第3話

朝、学校に行くと五月雨さんがいなかった。

いつも彼女の取り巻きをしている女子生徒たちが、こちらを見ながらコソコソと会話をしている。

嫌な予感がして後ろを振り返る。シロが下手くそな知らんぷりをしていた。


「シロ。もしかして昨日、なにかした?」

「……別に?」

「〜〜〜っ、シロ!」


私はシロの腕を掴み、空き教室まで連れて来る。私がこんな顔をすると思っていなかったのか、シロが気まずそうに瞳を反らした。怒っちゃ駄目。怒っちゃ駄目だよ。そう思えば思うほど、ふつふつと感情が湧き上がってくる。


「答えてシロ。何をしたの」

「…五月雨心露の悪行をリークした。今ごろ職員室がてんやわんやになっている頃だ」

「っ、なんでそんなことしたの!?」


悪行。そう言われて真っ先に思い当たったのは私に向けて行われてきた数々の嫌がらせだった。私だけに限らず、シロが言う。なおかつクラス内外問わず、彼女の横暴に辟易したり迷惑に感じていたりする人たちがいたのだと。その人たちの声を、自分は匿名で代弁しただけなのだと。まっすぐな瞳でシロが言う。

途端に、自分が酷く汚らわしい存在に思えてきて。言いたいことが伝わらない焦りが迫ってきて、私は泣き出したくなった。


「間違ったことをしたのは向こうだろう?どうしてカスミが俺に怒るんだ?」

「そういうことじゃないの…」

「なら、」

「私言ったよね。逆らったら何されるか分からないんだよ。だから何も言わなかったのに。たった3年間しか一緒にいない仲なのに、こんな風に拗らせるつもりなんてなかったのに!」


叫ぶように叩きつけた声に、シロが一歩後ずさる。どうしよう。絶対五月雨さんは私のせいにする。私のせいだって決めつけて、今度こそ私をこの場所から追い出そうとする。そんな考えばかりが脳みその中をぐるぐると回った。嫌だ。嫌だ。鼻の奥がツンとする。涙が一つ、ほっぺたを伝って流れた。シロがギョッとする。


「お、落ち着けってカスミ。お前がやったわけじゃないんだ。五月雨心露だってそんなこと…」

「そんな風に思うのは、シロが天使様だからだよ!!」

「カスミ…」

「五月雨さんのこと知らないくせに!今までのこと知らないくせに!全部知ってる人ならそんな事言わない!」


シロは違うから。人間とは違うから。人間には見えない存在だから。私の後ろで見守るだけ。肝心な時に守ってくれることはない。

だってシロは言った。


『人間の願いを叶えないと天界に帰れないんだ』


シロは、そのために私の側にいるだけなんだから。

……そこに特別な感情なんてないんだから。


「関係ないんだから放っておいてよ!!」

「カスミ…!」

「ついてこないで!!」


教室を飛び出す直前、縋るように手のひらを伸ばしたシロに叩きつけた。シロが迷子の子どものような顔をする。私は必死に顔を背けて走った。誰もいないところ。誰も私を知らないところに行きたかった。この先をことを考えると消えてしまいたくなった。

狭い世界で生きているってわかっている。一時的な空間で、一時的な関係性で、近いうちになくなってしまうものだって分かってる。それでも絶望はするし、仕方ないって割り切れるほど、私は大人にはなれなかった。


校舎の裏。建物同士の角が合わさる場所。ちょうど日陰になるそこは、授業中は誰も訪れることのない絶好のボッチスポットだった。

私は座って壁にもたれかかる。体育座りした腕をギュッと握りしめた。


「……シロ、」


自分から突き放したのに、シロが追いかけてきてくれなかったことに傷ついてる。どうして私はこんなにも身勝手なんだろう。自己嫌悪の涙がジンワリと滲んでくる。

わずかに見えていた太陽を遮るように、人の影がひょっこりと姿を現した。私はゆっくりと瞳を瞬く。


「クロイ、くん…?」

「おーおー、カスミちゃん、どした?」

「どうしたのはこっちのセリフだよ。もう1時限目始まってるのに…」

「うちのクラス自習なんだよねぇ」


よいしょ、と私の隣にどっかり腰を掛けたクロイくん。何となく顔を見られたくなくて、そっと視線を反らす。少しだけ笑ったクロイくんがハンカチを差し出してくれた。


「すごい顔して走ってるカスミちゃんの姿見えたから教室抜け出してきちゃった。大丈夫?」

「う……」

「……何かあった?俺でよければ話聞くよ」


クロイくんが真剣な表情でこちらを見つめる。私は少しだけ迷って、大まかにだけ伝えて相談することにした。


クラスの女の子から嫌がらせを受けていたこと。その人が学園の偉い人と繋がりがあるから、事を荒立てたくなかったこと。それを知った友だちが怒って先生に全部話してしまったこと。私がそれを責めてしまったこと。

ざっくりと伝え終わると、クロイくんがものすごく考えるように唸っていた。


「…どっちが悪いと思う?」

「うーん、五分五分かな!」

「えっっ」


私は思わず声を上げてしまった。全部私が悪いって、誰かの善意を素直に受け取れない私のせいだって言われると思ってたのに。そんな私の声を聞いたクロイくんが苦笑する。


「やだなカスミちゃん。オレが全面的に君を非難すると思ってた?」

「うん…」

「間違ってることは間違ってるって言うよ。でも、君が正しいって思ったらちゃんと味方になるよ。それが友だちってやつでしょ」

「クロイくん…」


私が感嘆を含んで名前を呼ぶと「なんかその、すごい良い奴を見るみたいな目やめてくれない?なんかヤダから」と照れ隠しに手をパタパタさせていた。


「でもさ、こうやって相談してくれたってことは、自分も悪いところがあったってわかってるんでしょ?」

「……うん」

「確かに、カスミちゃんのためを思って行動してくれたオトモダチを責めたのは良くなかったね。でも、君の気持ちを考えずに勝手に結果だけを押しつけてきたソイツもまあまあ悪いと思う」

「……どっちもどっち、ってやつかな?」

「そうだねぇ」


仲直りできそう?クロイくんが柔らかい視線を向けてくる。私は素直に頷いた。クロイくんの言葉は不思議だ。気持ちに寄り添ってくれて、支えてられるような心地になる。少しだけシロに似ている気がした。


「たぶんその子は、カスミちゃんが素直になるチャンスをくれたんだよ。カスミちゃんだって、その嫌がらせマンに色々思うことはあったんでしょ?いじめっこって自分がしたこと、すーぐ忘れるからねぇ。言葉をぶつけるなら、今が好機なんじゃない?」

「…たしかに」


たくさん思うことがあった。あったけど言えなかった。立場が揺らぐのが怖かったから。学園にいられなくなるのがこわかったから。

でも、今は先生が全部知っている。もみ消されてなかったことになる可能性もあるけれど、だからといってこのまま顔色を伺うような自分のままいたくはなかった。

私は心に強さを持って、クロイくんに向き直る。


「ありがとう、クロイくん。私頑張るね」

「…期末テスト終わったらさ、また魔術検証付き合ってくれる?今度は前のよりすっごいヤツ」 

「またお呪いするの?」

「うん!今度はきっとカスミちゃんも喜ぶよ。だから楽しみにしててね!」

「うん!」


私は立ち上がり、クロイくんに手を振る。クロイくんは戻らないのかと問うたけど、このままココでサボることにしたらしい。メガネをかけているのに優等生ではないみたいだ。私は校舎へつながる扉に手をかける。


「本っ当可愛いなぁ…お馬鹿さん♡」


私は知らない。私が立ち去った後、クロイくんが吐き出した言葉を。眼鏡の奥、その瞳が金色の光を帯びていたことも。


私は、まだ知らない。






*****






教室に戻ると、五月雨さんが戻ってきていた。いつもは人が集まって賑わっている彼女の周りには、もう誰もいない。席に座り込んで虚空を見つめる瞳が、キュルリと私を捉えた。

痛いほど掴み上げられた右腕。引っ張られて連れて行かれた空き教室で、私はありったけの罵詈雑言をぶつけられた。どうやら自主退学を勧告されたらしい。

さっきまでの自分なら、きっと恐怖で怯えて動けなかったんだろう。でも、今の彼女はそこまで怖い人間にはみえなかった。

どこかたかが外れた様子の五月雨さんが、ペラペラと独り言を漏らしていく。


「チクったのはアンタね。アンタしかいないわ…テストのカンニングだってバレた…教師を脅してやらせた成績操作だって…どうして、なんで…アンタのせいで…」

「私のお友だちが言ってくれたの。それは私じゃない」

「全部台無しよ…全部、全部全部全部全部全部…!」


目が血走っている。いつも整えている茶髪がぐしゃぐしゃだ。憎悪の瞳が向けられている。でも、私は今しかないと思った。今しか言えないと思ったから、五月雨さんにまっすぐ言葉をぶつけた。


「私、今まであなたが怖くて言えなかった。でもね、その子おかげで気づけたから。勇気をもらったから、私の本音を伝えるね」

「は………?」


「五月雨心露さん!私、あなたが大嫌い!!!」


______五月雨さんの瞳が、ガッと見開かれた。


「っっ黙れ!!」

「え、」


ぶわり。黒い霧が、塊が、五月雨さんの足元から彼女を包み込むように広がっていく。息が苦しくなるような重圧に、視界がくらりと揺れた。足が震える。泣き叫ぶような悲鳴が鼓膜の奥で反響していた。

黒い塊が耳障りな音を立てながら形作られていく。私は目を見開いたまま固まった。

ヤギのような角。歪に歪んだ唇。爛々と黒く輝いた瞳が確実にこちらを見つめている。バサリと広げられた、コウモリのような翼に、酷く見覚えがあった。

クロイくんに見せられた宗教画に映っていたその姿は、


「悪魔……!!」


初めて見た。いや、これは見てしまっても良いものなんだろうか。人間が悪魔になるなんてことあり得るんだろうか。

悪魔に成った五月雨さんが何かを呟いている。金属を引っ掻くような不愉快な音の隙間に、聞き取れる言語が存在している。


『ワタシ…シイ、ワタ…ガスベ…』


______私が正しい!私がすべて!!


その言葉を拾い集めた瞬間、ぶわりと感情が爆発するのが分かった。


「その認識が間違ってるの!ここはあなただけの世界じゃない!!」


真っ黒な手のひらが振りかぶられる。私はぐっと身構える。言いたいことは言えた。ここで吹き飛ばされても構わないと思った。絶対に屈したりなんてしたくなかったから。


「何度だって言うよ、間違ってるのはそっちだから!」


私は一言一句、ハッキリと叫んだ。おもちゃの積み木を崩すみたいに、風を切る手のひらが私を壁にたたきつけるはずだった。


「“守れセルヴァ”!!」


______瞬間、真っ白な光が私の視界を包み込む。


目を開けると、半透明の球体が私たちの周りを覆うように浮かんでいた。私は驚いて瞳を瞬く。私を守るように抱きしめてくれた腕は微かに震えていた。その人は背中側にいるから顔は見えない。だけど、この手のひらの温もりを私は知っている。


「……シロ?」


私の言葉に、手のひらがピクリと震える。どうやら合っていたみたいだ。私は少しだけ微笑んで、シロに会えたら言おうと思っていたことを吐き出した。


「……ごめんね、シロ。ありがとう」

「〜〜っばか!」

「えっ」


グルリと身体が反転する。目の前には涙を眼に浮かべて唇を噛み締めるシロがいた。私はぎょっと目を見開く。


「下級とはいえ、悪魔にあんな啖呵切るなんて…もっと命を大切にしろよ!」

「ご、ごめんなさい…」

「…俺もごめん」

「シロ…?」

「俺、カスミの気持ちを考えられていなかった。早く帰らなきゃって焦ってた」


シロがぽつり、ぽつりと呟く。自分は人間の常識をあまり知らないから、知らない間に迷惑をかけているんだと思っていたこと。私に負担をかけないように、なるべく早く、多くの人々の願いを叶えられる方法を見つけようと必死になるあまり、周りが見えていなかったこと。


「“五月雨心露と離れたい”。それがアイツの周りの人間たちの多くが抱えている願いだったんた。これをうまく利用すれば、カスミに火の粉が降りかかることなく、今の状況を打開できると思った」


私だけじゃない。多くの人が不満を抱えている状況なら、誰が密告してもおかしくない状況なら、私一人にヘイトが集中することはないと考えたんだろう。しかし、五月雨さんの性格や行動パターンを把握できていなかったため、彼女の標的が私になってしまった。


「…カスミのために、なんて頑張ってたのに、結局カスミのことを傷つけるだけになってしまったな」

「そんなことないよ!だって私、シロのおかげで五月雨さんに言い返せたんだもん!」

「…俺の?」


驚いたようなシロに、私は必死に頷く。


「本当は、何も言い返せない自分が嫌だった。仕方ないって思いながら、どこかでずっとふざけるなって、バカ野郎って言いたかったの。シロが言った通りだったよ。本当は自分で行動しなくちゃいけなかったけど、ずっと怖くてできなかった。だからシロがチャンスをくれて、すごくありがたかったの。だから、私はちゃんと救われたよ。ありがとうシロ」

「……うん!」


シロの表情がパッと明るくなる。心なしか、真っ白な羽根の動きが活発になったような気さえする。仲直りはできたと思っていいだろうか。ゆる、と唇が持ち上がった瞬間、硬いものを叩きつけるような音が響き渡った。

私はハッとして前を見据える。悪魔化した五月雨さんが何かを仕切りに呟きながら球体を攻撃していた。


「シロ、五月雨さんが…!」

「悪魔に肉体を乗っ取られかけてるんだ!まだ魂までは喰われてない!今のうちに引き剥がすぞ!!」

「どうするの?」

「俺が授業で習った、唯一の祝福を唱える!」

「祝福…?」


シロがしっかりと頷く。祝福は天使が使える特別な神の力らしい。立場が上になればなるほど、扱える祝福も増えていくのだそうだ。私はふと、とある疑問が浮かび上がった。


「じゃあ、今まで使ってた力は…?」

「アレは天の力だ!一般天使が誰でも使える魔法とでも思ってくれればいい!」


シロがどこかから取り出した木の杖を構える。いつにもなく真剣な表情に、私も覚悟を決めた。


「シロ、私何をしたらいい!?」

「……手を、握っていてくれ、」

「え?」

「だから!手を!握っていてはくれないか!!」

「ええええ!?」 


いきなりなに!?私が顔を赤くすると、シロもシロで顔を真っ赤にして叫んだ。


「っ実は僕、この祝福がどうも苦手で、授業で一度も成功したことがないんだ!」

「それって、ぶっつけ本番ってこと…?」

「うぐ…そうだな…」


私の指摘にぐっさり刺されたシロが、緊張を解きほぐすように息を吐く。そして、今度こそ前を向いた。


「だが、アイツを救うにはこれしかない。頼りない翼ですまないが、どうか俺を信じてほしい!」

「分かった。信じる!」

「ありがとう、カスミ!」


シロが私の右手を取る。離れないように、離さないように、指と指をしっかりと絡ませる。シロが構えている杖に光が宿る。光の粒子が、私たちの周りを巡って収束していく。神々しさを纏い瞳を閉じたシロが、呪文のような言葉を早口に唱えていく。

大きな手のひらが何度も球体を攻撃する。そのたびに足元が揺れるような感覚がして、恐怖がじわりじわりと心を侵食していく。

でも、今の私にできることはシロを信じることだけだ。絶対に負けない。私は目の前の悪魔を睨みつける。


収束した光が、束になりシロの周りに集結する。ゆっくりと瞳を開けたシロが、最後の呪文を唱え終わった。瞬間、球体に幾つもの亀裂が入った。私はひゅっと息を吸い込む。


「っシロ!」

「全ての生命に祝福を!!祈りを!!

 “浄化プルガティオ”!!」


シロの言葉を合図に弾けた光の粒子が、異形の悪魔を包み込んで溶かした。人間の姿に戻った五月雨さんが、ゆっくりと地面に倒れ込む。

私とシロは思わず顔を見合わせる。震えた右手に痛いほどの力が加えられる。生きてる。元に戻った。呆然としたシロが呟いた。


「……やった、のか?」

「みたい…」

「や…やった!初めて成功した!カスミのおかげだ!」

「やったね、でも待って、五月雨さんが、」


『あれ、失敗してんじゃん』


______瞬間、全身の身の毛がよだつような感覚。


耳元で聞こえた声。すぐ側にある気配に身体が金縛りに遭ったかのように動けなかった。


『うーわ最悪。萎えるわ〜』

「っカスミ!」


耳元の気配がスッと遠ざかる。私はペタンと尻もちをついた。私より少し高い背丈。灰色のフードに隠れた後ろ姿が、倒れている五月雨さんに近づいていく。


『んー、辛うじて人間の魂は保ってんね。普通だったらそのまま悪魔堕ちしててもおかしくなかったんだけど…最後は天使サマに救われて良かったでちゅね〜』

「だれ…?」

『あは、カスミちゃん。俺のこと気になるんだ?』

「名前、なんで知って…」

「待てお前、ソイツに何をした!」


私を庇うように前に立ったシロが吠える。フードの人物…恐らく男性は、何でもないように笑った。


『対価と引換えに願いを叶えてやっただけだよ。あたしは1番にならなきゃいけないの!だっけぇ。こんなクソ狭い学校の中で満足してるなんてカワイソウな人生だよなぁ』

「1位に…?」

『そう。お前がいるからこの女は1番になれなかった。この女が悪魔になったのはお前のせいだよ。十川霞』

「っカスミ!悪魔の言葉は聞くなよ」


どくり、と心臓が音を立てる。五月雨さんが悪魔になった理由が私。それも十二分にショックだった。でもそれ以上に目の前の、シロが悪魔と読んだフード男。彼にどこか既視感を感じている自分が信じられなくて。


「あなた…どこかで会ったこと…」

『それを言うのは野暮ってもんだよ、カスミちゃん♡』


フード男が窓枠に手をかける。逃げるつもりだ。止めなきゃ。そう思っているのに身体が動かない。それはシロも同じらしい。立っているのがやっとみたいだった。


『こらこら無理しなさんな。どうせまた会えるからサ』

「待って!」

『バイバイ、お馬鹿さん♡』


フード男の姿が窓の向こうに消える。私は思わず躓くような勢いで窓枠にすがりついた。その下には誰もいない。私は今度こそ、完全に力が入らなくなった身体で座りこんだ。

 

……五月雨さんはその後、病院に運ばれたそうだ。身体が異常なほど衰弱していて、もう少し発見が遅かったら命にも関わっていたのだと聞かされた。

結局、あのフード男が何者だったのかについては分からないままだった。






**********






開けづらい鍵を下におろしてベランダへと通じる窓を開ける。缶ジュースをシロに持ってもらって外に出ると、過ごしやすい秋の風の中に、どこか乾いた冬の香りもした。私は冬に見上げる月が好きだから、早く季節が変わればいいのにな、と思った。


私はココア。横でプルタブを開けるのに苦戦するシロに手を伸ばしながら問いかける。


「どうして、シロは早く天界に帰りたいの?」

「……やっぱりまだ怒ってるのか?」

「ううん、純粋な興味、かな」


もぎたてパインジュースを一口飲んだシロが、缶を両手で持ちながら呟いた。


「……俺は、上級天使になりたいんだ」 

「上級天使?」

「最も神に近いと言われる存在だ。上位から熾天使セラフィム智天使ケルビム座天使スローンズの三部隊がある。その力は凄まじいんだ。どんな祝福も自身の手足のように操り、俺たちの想像を超えた奇跡を生み出すことのできる存在…らしい」

「…どうして、シロは上級天使になりたいの?」

「……幼馴染を、助けるためだ」


カシャリ。握力で歪んだアルミ缶が特有の音を立てる。


「俺の幼馴染は元人間なんだ。力が強大すぎるせいで、本人が望まぬまま上級天使の有力候補として担ぎ上げられていた。…それがある日、突然眠ったまま目覚めなくなってしまった」


呪いでもない。魔術でもない。ただただ眠り続けているだけなのだという。原因は分からない。明日目覚めるかもしれないし、100年後に目覚めるかもしれない。そんな曖昧な状態。


「上級天使になれれば、たくさんの祝福を操ることができるようになる。そうすればきっと、幼馴染を目覚めさせることもできるはずなんだ」


シロの瞳がどこかを見つめている。哀愁を感じるような視線が誰かに向けられている。そこに私はいない。人間たちは存在しない。当たり前のはずなのに、心臓が苦しくなるような気がした。


「俺はアイツに、幸せになってほしいから」


幸せ。シロはそう言った。人間とは違う思考回路を持ってはいるけれど、自己犠牲精神の強い性格をしているシロ。何となく嫌な予感がした。私は手元の缶ジュースをギュッと握りしめる。


「…上級天使になったら、シロはどうなるの?」

「神に近い存在になる、から…たぶん余計な思考を持てなくなる、のかな」

「……それって、」

「感情だったり、人格がなくなんだと思う…たぶん。上級天使と話したことはほとんどないけど、噂で聞いたことがある」


ドクリ、心臓が脈を打った。お腹の底が冷たくなるような感覚がした。目の前で何でもないように笑えてしまうシロが、別次元の存在なのだと強く認識させられてしまう。


「…シロが、シロじゃなくなっちゃうってこと?」

「神の近くで付き従うんだぞ?それ相応の代償は付き物だよ。その代わり、すごく強くなれるんだ」

「……シロはそれでいいの?」

「うん。構わないよ」


シロは言った。幼馴染に幸せになってほしいと。でもそうなったら、シロはどうなるの?


「……その幸せに、シロはいないの?」

「え、」


きょとん、と瞳を瞬いたシロが視線を上に外して、下に映して、ボンヤリと考えるように呟いた。


「そんなこと、考えたこともなかったな…」


…私は少しだけ、シロの特別な存在に慣れたような気がしていた。だけど気の所為だったみたいだ。焦がれた天使の胸の内には、違う誰かが居場所を持っていた。

ココアの後味が今更、すごく苦く感じた。

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