第2話
「カスミ!これは何という道具だ!?」
ドタドタと騒がしい足音の後、洗面所からひょっこりと顔を出す黒髪の男の子、シロ。乾いていないツヤツヤの黒髪から水滴が幾つも滴り落ちている。伸縮自在らしい真っ白の羽根は最小限に縮められていて、大きめサイズのTシャツの背中に収まってしまっている。この姿だけを見ると、普通に人間の男の子みたいだった。
「ドライヤーだよ」
「風が出る!熱い!何だこれ!」
「勿体ないから計画的に使ってね〜」
「わかった!!」
黒色のコンセントを引きずりながら洗面所に戻っていく後ろ姿を眺めながら、私はそっとため息をついた。
天使は天界以外に住めるところがないらしい。宿無し飯無し状態だと訴え上目遣いで震えるシロを、私はとりあえず寮室まで連れて帰った。
聖エンゲル学園は全寮制…ではなく希望者が暮らせる寮がある。男女の棟はキッチリ分かたれていて、それなりに厳しいルールも存在していた。
「一応男の子は入っちゃ駄目って決まりがあるんだけど大丈夫かな?」
「大丈夫だ!俺、普通の人間には見えないから!」
「天使……?」
クロイくんは何やかんや理由をつけ、先生に預けて帰ってきた。気絶しているだけなので後は先生たちがどうにかしてくれるだろう。人はそれを丸投げと呼ぶ。
「私の願いを叶えるっていっても…どうするの。私がほれを自覚するまで待つつもりなの?」
椅子に腰掛け、お風呂上がりのアイスを食べながらシロに話を向ける。スプーンを咥えながらテレビのリモコンを操作するシロが首を横に振った。
「いや、カスミの願いは一番最後だ。願望は大きいものほど奥底に仕舞い込むものだからその分加点も多くなるんだ。それでなんかこう、いい感じにギューンてやるつもりだ」
「なるほど…じゃあ、私の願いが分かるまでに、ほかの人の願いも叶えなくちゃいけないんだね」
「そういうことになるな」
忙しなく変えられていたチャンネルが固定される。どうやらシロは恋愛ドラマが好きらしい。記憶喪失のヒロインがついに活躍するらしい第三話が放映されていた。その前を観ていないので、初見の何ともいえない感覚でストーリーを見ていると、シロがくるりと振り返った。
「カスミ、何かいい方法はないか?」
「うーん…」
カスミは考える。私は友だちはそう多くはない。話せるけれどもプライベートは共有しないクラスメートばかりだ。それに…ひとりの姿を思い浮かべ、私は慌てて思考を切り替える。
「クロイくんに聞いてみたらどうかな?変わってるけど友だちは多いよ」
「……あの少年かぁ」
天使様のお呪いも彼から教えてもらったし。アイスを食べながらそう言うと、なぜだか渋い顔をするシロ。
「アイツはなぁ…うーん、なんというか…ちょっとなぁ」
「どうしたの?」
「……いや、確信を得られない段階で話してもどうしようもないことだ!なんでもない!」
「そう?」
「そんなことより、明日は学校だろ?宿題はしたのか?歯磨きは忘れてないか?もうすぐ寝ないとだぞ!」
「なんかシロお母さんみたい…」
「む!母親とは失敬な!!」
「え、え?」
すっくりと立ち上がり、何やらずんずん近づいてきたシロ。私が咥えていたスプーンを掴みそっと抜き取ると、至近距離でじっと私の顔を見つめる。黒くて大きな瞳が私を大きく映している。何かを見透かされているような気がして、何だか心臓がドキドキした。思わず息を呑んだ私に、シロがゆるりと微笑む。
「ほら、今お前は緊張しているな?」
「え、あ…」
「お前は母親相手に、そんな気持ちになるのか?」
そっと右耳に触れた指先の温度。少しだけ冷たいそれがゆっくりと耳をなぞる。そっと横髪を耳に掛けられ、私は顔が真っ赤になるのがわかった。
「し、しししシロのえっち!ばか!」
「あっコラ、バタバタするな!ホコリが舞うだろ!」
「もう寝るおやすみ!」
「カスミ!歯磨き!」
流石に仕上げ磨きのお世話までされるのは嫌だ。私は慌てて洗面所に駆け込む。音量を抑えた笑いが扉越しに聞こえてきて、何故だが地団駄を踏みたくなった。
電気が消えた部屋は、カーテン越しに夜の街の光が透けている。暫く目を瞑っていたけど、ふとシロのことが気になって目を開けた。何となく寝返りを打って体勢を変えると、シロの後ろ頭が見える。寝てるのかな。そっとツムジを突くとシロが振り返る。半分寝てるみたいにウトウトした表情だ。起こしちゃったみたい。ごめんね。私はそっとシロの頭をなでる。
「…横にならないの?」
「ん、羽は最小限に畳んでるけど後ろが窮屈なんだ。座ったままでも寝られるから大丈夫だよ」
背中がモサモサして皮膚が突っ張る感じらしい。確かに、そんな状態だとうつ伏せでしか寝られないかも。聞いたらシロはうつ伏せは息苦しくて寝づらいから嫌いなんだそうだ。
なるほど、面倒くさい。
「じゃあ毛布貸してあげる。ふわふわでお気に入りのやつだよ」
「……ありがとう。カスミは優しいんだな」
「……うん」
毛布を受け取りながら優しく微笑むシロ。暗闇に慣れた視界がとろけた眦をハッキリと映し出す。何だか恥ずかしくなって、私はもにょりと唇を動かした。
「さ、もう寝よう。明日も学校だろ?」
そう言って、横になった私に布団を掛けてくれたシロ。私がしたよりも優しく頭を撫でてくれる。その柔らかい温かさに私は微睡んでいく。
「……忘れてた。シロって天使様だもんね」
「うん?」
「…あったかい」
「…おやすみ、カスミ」
夢の中で、家族が微笑んでくれたような気がした。
***********
「起きろカスミ!朝だぞ!」
「んぬわわ!!」
カーテンの開く音と共にビカッ!と光が降ってくる。勢いよく取り上げられた布団に驚いて私はベッドから転げ落ちた。
「ほら!顔洗って朝ごはん!俺の目が黒いうちは遅刻なんてさせないからな!」
「しっかり者だぁ…」
やっぱりお母さんみたい。昨日怒られたばかりの言葉をみそ汁と一緒に飲み込んだ。温かくて美味しかった。
……早く放課後になればいいのにな。学校が始まってもいないのにそう思った。
ゆっくりと階段を登る。わざとらしいくらいゆっくりと右足を持ち上げる。後ろから浮かんでついてくるシロは、何も言わないけど変に思ってるんだろうな。
教室が近づいてくると緊張する。クロイくんはクラスが違うから放課後までは会えない。教室の扉に手をかける。中からは少しの笑い声と話し声。何人もの人の気配がした。数秒の躊躇の後、意を決して扉を開ける。
「……ぉはよう、」
私の発した言葉に一瞬、皆がこちらを見る。教室が静まり返ったのが分かった。誰も何も言わない。返すこともない。やがて、私の存在を意識から外して皆は日常に戻っていく。私は居たたまれなくなって、早歩きで席に着いた。
私の机は窓際の一番後ろ。奇数人数のクラスだから、隣の席には誰もいない。誰も何も聞こえていないのに、シロが小さな声で問いかける。
「……人間は挨拶はしないのか?」
「するよ。でも私がそこまで仲良くないだけだから」
「そうなのか…」
若干納得していないような顔をしながらも言葉を濁すシロに少しだけホッとする。
瞬間、目の前に手のひらが2つ、叩きつけられた。
ビクリと強張った視界。私はゆっくりと上を向く。そこにはウェーブのかかった茶髪を流した女の子…五月雨さん。五月雨さんが私を見つめて微笑んだ。
「おはよぉ、十川さん」
「お、おはよ…」
「十川さん。アレ持ってきてくれた?」
「う、うん…」
私は震える指先を必死に動かして鞄の中からノートを取り出す。慌てていたからか、違うノートまで一緒に引っ張り出してしまった。誤魔化すようにそれを机の中にしまい込み、五月雨心露と書かれたノートを机に置く。
それを見たシロが血相を変えた。
「おい、カスミ!それお前のノートじゃないだろ?どうしたんだそれ…カスミ?」
私は答えない。五月雨さんから視線を反らしたら駄目だから。機嫌が悪くなったら困るから。すぐに対処しなきゃいけないから。私はコクリと息を呑む。五月雨さんが、きゃあ、と作り物めいた歓喜の悲鳴を上げた。
「ありがとぉ!流石特待生だね!仕事が早ぁい!」
「いや…別に、」
褒められた。でも嬉しくない。こわい。だって五月雨さんの目は笑ってないから。口元だけが微笑んだ五月雨さんの視線が、開かれたままのスクールバッグに向けられた。
「ところでさぁ…またアンタ、自分のもやってきたの」
「…え?」
五月雨さんの手が、私のスクールバッグに伸ばされる。あ、と思うまもなく一冊のノートが取り出された。さっきのものと同じ色。私の名前が書かれたノート。それを認識した五月雨さんの表情がひどく歪んだ。
「ちょっと勘弁してよぉ、アンタが宿題やってきたら、あたし一番じゃなくなっちゃうじゃない!」
「でも…これ、成績に関わるし…」
「別に、成績下がったくらいで…あぁ、アンタ特待生だっけ?成績悪くなったら奨学金打ち切られるんでしょ」
「う、ん…」
「そうなったら学校やめればいいんじゃない?」
「コイツ!」
「っ、シロやめて!」
「は…?」
掴みかかろうとしたシロが視界に映って、私は思わず声を発してしまった。はっとして口を抑えたけど、もう遅かった。五月雨さんが、今度はあざ笑うように唇を持ち上げる。
「…なに?イマジナリーフレンドってやつ?気持ち悪」
「……ちが、」
「やだぁ、そんな子だと思ってなかった。貧相な子って想像力だけは豊かなのね」
バサリ。五月雨さんが持ち上げていたノートが机に放り出される。床じゃないだけマシだったかもしれない。ボンヤリと思いながら、心の何処かで傷ついた自分をギュッと押し込める。
「来週の期末テスト、学年1位とったら許さないから」
「……ごめんなさい」
謝るなんて違う。ここは謝る場面じゃない。そう思いながらもその言葉しか出てこなかった。私は五月雨さんが去るまで、息を殺してじっと耐える。
後ろで見ていたシロは何も言わなかった。
授業中当てられても正しく答えてはいけない。そういうルールだから。
ペア学習は誰ともペアを組んではならない。そういうルールだから。
お昼ごはんは教室で食べてはならない。そういうルールだから。
……五月雨さんのいうことは、絶対だから。
「なんで言い返さないんだ?」
6時限目の終わり。誰もいなくなった講堂でシロが私に言った。どうやら怒っているらしい。私はボンヤリとシロを見つめる。フツフツと沸き上がる何かを、しっかりと押し込める。
「あんなの間違ってるだろ!他人にやるべきことを押し付けて、その上あんな身勝手なこと…」
「………」
「自分で努力しないくせに、他人の評価を下げて蹴落として、1番になって満足なのか!?そんなことで成績が上がったって、いつかボロが出るに決まってるのに」
「……の、」
「カスミもそう思うだろ!?ふざけんなって、バカ野郎って、本当はそう思ってるんだろ?」
「……めなの、」
「カスミ!」
「っだめなの!」
「!!」
思ったよりも大声が出てしまった。静かな講堂に反響した声に、シロがビクリと身体を強張らせる。心の底からわき上がってきた感情が、蓋の隙間からこぼれ落ちてしまった。私は、はっとして頭を振る。
「…言い返しちゃダメなの。そういうルールだから」
「ルール…?あれが…?」
「特待生は途中編入だから、古参の学生には逆らっちゃダメなの。五月雨さんは特にだめ。学園長と知り合いだから、変な事したら追い出されちゃう…」
「学園長と、あんなやつが…?」
シロが愕然とした表情になる。それを聞いたら、やっぱりシロも納得しちゃうでしょう。私は諦めたように、少しだけ笑ってみせた。
「だからお願い。大人しくしておいて。私は大丈夫だから」
「……カスミがそういうなら」
予鈴がなる。思考が切り替わる。早く教室に戻らなきゃ。後ろからついてくるシロがどんな表情をしていたかなんて、私は知らなかった。
放課後は図書室で課題を解くことにしている。預かったノートの方を先に、丁寧に解いていく。私の分は少しずつ解答をズラした。記述文は答えが重ならないように。決してこちらが上にならないように。
それがルールだから。そういう決まりだから。自分を納得させるようにそればかり考えた。
課題が終われば自由だから。そう言えばシロは何も言わなかった。そのままでいてほしいと思う自分が、正反対の自分を押し留めていた。
「……任せろ。俺が絶対に何とかしてやる」
お姉ちゃんが笑って抱きしめてくれた。そんな夢を見た。
悪夢ばかりの夜は、すごく幸せだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます