『デスケルで透ける葉脈を転写して「ただいま」がまた端的になる』
「ただいま」がまた端的になるという表現に惹かれました。
デスケルとはデッサンスケールのこと。
葉脈という植物にとって水や栄養を葉や全体に行き渡らせるために必要な構造が、丸わかりになってしまうということは、植物にとって恥ずかしいことであると思うし、体が、思考が、心が見透かされてしまっているような状況を表しているのだと思う。
投げかけた「ただいま」が相手にどれだけ染み渡ったか、自分がどれだけのエネルギーをかけて発声された言葉なのか。透ける葉脈が見えるようにわかってしまう。そうだとしても「ただいま」をやめることはないし、その機械的なやりとりこそが一種の信頼関係のようにも思えて、また体へ染み渡るのだろう。
「また」端的になる。端的になっていることに対して自覚があるのだとも思える。すると、「ただいま」を贈る相手はもうそこにはいないのかもしれない。どれだけ端的になったとしても「ただいま」と語りかけることに意味があり、透ける葉脈という自分自身の体内に「ただいま」が染み渡ることによって自分が生きていることを自覚できるような。
そんなことが想像できる、とても思考が広がる魅力的な歌でした。
是非、他の歌も味わってみてほしいです。
素晴らしい作品をありがとうございました。