穴の中では
@kaddy
本文
最悪だ。穴があったら入りたい。齢18にして僕の人生は終わりを告げようとしている。
僕には好きな女の子がいた。同じクラスの黒森さんという子で、いつも明るく誰にでも笑顔を振りまく子だ。失礼ではあるが彼女は美少女というわけではない。ただいつも周りを見て誰かの為に動き、彼女がいる場ではみんなが笑顔だった。ある時、黒森さんから数学の勉強を教えてほしいと頼まれたことがあった。理由を聞くと
「数学の時間が一番顔がいきいきしてるから、得意なのかなって。」
とのことだった。本当に人のことをよく見ている人だと思う。黒森さんは数学が苦手らしく、それから時々一緒に勉強をするようになった。黒森さんは最初もっと明るい人だと思っていたし、大勢でいる時はやっぱりそう振る舞っていた。ただ、僕と2人でいる時にだけ何か悩みのようなものを話すことがあった。どれも内容は些細なことだ。友達とのやりとりについて、家族との喧嘩について、塾の先生に叱られたことについて。ドラマや映画にするには少し足りないくらいの些細な不幸や愚痴を僕に話してくれるようになっていた。いつも大抵笑顔でいるから、逆に感情の機微を読みにくい人でもあった。それでも少しずつ距離は近付いてきたと思っていた。
2人の関係に大きな変化があったのは今年の夏だと思う。僕らは大学の附属高校に通っている。だから高校3年生だけど、内部進学をする7割以上の生徒は受験勉強をしない。僕は他のもっとレベルの高い大学を受験するべく、多くの時間を勉強に費やしていた。勉強漬けの夏休みにたった1日だけ楽しみがあった。ずっとファンとして追っていたホット・キャッツというロックバンドが僕らの住むこの街で単独ライブを行うのだという。チケットが当選した時は感動のあまり泣きそうになった。これが今後の人生で5本の指に入るレベルのビッグイベントだろう。ライブの盛り上がりは最高潮だった。みんな汗だくでタオルを振り回している。すると、僕の足元にひとつタオルが飛んできた。誰か手を滑らせてしまったのだろう。拾い上げると、持ち主らしき足が人混みを掻き分けてこちらへ向かってきていた。顔を上げるとそこにいたのは件の黒森さんだった。話を聞くと黒森さんもホットキャッツの熱狂的なファンであり、僕と同じように今回のライブチケットは抽選で勝ち取ったのだという。ライブが終わった後も熱の冷めやらない2人は日が暮れるまで、ホットキャッツについて語り合った。
僕が文化祭でバンドをやることになったのも、黒森さんがきっかけだった。僕らの通う高校は夏休みが明けて間もない9月頭に毎年文化祭がある。通常より早い時期に設定されているのは、受験を控えた一部の生徒が最後に楽しめる場を作る為らしい。クラスの何人かがバンドをやる、という話で盛り上がっていたがギターを誰がやるか、という問題に直面した。うちの学校には軽音部もなく、当然ギターがあるわけではない。ギターはそれなりに値段がするし、一朝一夕で曲が弾けるようになるわけではない。そんな時黒森さんが言ったのだった。
「名倉くんが弾けばいいじゃん!ギター持ってるし、弾けるでしょ!」
クラスのみんなが騒然とした。たしかにこの話は黒森さんにしかしたことがない。僕はホットキャッツの影響もあり趣味でギターを始め、今では簡単な曲やホットキャッツの曲なら譜面を見ずに弾くことができる。自然と視線を集める形になったが、僕が答えずに狼狽えていると
「いいじゃん!あたし、名倉くんがギター弾いてるとこ見たいなー。」
そういった経緯で文化祭のステージでギターを弾くことになってしまったわけだ。普段からあまり目立つのは得意なタイプではないが「ギターが弾ける」というだけのことでクラス内での株が上がるのを感じた。それからギター担当として文化祭までの期間限定バンドを結成し、あまり絡みのなかった奴らと一緒に練習をするようになった。みんなが熱狂的なファンだったわけではないが、ホットキャッツは多くの層から人気があったのでホットキャッツの曲をいくつかコピーすることになった。ボーカルの田崎は社交的なイケメンでサッカー部のエースでもある。彼の出場したインターハイには他の部活に入っている生徒や他学年、一部他校の生徒も含め大応援団が結成されたくらいだ。普段は会話なんて起こりもしなかった人間でも、繰り返し一緒に音楽をしていると勝手に仲良くなってくるものだ。文化祭を2日後に控えた木曜日の放課後、田崎がこんなことを聞いてきた。
「名倉くんってさ、黒ちゃんのこと好きだよな?」
それは唐突だった。黒ちゃんというのは黒森さんの愛称で、クラスの人間は黒森さんを大抵黒ちゃんと呼んでいた。僕は突然のことに上手く言葉を紡げず、ただ口をパクパクさせていた。すると、田崎は破顔する。
「いや、名倉くん普通に分かりやすすぎだし。やっぱ黒ちゃんのこと好きなんだなー。告白とか、しないの?」
「い、いや、流石に黒森さんは僕なんかじゃ釣り合わないし…。」
「そうかな?黒ちゃんも結構名倉くんのこと気に入ってると思うんだよなぁ。」
「そ、そんなこと…。」
「なあ、文化祭のステージの上で告るってのは、どう?」
「そ、そんな!?僕には、無理だよ…。」
「うーん。でも、このチャンス逃したらこのままズルズル卒業かもよ?それでも良いのか?男なら腹くくれって!」
「そうは言うけどさ…。」
実際、田崎の言うことには一理あった。もしその可能性があったとして、大学進学をするまでの約半年の間に今回以上のチャンスなど訪れないだろう。
「よし!決めたぞ!名倉くんはギター結構うめえから、ギターの練習一旦やめて告白の練習しよう!その間俺らはCD使って練習するわ!」
ということで、僕は文化祭の日に黒森さんに告白することになってしまったのだった。
来たる当日。文化祭の日。道行く生徒たちの足取りはいつも以上に軽やかだ。僕らの通う臨海大附属高校は都会から少し離れた郊外、海辺から5キロほど離れた場所にある。海からは多少距離があるものの、学校の周りにあるのは「山」と呼ぶにはあまりに小さい通称裏山がある以外に大きな建物はなにもない。なのでいつでも強い潮風が校舎まで届いてくる。いつもは寝癖をさらに酷くするこの風が嫌いだったが、今日ばかりは僕の心のざわざわを吹き飛ばしてくれるような気がして有り難かった。教室についた僕は完全に緊張に飲まれていた。そんな僕に黒森さんはいつもの笑顔で近付いてくる。
「名倉くーん!おっはよー!いよいよ文化祭だね!楽しんでるかーい!?」
黒森さんはいつにも増してテンションが高いが、対照的に僕はいつも以上に虫の息だった。
「名倉くん?緊張してるの?もう、仕方ないな。」
急に僕の手を握る黒森さん。僕の顔は熱くなりすぎて破裂しそうになる。
「緊張した時は人って字を書いて飲むと良いんだよ!ほら、書いてあげるから飲んでみ!」
黒森さんの細い指が僕の手のひらの上で踊り、僕は言われた通り手のひらにある物を飲み込むような仕草をした。
「よっし!これで大丈夫!演奏聞くの、楽しみにしてるからね!名倉くんも楽しんで!」
なんだか、一周回って覚悟が決まってきた。やっぱり僕は黒森さんが好きだ。このまま離れ離れになるなんてまっぴらごめんだ。田崎が言うように男なら決める時は決めるべきだ。そうやって1人で気合いを入れていると、ニヤニヤしながらこちらを見ている田崎が視界の端に写った。
バンド演奏は全部で3組あった。僕らが発表するのは3番目、つまり大トリだ。偶然にも発表する最後に演奏する曲は僕と黒森さんがライブ会場でばったり会ったあの時に流れていた曲だ。演奏が始まると緊張が嘘のように、指が、腕がギターの上を走った。演奏しているのは自分だが、まるで誰かに糸で操られているかのような錯覚があった。自分の目ではなく、体育館全体を俯瞰で見ているような感覚があった。僕はこの日を、この瞬間を一生忘れないだろう。柄にもなく、そんなことを思った。最後の曲になり、体育館の温度はこの日の最高温度に達した。滴る汗もお構いなしに、この空間のおそらく全員が熱狂している。そんな確信があった。曲が終わり、ボーカルの田崎が僕にマイクを渡してくる。そんなイケメンな顔で笑うな。僕が霞んじまうだろうが。今からは僕がボーカルなんだから。会場全体がざわざわと音を立てる。先程のパフォーマンスの感想を言う者、曲が終わっても歌詞を口ずさむ者、そしてやはり人気者田崎からマイクを渡されているあいつは誰だという声もあった。でもそんなことは今はどうだって良かった。マイクを受け取るとステージ中央から黒森さんを探した。黒森さんはステージの最前列にいたので、すぐ見つけることができた。というかさっきは没頭しすぎていて、こんな近くに黒森さんがいたことに今の今まで気が付かなかった。
「あっ…!」
声が裏返りキーン、と甲高い音が鳴る。おい、しっかりしろ。ここで決めなきゃいつ決めるんだ。
「黒森さん!」
黒森さんの肩が勢いよく跳ねる。自分の名前が呼ばれるとは、予想していなかったのだろう。彼女の表情には少しの怯えも読み取れる。驚かせてしまったな。申し訳ない。途端に漸く出したはずの勇気が引っ込み始めるのを感じた。でも、今までと同じではいけないんだ。唇を噛み、拳を強く握る。
「えっ私…?」
動揺している黒森さんを前に、息を大きく吸い込み腹筋に力を入れた。
「ずっと前から好きでした!付き合ってください!」
小さなどよめきがあったと思うと、体育館の中は熱狂的な静寂に包まれた。誰かがひそひそ会話をする気配がする。誰かが唾を飲み込む音が聞こえる。突然始まった分かりやすい青春の1ページに、皆が夢中だった。僕をはじめとする数百人の生徒が黒森さんの返事を待っていた。田崎はなぜかガッツポーズをしているし、他のバンドメンバーも顔を見合わせてニヤついている。彼女は困惑したように髪を触り、照れくさそうに身を捩った。やがて、自分に向けられた視線に気付いたようで黒森さんは顔を上げて周りを控えめに見渡した。その顔が赤く染まっていたのは、夕焼けに照らされていたからだろうか。そして、いつものように屈託のない笑顔を見せると
「ごめん、あたし付き合うとか、よくわかんないや!」
そう言った。それからのことはよく覚えていない。気が付けば、校門へ向かって歩き帰路につこうとしているところだった。校舎の方からは楽しそうな笑い声が時折聞こえてくる。きっとみんなまだ片付けの途中なのだろうが、そこへ戻る気力は残っていなかった。ああ、ギターが弾きたい。どこか人のいない静かな場所にでも行こうか。僕たちの学校の隣には裏山がある。特段険しいわけでもないがそれなりの広さがあり、学校の生徒や近隣の子供たちにとっては良い遊び場だ。街灯などはもちろんないので、あまりこの時間から向かう者は多くない。校舎を出て西側へ向かう。沈みゆく太陽を飲み込もうとしている裏山を目指して歩く。校舎の喧騒から離れるほど、自分の悲鳴がよく聞こえてくるような気がした。日が落ち辺りが暗くなるほど、目を逸らしたい現実が色濃く見える気がした。この裏山には隠れスポットがある。奥の茂みを抜けると小高い丘があり、その上からは僕らの住むこの街が見渡せる。日が完全に沈めば、街を照らすのは満天の星空だけになる。そこで人知れずギターを弾いていたかった。ひたすら茂みを進む。背負ったギターのせいか、なかなか茂みを抜けることができない。そうこうしているうちに辺りはすっかり暗くなってきて、背の高い木々の中ではもう20メートル先も見渡せないくらいになってしまっていた。道を間違えてしまったのか目的の丘には一向に到着しなかった。スマホをつけると画面には19時48分と表示されていた。しかし、この裏山は圏外だっただろうか?ライトで辺りを照らしてみる。見た目ではいま来た道の方向すら判別が難しい。時間も遅いしもう今日は諦めて帰ろう。自分が来たであろう方向へ進むと不思議なことに程なくして森を抜けることができた。目の前には大きな洞窟がある。これは本格的に迷ったな。まさか学校の裏山で遭難するとは。文化祭のステージで盛大に振られたことに加え、このことまで学校の皆に広まってしまったら僕は完全に笑いものだ。家に帰るのが遅くなれば、親にも叱られるだろう。もうどこにも行きたくない。もうこのまま全て終わりにしてしまおうか。そう自暴自棄になりかけていると、洞窟の奥から黒いなにかが近付いてくるのが分かった。野生動物だろうか。その黒いなにかはそれなりに背丈が高かった。二足歩行らしいが身長は2メートルくらいだろうか?でも奇妙だ。ここら辺に熊が出るという話は1回も聞いたことがない。洞窟から出てきたそいつが月明かりに照らされるとその姿が明確に分かった。大柄な人間のようなシルエットのそいつは、全身を深い体毛に覆われていて、鋭い爪と牙を持っていた。茶黒い毛に覆われた隙間から覗く赤い目は静かに光っている。まるでいつかUMA辞典で見た『イエティー』のような風貌をしたそいつは、あろうことか僕に話しかけてきた。
「よお、お前みたいに若いやつは久しぶりだな。歓迎するよ。」
なんなんだ、こいつは。明らかに人ならざる様相だが、流暢に日本語を操る。しかも歓迎しているだと…?恐怖はあまり感じていなかった。むしろ、そのつもりならできるだけ一瞬で苦痛なく終わらせてほしいとすら思っていた。
「僕は、逃げない。用事があるなら早めに済ませてくれ。」
「まあまあそう焦るな。洞窟の中へおいで。」
そう言ってそいつは暗闇の中へ消えていく。仕方なく、スマホの明かりを頼りにその大きな穴の中へと入っていくことにした。しばらく洞窟の中を進むと、スマホのライトが消えてしまった。ずっとつけっぱなしだったからか充電が切れてしまったようだ。画面の中で空の電池のイラストが数度点滅したかと思うと、スマホは完全に光を発しなくなった。しかし、不思議なことに洞窟内の景色は鮮明に見えていた。光源になりそうなものは何もない。一応、ここが洞窟の最奥のようだ。壁にはひとつだけ、拳が入らないくらいの小さな穴があいていた。
「それを覗くと、お前が見たいものが見られるぞ。ただし、過去や未来は見られない。」
そいつはそう言った。恐る恐る穴を覗き込んでみる。すると、そこからは自宅のリビングが見えた。
「全く、あの子は何時に帰ってくるのかしら。女の子に振られたからって流石に遅すぎじゃない?」
「まああいつも思春期だしな。そっとしといてやれ。」
「でも…誘拐とか何かに巻き込まれたんだとしたら、心配だわ。」
「大丈夫だ。あんなギターみたいな大荷物持ったやつ、誘拐しづらくて仕方ないだろ。」
両親が未だ帰らない僕についての話をしていた。そうだ、母親は今日の文化祭を見に来たんだったか。僕がギターを演奏すると聞いてビデオを撮るだのなんだのって…。益々、家には帰りたくなくなってきた。顔を上げると、毛むくじゃらの大男と目が合った。
「お前は、帰りたくなったら帰れば良い。帰りたくなければここにいれば良い。ただしいられるのは最大で6日だ。ここで7日目を迎えた人間は消えてなくなる。」
「あんたは、一体なんなんだ?人間じゃないのか?」
「俺はただの案内人であって、説明者だ。お前みたいなやつをここまで連れてきて、ここのルールを説明する。」
「消えてなくなるってなんだ。死ぬってことなのか?」
「厳密には生きるのをやめるってだけなんだが…。人間の考え方に当てはめたらそれが一番理解しやすいかもしれないな。今のお前の状態は人間の文化では『神隠し』というのが一番近いだろう。」
「神隠しってことは、あんたは神なのか?」
「言っただろう。俺は案内人であり説明者だ。それ以上でもそれ以下でもない。ここにはお前みたいに生きるのをやめようとしてるやつが来るんだ。それで時々その穴を覗いて生きるのを続けるかやめるか決める。生きるのを続けるなら洞窟を出る。生きるのをやめるならここで7日目を迎える。」
「分からないな。生きるのをやめるのは、死ぬこととは違うのか?」
「お前、ゲームはするか?死ぬのはゲームでいったら電源を抜いたりゲーム機を壊したりする行為だ。生きるのをやめるってのは、ただそのゲームを飽きてプレイしなくなるということだ。」
言わんとしていることはなんとなく分かったが、じゃあ結局どういうことなのかというのは分からなかった。声に出さなくてもこちらの考えを把握しているようで、そいつは言葉を再度紡いだ。
「理解できなくて良い。人間が理解できることなんて、この世界のほんの一部にしか過ぎないんだから。とにかく、ここにいる間俺はお前の邪魔をしない。お前が最終的にどちらを選ぼうとも、俺がお前の前に現れることは二度とない。」
そう言うと、そいつは元来た道を戻っていった。ここから先は1人らしい。丁度良かった。1人の場所をずっと探していたんだ。スマホの電源は切れてしまったし、僕に残されているのは背中に背負ったギターだけだった。まだ眠くもなければお腹も減っていない。僕はギターをケースから取り出し、気が済むまで夜通しギターを弾き続けるのだった。
気がつくと僕は、洞窟内で横たわっていた。布団もないというのに気にせず眠ってしまっていたようだ。意外と不快な感じはしない。昨日緊張のあまりよく眠れなかった分、むしろぐっすり眠れた気がする。まるで数日間まるまる眠っていたかのようだ。スマホの電源が切れているので今が何時かわからない。流石に夜は明けたと思うのだが…。少し考えて思いつく。そうだ、穴を覗けば良いんだ。覗いた穴から見えたのはいつもの教室だ。もう授業が始まっていて、時計の針はぴったり10時40分を指したところだった。そこにはいつもと変わらない教室がある。その現実に傷つくことに忙しくて、皆勤賞を失ってしまったことを嘆く余裕がなかった。教室では数学の授業を佐藤先生が行っている。田崎やバンドメンバーたちの顔には影が差していた。でも、彼らは勉強があまり好きではないからいつも通りかもしれない。黒森さんは笑顔こそないが、真剣に授業を受けている様子だ。黒森さんは真面目で一所懸命な人だから、きっといつも通り。元々感情の機微が分かりにくい人ではあった。僕が大きく間違えてしまうくらいには。僕がこんなにも苦しんでいるのに昨日のことなんてなかったかのような様子の彼女を見ると、いっそ清々しかった。僕が勝手に間違えて、勝手に盛り上がって、勝手に穴に落ちていっただけなのだ。一度穴を覗くのをやめた。仰向けに寝転がり、大きく深呼吸をした。頭の中をいろんな憶測が、百足のように這い回っている。数十匹の百足が入り乱れながら這いずっては、脳のいたるところを毒で侵す。心のいたるところを蝕む。あらゆる内臓を食い破る。そんな妄想に耽っているのだった。百足たちが漸く立ち去った頃、僕の身体は殆ど空っぽになっている。一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。僕は無心のままギターを掻き鳴らした。ギターの音程はすぐにズレる。正しく弦を弾いても3回に1回は不協和音が出てしまう。心地良くもないギターの音を調整もせずただひたすらに弾き続けた。やがて指に限界が来るとギターを置いて瞼を閉じることにした。もう弦を触っていないはずなのに、不協和音は僕に空いた穴の中にに響き続けていた。
目を覚ました。ということはきっとあのまま寝てしまったのだろう。穴を覗くと教室は朝のHRの最中だった。また夜が明けている。ここに来た日が1日目だとすると、今は3日目ということになる。ここにいられるのは最大6日間だとあいつは言っていた。近くに落ちていた石を使って壁に傷をつけた。今は3日目なので3つの傷をつける。こうやって万が一にも日付を間違えないようにしておこう。この洞窟は不思議な空間だった。眠気が来て眠ることはあるが、一切空腹にならない。喉も渇かない。トイレに行きたいとも思わない。7日目までここにいたい人間が空腹や便意によって目的を達成できない、なんてことは少なくともなさそうだ。当然朝日が差し込むこともないので、穴を覗いていないと時間の感覚が全く掴めなかった。
「今日は皆さんに重要なお知らせがあります。落ち着いて聞いてくださいね。」
担任の武田先生はそう前置きをした。
「名倉くんが、現在行方不明です。文化祭の日からまだ家に帰っていないようです。何か心当たりのある方はいませんか?」
教室のざわめきはこの数秒で何倍にも膨れ上がった。こんなことで少し満たされるちっぽけな自尊心に自分でも嫌気が差した。HRも終わり、教室の喧騒はさらに肥大化する。誰かが言った。
「ていうか、黒森さんのせいじゃない?」
カラオケで音量のつまみを絞った時のように、急に教室の音は小さくなった。
「そうだよ。いくらなんでもあんな大勢の前で振るなんて可哀想だよね。」
また誰かが言う。
「そもそも、黒森さんていつもみんなに良い顔ばっかして、思わせぶりだと思う。」
音量のつまみはさっきと反対方向に回され始める。さっきと違うのは、その内容がはっきりと黒森さんに対する批難であるという点だ。口を開かず下を向いているのは、バンドメンバーと黒森さんだけだ。10分も経たないうちに黒森さんは教室内での居場所を失った。それからの1日は見ていられなかった。黒森さんは教室の全ての生徒から無視をされはじめた。バンドメンバーも自分が被害者になるのが怖いのか、自分には罪がないと思いたいのか、黒森さんに近付こうとはしなかった。田崎は誰とも目を合わせようとはしない。黒森さんに対して誰も言葉を発さないのに、教室の全員の話題は黒森さんのことと僕のことについてだった。僕は決して黒森さんを恨んでいる訳ではない。依然として好きな気持ちは変わらないし、心のどこかでまだチャンスがあるのではないかという気持ちが、まるでビンの底のジャムのようにこびりついていた。だから辛い状態にある黒森さんを見るのは辛かった。もう二度と僕の前に現れないと言って去ったあいつに問いかける。これは僕が見たいものが見られる穴じゃなかったのか?今日はまだ笑った黒森さんを見ていない。僕が本当に見たいのは、笑顔の黒森さんだというのに。
4日目。期限の7日を折り返すこの日。ある事件が起きた。朝のHRではもう一度僕が行方不明である旨が武田先生から伝えられた。警察も必死に捜索しているが見つからない。そうなってくると、家出や遭難以外の選択肢も検討する必要が出てくる。武田先生はその言葉を出すことこそしなかったものの、その重苦しい口調から教室内の同級生たちは意図を汲み取ったようだった。そうなった場合、クラスメイトは警察の事情聴取を受ける必要があるかもしれない。先生が追加で告げたその可能性が、彼らの予想を確信に変えるのには十分だった。黒森さんはお腹が痛いと言って、HRを抜け出した。HRが終わると生徒たちは動きはじめた。誰かが黒森さんの机に文字を書き始める。そうすると僕も私もと参加者が増え、この空間においての正当性はより強固なものになっていく。書くスペースが無くなると、皆元の席に戻り話の続きをしながら、黒森さんが帰ってくるのを待つ。戻ってきた黒森さんは、無表情を崩さなかった。1時間目の国語。黒森さんは机いっぱいに文房具やノート、教科書や資料集を広げて授業を受けた。消しきれない落書きが先生に見えないようにしているのだ。1時間目が終わり橋本先生が教室を出ると、黒森さんは雑巾を濡らしてきて残りの落書きを消した。その間、教室中は黒森さんを見ている。悪意のある悪戯であった方がまだ良かったのかもしれない。彼らの目に宿っているのは正義だった。2時間目の授業をしにきた橘先生に黒森さんは体調不良であることを訴え、保健室へ行くことになった。その後の休み時間。やはり教室の話題は黒森さんのことで持ちきりだ。ダン!ずっと黙っていた田崎が、机を叩き大きな音を出して立ち上がった。
「みんないい加減にしてくれ。黒ちゃんは何も悪くない。名倉くんに告白するよう言ったのは俺だ。俺が全部いけないんだ。」
自分が原因で同級生が命を絶ったかもしれない。それを認めるのは田崎にとっても勇気のいることだったと思う。こうやって逃げ続ける僕と違って苦しんでいる黒森さんの為に動ける田崎が羨ましかった。でも田崎の想いとは裏腹に、この出来事は事態を悪化させることに繋がってしまう。
5日目。4時間目の体育に行こうとすると、黒森さんは体操着が無いことに気がついた。昼休みが終わると、今日持ってきたはずの教科書やノートまでなくなっていた。その代わりに机には「お前のせいだ」「犯罪者め」「人殺し」などと乱雑に書いてあった。どうやら昨日の田崎の行動が一部の人間にはむしろ火をつける結果になってしまったようだ。田崎はサッカー部のエースで社交的なイケメン、皆の人気者で皆の憧れだ。当然クラス内には田崎のことが好きな女子も少なくない。田崎が罪を被ろうとしたことで、そういった女子たちからはかえって恨みを買ってしまった。こうなってしまうと田崎にも黒森さんにも為す術はなかった。黒森さんへのいじめは、田崎の一件以降田崎の目につかないようより陰湿に、より攻撃的になっていった。当の僕は、まだ迷っている。きっと今の黒森さんを救えるのは、僕だけだ。僕が現れることで、僕が死んだわけではないことが簡単に証明できる。その代わり、僕が振られてずっと閉じ籠もっていた意気地なしであることも周知の事実となる。いじめが終わっても黒森さんの受けた仕打ちは無くならないから、クラスメイトたちと黒森さんとの関係が修復できる望みは少ない。僕らの通うこの学校は臨海大学の附属高校だ。内部進学者は7割を超える。だから臨海大学に進学しても黒森さんの地獄は終わらない。全てが手遅れだった。僕はどうすれば良かったのだろう。何度考えても、現実は変わらない。どこまでも卑怯な僕は、このまま逃げ切る選択肢を捨てることができずにいる。審判の日は明日に迫っている。放課後、黒森さんは様子がおかしかった。廊下を歩く黒森さんは少しふらついているし、目の焦点が合っていない。そんな黒森さんを見てまた胸がズキリと痛んだ。もうやめよう。何か弦のようなものが、僕の中で切れた感じがした。黒森さんも、田崎も、クラスメイトたちですら誰も悪くないんだ。悪いのはずっと僕だけだから。みんなにはとにかく謝ろう。いじめの対象が僕に移っても構わない。黒森さんに死ぬほど嫌われて恨まれても仕方がない。きちんと受け容れよう。きちんと正々堂々挫折しよう。そう心に決めた矢先、黒森さんの異変に気がついた。僕らの教室は2階にあるが、何故か黒森さんはさらに階段を上がる。3階、4階、5階と上がってまだ上に行く。教室があるのは5階までだ。まさか、屋上に行こうとしているのか。屋上は危険だからと、普段は生徒が入れないようになっている。鍵はないが、入り口前には使っていない大量の机がバリケードのように積み上げられている。黒森さんはその机をひとつずつどかしはじめた。僕はギターを置いて走り出した。この洞窟を抜け出して、裏山を抜け出して、早く黒森さんのところへ行かないといけない。黒森さんを止めなければならない。もうその後のことなんか考えていなかった。とにかく、今僕は走らなければいけない。なのに…。目の前にあるのは壁だった。入ってきた時、この洞窟に別れ道などなかった。それなのに進んだ先は行き止まりになっていた。行き止まりの壁には歪んだ大きな字で『7日目』と書いてある。誰もいるはずのない洞窟で僕は叫んだ。
「おい!ふざけるな!何が7日目だ!まだ5日目の途中だろう!話が違うぞ!」
僕は急がなければいけないんだ。しかしいくら叫んでも声が反響するばかりで、他の音は聞こえてこない。何故だ?数え間違い?そんなはずはない。壁に傷をつけて数えたのだ。それに今日黒板には金曜日と書いてあったから、今日は金曜日で…金曜日?
何故そんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。そういえば、文化祭は土曜日だった。ならその翌日に授業があるはずがない。普段の臨海大附属高校では土曜日と日曜日は授業がない。だから今回土曜日に文化祭がある代わりに月曜日が振替休日になっていた。次の登校日は火曜日だ。つまり僕が文化祭の翌日だと思っていたあの日は、実際には4日目の火曜日だったということになる。僕は2日目と3日目をまるまる寝て過ごしたのだった。そして金曜日にあたる今日は丁度7日目だ。僕はすでに7日目を迎えてしまっていたのだ。大きな無力感に苛まれ、その場に崩れ落ちた。しかし大きな変化があったわけではない。僕はこれまでもずっと無力だった。そして何も成し遂げることができないまま終わっていく。出口のない洞窟では、ただ僕の呻き声が木霊のように響き渡るのだった。
次に目が覚めると洞窟の外だった。辺りはすっかり暗くなっている。ガサガサと音がする方向を見るとそこには田崎が立っていた。僕を見上げる田崎の顔は怯えや諦め、そして後悔の色があった。
「お前は、一体なんなんだ。」
田崎は僕を睨みつけて言う。僕のやるべきことは分かっていた。
「まあ、いいから中に入れよ。歓迎してやる。」
そう言って洞窟の内部へと案内する。
「僕は、案内人であり説明者だ。それ以上でもそれ以下でもない。」
僕はただ、与えられた役割を全うする。ちょっと前より近くなった夜空は、嫌気が差すほどに美しかった。
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