第7話 断罪屋、洗濯をする ⚔️🏙️

 朝の第7階層は、いつもどこか湿っている。

 魔導排気口から立ち上る白煙が、空気をぬるく濁らせ、遠くのビル群を霞ませていた。


 この都市では、朝の定義は曖昧だ。

 排気口の熱風が止まる頃が、“午前”とされている。


 空は見えない。上層の底面が、巨大な天井のように広がっている。

 灰色に近い群青の空間。魔導粒子が漂い、光は屈折し、影は濃くなる。


 それでも、ここはまだ“マシ”な方だ。

 下層に比べれば、空気も水も、まだ人間が生きられるレベルにある。


 洗濯機を回し終え、食器を片づけ、床を拭いたあとだった。

 神谷蓮――今は『レン』と名乗っている俺は、研究室の玄関を開けて、朝の空気を一口吸った。


 子供の姿になってから、階段の段差がやたら高く感じる。

 研究所は、階層都市の中でも古い構造のビルの一角にある。

 階段は金属製で、魔導補助エレベーターもエスカレーターも設置されていない。


 だが、慣れた。慣れるしかなかった。


 玄関前の通路を、清掃用ロボットがゆっくりと通り過ぎていく。

 型番は『MDR-06』。正式名称は『魔導粒子除去装置Magical Dust Removerの第6世代モデル』。

 俺はロクと呼んでいる。

 整備してやったら、俺の声に反応するようになった。


 腰ほどの高さの円筒型ロボット。

 胴体の左右に回転ブラシ、背面には魔導粒子吸引口。

 頭部には一つだけカメラアイがあり、俺の顔を認識すると短く鳴く。


「オハヨウゴザイマス、レン様」


 無機質な声だが、聞き慣れた響きだった。


「ハイキコウ、粒子ノウド……今朝、タカメ、です」


 定時報告も忘れない。粒子汚染の影響は深刻だ。

 俺が長時間、外で活動しても無事なのは、指輪の魔導構造が粒子を中和してくれるからだ。


 研究室の空調も、第3階層製のフィルターで粒子濃度を抑えている。

 ロクのような清掃用ロボの吸引機能も、生活空間の粒子濃度を常時監視してくれている。


 上空では、警備用ドローンが旋回している。

 魔導紋の刻まれた機体が、俺の頭上を通過すると、低く電子音を鳴らした。


「さて……今日も、洗濯物がよく乾きそうだな」


 目の前には、魔導煙突の熱風を利用した物干し場。

 びたパイプに吊るされた洗濯ロープが、ゆるく揺れている。

 魔導熱風が吹き抜けるたび、布地がふわりと浮き上がる。


 この分なら、すぐに乾くだろう。

 ただし、粒子濃度が高すぎると、布地がざらつく。

 魔導繊維マナ・ファイバーは、粒子汚染に耐えるよう設計された特殊素材だ。

 魔導食材マナ・フードと同様、高価だが、都市生活には欠かせない。


 安物の布じゃ、数回干しただけでボロボロになる。

 魔導繊維マナ・ファイバーは、第3階層の繊維工場ファイバー・ノードで製造されている。

 粒子遮断ポリマーと生体由来の糸が融合された素材で、粒子汚染に強い。

 一部の繊維は、第7階層の住人であるドクター・バグスが開発した特殊昆虫スピナーワームから採取された糸を流用しているらしい。


 それでも、第7階層はまだ“マシ”だ。

 魔導熱風のおかげで、布は乾く。粒子濃度さえ気をつければ、洗濯もできる。


 第9階層では、布すら干せない。

 粒子濃度が高すぎて、干した瞬間に繊維が崩れる。

 空気は腐臭ふしゅうを含み、水は灰色ににごっている。

 住民の多くは、魔導繊維マナ・ファイバーの切れはしい合わせてしのいでいるらしい。


 隣のベランダで、義肢ぎしのメンテナンスをしていた老人が、こちらに軽くあごをしゃくってきた。

 グレイ。元軍医。戦場で義肢を自作していた。無口だが、工具の扱いは一流だ。


 彼の義肢は、魔導紋で強化された旧型。

 左腕と右脚。金属の継ぎ目が、朝の静けさにカチカチと響く。


「おはようございます、グレイさん」


 工具を止めて、彼が顔を上げる。

 魔導紋の刻まれた義手が、わずかに動いて音を立てた。


「……ああ。今日も、虫が飛んでくるかもしれん。気をつけろ」


「虫?」


「バグスが、また何かやってるらしい。屋上の温室でな」


 洗濯物を干しながら、俺は空を見上げた。

 上層の底面が、巨大な天井のように広がっている。

 魔導排気口から立ち上る白煙が、空気をぬるくにごらせていた。


 この階層では、“何か”が出てくるのは日常茶飯事だ。

 さっきも野良怪人キメラ遭遇そうぐうしたばかりだ。


 昨日は、上層から魔導スライムの残骸ざんがいが落ちてきた。

 青黒い粘体が、排気口の熱風で焼けげて、ベランダに張り付いていた。

 魔導スライムは、魔力に反応して分裂する性質がある。

 放っておくと、配線に入り込んでショートを起こす。

 触れると粘着性が強く、皮膚に魔導粒子が残るのが厄介だな。


 魔導粒子は、皮膚に付着すると炎症を起こすことがある。

 長期曝露ばくろでは、精神干渉や記憶の混濁こんだくを引き起こすこともある。

 都市では“粒子酔い”と呼ばれ、下層では日常的な症状だ。

 粒子酔いで階層を移動できなくなる者もいる。


 一昨日は、配送用バイオコンテナが落ちてきた。

 上層の魔導畜産施設から運ばれる途中だったらしい。

 魔導冷却装置が壊れ、中身が散乱した。


 冷凍された牛の半身、首のない鶏、二足歩行の豚。

 あばらがき出しの加工肉が、跳ね回っていた。


 死んでいるのか、まだ動いているのか、判断がつかない。

 魔導汚染で、肉の一部が自律反応を起こしていたようだ。

 エリシアの話では、魔導粒子が神経模倣回路に残留していたのが原因らしい。


 食材としては貴重だが、食欲はかない。

 住民たちで取り合いの末に、小競り合いが起きた。


 そして今日は──虫、か。

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