(誰よ、そのプロデューサー面……本当に、腹立つ)
夜風。街灯。学校角のコンビニ。自動ドアの開閉音に混ざって、ケイゴの大げさな溜息。俺たちは缶コーヒーを片手に店を出る。
「中間発表、秒で来てほしい。あの人ともう一日やる自信、ギリ」
「珍しく弱音だな。……まあ、俺も“早めの入れ替え”は歓迎だけど」
「じゃ、決まり。中間でパートナー交換ね!」
「覚えてないのか。交換は“生配信の視聴者投票”で決まる」
「……あ、そうだった。番組だった」
呑気なやり取りを遮るように、ケイゴが通りの向こうを指差した。
「お、ソウマとミナミじゃん。あれ絶対そうだよな?」
「……ああ。空気が固い。練習明けの会話じゃない」
「何の話だろ。あの真剣さ、ちょっと怖いな」
歩道の真ん中で、ソウマが立ち止まる。ミナミの前に、一歩分だけ近づいて、真正面から。告白の姿勢――しかし、言葉は甘くない。
「君の“秘密”を知ってる。――最近まで、リョウが君に曲を書いてたことも」
「……どういう、意味?」
「これは機会だ、ミナミ。自由になる機会。リョウの影響から離れて――“君自身”の声で歌うための。俺が手伝う。完璧な形にして、彼に見せつけよう。君は、彼がいなくてももっと良くなる」
「……それ、勝手に決めないで」
ミナミの声は静かだった。怒鳴らない。けれど揺るがない。彼女は一歩も下がらず、真っ直ぐに返す。
「誰の助けを“どう”借りるかは、私が決める。――それが“自由”でしょ」
言葉が落ち、風だけが間を通り抜ける。俺とケイゴは、街灯の下でその光景を見届けるだけだった。
「……こりゃ、面白くなってきたな」ケイゴが口笛を鳴らす。
「面白いって言葉、便利だな」俺は缶を握り直す。喉は渇いていないのに、金属の冷たさだけが指に残る。
寮へ戻ると、サユリはキッチンでコップを並べていた。水道の流れる音が、妙に整っている。俺はピアノの前に座り、鍵盤に指を落とす前の、短い沈黙だけ置いた。
「さっきの“半分話す、半分歌う”って案、悪くない。呼吸が前に出る」
「私は、できることをしただけ。……みんな、それしか求めてないから」
「それ、どういう――」
「なんでもない。忘れて」
会話はそこで途切れた。カメラの赤いランプが、定時になって消える。ようやく、本音だけが残る空間。
「コンビニ、行く?」と俺。「何か甘いものでも」
「いらない。――ありがとう」
ありがとう、のあとに続く温度を、俺は読み損ねる。彼女は台本の余白に、小さな丸をいくつもつけていく。言葉ではなく、呼吸の位置。沈黙の置き方。
作業に戻ろうとして、スマホが震えた。画面には短い通知が並ぶ。
『中間“前倒し”検討中』『ゴーストライティング規定、再掲』『配信Q&A、明日』
そんな中、ひとつだけ個人的なメッセージ。
『――おめでとう。あの喋るみたいな歌い方、あなたの“指示”?』
差出人はミナミ。指は一度、止まる。
『違う。彼女の選択。俺は、ついていっただけ』
既読。少しの間。
『……それが、いい』
『他人に、任せてみて』
俺は返さない。返事は鍵盤の上で探すことにする。
夜。ケイゴとイロハのQ&Aは、相変わらずの殺し合いみたいな掛け合いで盛り上がったらしい。チャット欄の火力に苦笑しつつ、俺は譜面を閉じ、サユリのほうを見る。
「明日は、ちゃんと一緒に作る。――約束する」
「約束は、守ってから言って」
彼女は立ち上がる。ドアに手をかけ、振り返らないまま、ひと言だけ置いた。
「……おやすみ」
返事はしない。代わりに、ピアノの低音を一つだけ鳴らす。重さを確かめるための、音。
外では、ソウマとミナミがまだ言葉を交わしているかもしれない。俺の知らない会話。俺が口を出すべきではない領域。
それでも、明日は来る。この同居と共同制作は、良くも悪くも、もう動き出している。
そして、俺たちの“最初の歌”は、まだ始まりにすら立っていない。
――ドアが閉まったあと、サユリは一人になったリビングで、思いきり頬をふくらませた。声には出さないが、眉間には大きく「怒」の字。ソファに倒れ込み、クッションを顔に押しつける。
(何あれ。“任せてくれ”って、何を? 私の呼吸までクリックに合わせるつもり? ううう、ムカつく。……でも、あの冷静さ、仕事では助かるときもあるんだよね。くっ、悔しい)
子役だった頃の感覚が、不意に戻る。監督の「もっと可愛く」「もっと早く」「もっと大人っぽく」。正解が空から降ってくるたび、サユリの中の何かが折りたたまれ、薄くなっていった。
(薄いまま終わらない。今度は薄くならない。私の“厚み”は、私が決める)
そう自分に言い聞かせて、彼女はリビングの片隅に置いた小さな台本ノートを開く。台詞じゃない言葉で、舞台の呼吸をメモする――「ここで見上げる」「目を閉じる」「一拍遅れて吸う」。字面は地味でも、音楽に直に効く印。
キッチンに立ち、グラスを二つ洗い直す。寮の設備は新品ではないが、磨けば光る。鏡のように映る自分の顔は、強情で、少し眠たげだ。
(とりあえず、今日は休戦。明日、ちゃんと話す。……できるよね、私)
そうして、彼女は息を整えた。
コンビニの明かりは、夜の色を塗り替える。温め待ちの電子レンジが低く唸り、フライヤーの前ではから揚げ棒と辛口チキンが主役の顔をしている。ケイゴは当然のように両方買い、店先で熱い熱いと跳ねながら頬張った。
「イロハ、歯ブラシを色分けしようって言い出したからな。俺のが青、彼女のが白。で、青を一ミリでも別のコップに置いたら“ルール違反”。なんだあれ」
「共用スペースのルールは必要だろ」
「必要だけど! 俺の靴下の片方だけ干し方にまで指示が飛ぶのは必要じゃない!」
「……それは、たしかに過剰管理だ」
「だろ? でもまあ、反論したら“じゃああなたがやる?”って返される。やる、って言ったら“できるなら最初からやって”。俺の敗北だ」
「最初からやればいい」
「正論は友達じゃない」
俺は笑い、缶のプルタブをいじる。店内スピーカーからは、明るいBPMの季節ソング。レジ横には受験コーナー、雑誌棚には芸能ページの切り抜き。どこにでもある夜。なのに、俺たちの夜は確実に何かが変わりつつある。
ソウマとミナミの姿を見つけたとき、胸の奥がわずかにざわついた。ミナミの歩幅は普段より半歩短く、ソウマの肩はわずかに前に出ている。二人は、互いに言葉を選んでいる最中の身体だ。
ソウマが立ち止まり、ミナミの名を呼ぶ。街灯が切り替わり、二人の影が伸び縮みする。ミナミは目をそらさない。あの目は、舞台の上でも客席でも、嘘を許さない目だ。
会話を聞きながら、俺は自分の喉を指でなぞった。ここで口を出すのは違う。だけど、何もしないのも、無責任のように感じる。――それでも、今日は見るだけにした。彼女の選択を、彼女の口から聞いたから。
寮に戻ると、共用部の壁カメラが赤く瞬いた。配信用の「日常素材」を撮る時間帯だ。俺とサユリは、ぎこちなく並んで座り、台本にない当たり障りのない会話をする。
「今日の反省点は?」
「掃除当番の分担を明確に」
「音楽のほうは?」
「引き続き、試行錯誤」
――撮影が終わった瞬間、赤は消え、空気がやわらぐ。
「半分話す、半分歌う、さっきの案。やっぱり良いと思う」
「そう。じゃあ、やってみる?」
「いまは……音だけで骨組みを作る」
「骨だけだと、幽霊みたいな曲になるよ」
「幽霊でも、良い幽霊はいる」
「あなたが言うと、説得力あるのが悔しい」
彼女は自分で笑って、それきり黙った。俺は鍵盤に触れず、黒鍵と白鍵の境目を目で追った。そこに、境界線以外の意味を探す。
机の片隅には、ハーモニーペア制度のハンドブック。共鳴度(ストリーミング+ライブ投票+講評)の算定方法、オリジナリティ加点の要件、そしてゴーストライティングの罰則。読み返しても、文章は冷たい。ルールは感情を救ってはくれない。
サユリは、包丁を持つ手つきまで無駄がなかった。トマトを切るときも、呼吸の置き方が舞台のそれだ。切ったトマトを冷蔵庫に入れて、彼女はふと振り向く。
「あなた、カメラが回ってると、ちょっと“いい人”になるね」
「仕事柄、どうしても」
「回ってないときは?」
「……努力中」
「努力、ね。……見せて」
短い会話のあと、また沈黙。窓の外では、校舎の屋上のランプが一つ、点いたり消えたりしている。誰かがまだ練習しているのだろう。明日も、明後日も、多分ずっと。
ベッドに倒れ込む前、俺はスマホのメモに“やること”を箇条書きした。
・生活ルールの叩き台を作る(掃除・洗濯・買い出し・練習時間)
・曲の大枠(BPM、キー、語りと歌の比率)
・サユリの“長い行”を活かす配置
・ケイゴの愚痴を受け止める体力の確保
最後の項目だけ、少し笑った。
目を閉じる。まぶたの裏に、ミナミが浮かぶ。あの真剣な横顔。彼女の視界から、俺が消える瞬間が、もし来るなら――そのとき、俺は何者でいられるだろう。
眠りと覚醒の間で、ピアノの低音がまた一つ鳴った気がした。もちろん、現実には何も鳴っていない。ただ、次の一日がもう始まっているだけだ。
――そして、誰もいない夜の廊下で、俺は小さく呟く。「明日は、ちゃんと向き合う」。その言葉だけが、今のところの約束だ。
もう逃げない。
必ずや。
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