中編
なけなしの貯金をはたいて、私は服を買った。庶民に優しいファストファッションブランドで、うすっぺらい布ながらまあそれなりに見える服を何着か。
待ち合わせ場所に赴くと、佐藤くんは自転車を傍らに置いていた。
「……それで行くの、佐藤くん。私は電車で行くけど」
「なんでだよ。乗りなよ」
「二人乗りぃ??」
「映画の中ではみんなやってる。ぼくはあれ、一種の通過儀礼だと思ってるんだけど」
「遠いよ、水族館」
「問題ないよ」
実際、問題なかった。彼は片道五十キロを悠々と漕ぎ切った。考えてみればこの宇宙人は地球を滅ぼす役目を背負って星から送り出された存在だ。学生としての姿はそう強そうに見えないが、いわば彼の星の軍人みたいなものなのかもしれない。そこら辺の背景はよくわからないけど、少なくとも地球を滅ぼす程度の何か力を持っていることは間違いないだろう。
私は複雑な気持ちで彼の腰に手を回し、どんどん近づいてくる海を見たりしていた。
こういうシチュエーションは確かにときめいて然るべきものかもしれないが、最初から擬似恋愛関係だとわかっているので単なる移動以上の意味を持たない。何より宇宙人とこうして日々過ごしている馬鹿馬鹿しさが、何をするにも私から真剣みを奪っていた。
水族館で、私たちは手を繋いで歩いた。もう抵抗しても無駄なので大人しくそうしていた。
水槽の中で泳いでいる魚たちを見て、佐藤くんは「なるほど。綺麗だね」と言う。
「きみたちは海に惹かれていて、だけどそれが管理しきれないものであることもわかっていて、だから管理しきれる海を水槽の中に作る」
「たぶんそう」
「ぼくがこの星で好ましく思うものがいくつかある。一つは、人を笑わせるために作られたコンテンツ。あとは、芸術が一般市民にひらかれているところ。この水族館もそう」
この人、結構この星好きだよね。
でも私はこの人に地球を滅ぼしてもらわないと困るので、「でもアレだよ。トイレめっちゃ混んでるよ」とネガキャンしておく。彼は眉をひそめて、「だからなんなんだ……」と呟いた。
水族館から帰ると、すっかり暗くなっていた。往復百キロ自転車を走らせた佐藤くんは、それでも涼しい顔をして「いい経験をしたね」と言う。どうも水族館をかなり気に入ったらしい。
「何か食べようか」と佐藤くんが言うので、「どうせなら向こうで海の幸を食べて来ればよかったね」と私は肩をすくめる。
「次、食べればいいよ」
「佐藤くん、水族館気に入りすぎでしょ。また行くつもり?」
「うん。カケイさんは気に入らなかった?」
「いや……楽しかったけど」
そんなことを言っているうち、ぽつんと雫が鼻の頭を掠った。雨が降ってきたようだ。アスファルトが濡れ始める。
今日はもともと雨の予報だったので驚かない。私はリュックから折り畳み傘を出した。
佐藤くんは傘を持っていない様子だったので、私の傘に入れてあげた。折り畳み傘は小さくて、彼の肩が濡れ始める。
よくわからないけど構成物質は地球人とそう変わらないらしいから、タンパク質なんだろう。地球人同様濡れるとよくないと思って、私は二人で入れるようにちょっと彼に近づいた。
彼は自転車を押している。
「きみは、本当に地球に滅んでほしいの?」と藪から棒に佐藤くんが訊ねてきた。私は小さく頷く。
「全人類と心中したいの?」
「心中なんて別にしたくないよ。地球に滅んでほしい。それで結果的に私も死ぬことになったって、別にいいってだけ」
「なんで?」
私は思わずせせら笑う。「“なんで?”」とオウム返しにして、ちょっと空を見た。
「私の普段の立ち位置、わかって言ってる? もう、嫌なんだよね。この世界に望むことがなんにもないの。なかったの。でも今は違う。世界が滅ぶらしいって聞いてからずっとワクワクしてる。ざまあみろ、って感じだ」
「それって、お父さんのことがあったから?」
「さあ。あの父親がいなかった人生のことをよく想像するけど、それで私が幸せになれたかまではわかんない。結局私も、あんまり人間関係上手じゃないと思うんだよね」
瞬きをした佐藤くんが、「試してみる?」と言ってくる。私は「何を?」と訊き返した。
「きみの父親が起こした事故を、忘れさせるんだ。世界中の人の記憶から、その事故のことを消す。そう難しいことじゃない。きみ自身の記憶も消そう。それできみは本当に解放される。きみには随分協力してもらっているし、それくらいはやってあげてもいいよ。それできみが幸せになれるかはぼくにもわからないけど、やる価値はあると思うな」
私は立ち止まって、佐藤くんの顔を見上げる。雨粒が傘を叩いてやかましい。
音を置き去りに逃げてしまいたくなるほど。
考えて、
考えて考えて、考えてみたけど、ダメだった。
そうすべき理由をいくつも挙げたって、ダメだった。
私は緩く頭を振って、「しない」と言う。「どうして」と佐藤くんが不思議そうな顔をした。
「あのさ、世界中があの事故のことを忘れたら、あのかぞくはどうなるの」
「家族?」
「あのクソ親父に殺された家族はどうなるの。なんにも悪いことしてないのに酔っぱらいに車ぶつけられて、そのまま死んじゃって、その上みんなから忘れられてなかったことにされるの」
かわいそうだよ、と私は言う。
「私は」と言葉を続けた。
「あの父親に殴られて育った。だからあいつが事故を起こして、捕まって、離れられたときすごく嬉しかった。やっと自由になったんだと思った。でも人が死んでるんだ。あの家族の死を踏み台にして自由になったことを一瞬でも喜んだのが……最悪で……何もかも、滅んでほしいだけなんだ。幸せになりたいわけじゃない」
「……だから言い返せないの? “親が人殺しだから”なんて理不尽な理由で虐げられても? 本当にきみに人殺しの血が流れていることが理由なら、みんなきみを警戒したり怯えたりするはずで、あんな風には虐げられないよ。彼らはたんにきみを下に見ているだけだ」
「知ってる」
行こう、と私は佐藤くんを促す。佐藤くんもゆっくりと歩き出した。
「きみって変な子だよね」
「急にディスるのやめて」
「べつに悪い意味で言ったわけじゃないよ」
彼の髪が頬をくすぐる。距離が近すぎて、彼の顔を見ようという気が起きなかった。
「きみは世界に滅んでほしいと言いながら、ほとんど話したこともない転校生が車の前に飛び出したらそれを止めようとする。みんな死んでほしいと思っているのに? ひどい矛盾を抱えているんだね」と佐藤くんは続けた。私は何か反論しようと思ったけれど、上手い言葉が出てこなかった。ただぽつりと、「だから星ごと滅んでくれないと困るんだ」とだけ、言った。
しばらく歩いていると、「“なんにも悪いことしてないのに殺されて、その上みんなから忘れられて、なかったことにされる”」と佐藤くんが不意に呟いた。私は自分がさっき言ったことにすら嫌気がさして、「何?」とちょっと佐藤くんを睨んだ。
「この星を滅ぼしたあとで、きみの言葉を思い出すかもなと思ったんだ」と、彼は言った。私は一瞬の間をおいて、「傲慢だ」と指摘する。
それからふっと力を抜いて、「私もだ」と笑ってしまった。
私の家に着き、佐藤くんには「どうせ明日も会うんだし、傘はその時返してくれればいいよ」と言う。ありがとう、と彼は言った。
その時不意に「
私は「とにかく、
祖母と話すのが怖かったので、すぐ自室に戻る。
次の日の朝、祖母と祖父が「男とあんな時間まで出歩いて」「母親が言わないなら私たちが言うしかない」と話しているのが聞こえた。私は何も言わず家を出た。
結局、私と佐藤くんは夏休み中毎日会っていた。私も他にやることがなかったし、佐藤くんはかなり面白がり始めた気配がある。たまに宿題をやるのに図書館に行ったり、ただ映画を観るだけだったり、とにかく会わない日というのがなかった。
「明日、お祭りがあるらしいね」
「どうやらそのようですね……」
「行くよね?」
まあ、こんなカップルらしいことが出来そうなイベントを逃す手はない。私が同意の頷きを返すと、佐藤くんは「祭りのドレスコードはアレだよね。浴衣ってやつ」と言い出した。
「いや……ドレスコードっていうか」
「あれってどこで入手できるのか教えてくれる?」
私は肩をすくめ、別に老舗でもないチャラついた呉服屋に彼を連れていく。彼が浴衣で私はジーパンということになるだろう。しょうがないな、と思っていると佐藤くんは私に「カケイさんはもう浴衣を入手しているの」と訊いてきた。
「いや……私は……」
「持ってないなら買おうよ。奢るよ」
「えっ」
「経費で落ちるし」
ほな……買っとくか……。
というわけで二人分の浴衣を購入し、店を出た。
夏祭り当日、私は浴衣を着るのに手間取っていた。初めて着た浴衣は、着付けの動画を見ながらでもよくわからない。帯を握り締めて鏡の前に立ち尽くしていると、陰から見ている視線に気づいた。
祖母だ。私は慌ててその場を去ろうとして、後ずさりする。
すると祖母は静かに近づいてきて、「貸しなさい」と私の手から帯を取り上げた。それから浴衣の前をきっちり合わせて、帯を締めてくれる。
「髪は上げないの?」
「あ、うん……」
「上げていきなさい」
ゴムを引っ張り出してきた祖母が、私の髪を結び始めた。
「……ありがとう」
「あの子と行くの? この前、一緒にいた子」
「うん……まあ、そうかな……。でも、おばあちゃんが思っているような関係ではなくて」
迷惑を、かけないようにする。できるだけ。
だからそう邪険にしないでほしい。そう言えないまま、私は大人しく髪を結ばれていた。
「……あんた、そんなに真剣な顔が出来たの」
「え?」
「浴衣着るだけで、そんなに真剣な顔。いつも逃げたそうな顔ばかりしてるから」
何か言い訳を言おうと思ったけれど、私がずっと何もかもから逃げ出したがっているのは本当のことなので、何も言えなかった。祖母は上から下から出来栄えを確認し、「可愛い浴衣を買ったじゃないの」と言う。
「行っておいで。……もう少し早く、帰ってきなさい」
私は頷き、「行ってきます」と小さな声で言って家を出た。
佐藤くんは先に着いていた。私の姿を見て、「なるほど」とだけ言う。何に納得したのかよくわからないが、私は佐藤くんの浴衣姿に「似合ってるね。さすが」と褒めておいた。
「“さすが”っていうのは?」
「やっぱ顔がいいとなんでも似合うね」
「顔がいい、ね」
彼は肩をすくめる。「ぼくらの星はみんな姿かたちにほとんど差異がない。この星で言う双子とか、それくらいみんな似ている。だからこの星ほど、そこに優劣をつけたりはしない」と言った。
「その方がいいかもね」
「この星は色んなことに優劣をつけたがって面倒だ」
「ふうん。内側に差別がない分、外を差別して滅ぼすんだ?」
言ってから、『やべ』と思う。私もこの関係に慣れすぎて、思わず素直で正直な感想が口からまろび出てしまった。怒らせたかな、とおそるおそる佐藤くんを見たが、佐藤くんは驚きの表情を浮かべながらも「……きみの言うとおりかもしれない」とだけ言った。どうやらセーフだったようだ。
いつも通り手を繋ぎながら歩く。これに違和感がなくなったことには多少まずいと思っている。
金魚すくいを見た佐藤くんが、「より小さな海」と呟いていた。金魚は海に生息する魚ではないので彼の考察は誤っていると思うけれど、では私たちは屋台ですくうあの小さな命に何を見出しているのかというと他にたとえが思いつかなかった。
綿あめを食べた。りんご飴を食べた。ラムネの瓶を握った。
彼は案の定ラムネがお気に召さず、それでも「綺麗だね」と中のビー玉を見て言った。
私たちに祭りを楽しむ才能がないからなのか、ものの一時間ほどで端までたどり着いてしまった。途中、クラスメイト――――しかも私に特別目をつけていたやつらが練り歩いているのを見て、それを避けたせいというのもあるかもしれない。
人もまばらで、夜店では手持ち花火が売っていた。引き返してもう一巡する気にもなれなかったので私たちはそれを購入し、誰もいない神社の裏で火をつけた。
花火は心地よい音を立てて燃え上がる。「うわ、これ結構燃えるね。危ないな」と佐藤くんが言う。
「こんなの、本当に玩具にしていいの?」と私のことを見るが、私は何も言えずに固まっていた。
「……カケイさん?」
「お、思ったより燃える。思ったよりこわい!」
「え、現地人もその反応?」
「考えてみれば私、花火やったことなかったかも。やったことなかった」
「えー……」
火花が弾ける。私は出来る限り自分の体から離そうとするが、持ち手がどんどん短くなって近づいてくる。
半べそをかきながら最後まで持って、バケツの水に投入した。
「花火は見たいけど、持ちたくない。佐藤くんが持って」
「マジかこの子」
仕方なさそうに佐藤くんが花火に火をつける。遠くから見ている分には、綺麗だ。
私はおそるおそる近づいて、「人がやっているところはいいもんですねえ」とへらへら笑う。すると佐藤くんがまじまじと見てきた。
「なに?」
「間抜けな顔だ……」
「そんなしみじみ言わなくても」
私はムッとして、「どうせ優劣の劣の方ですよ」と言う。「そんなこと言ってないよ」と佐藤くんは苦笑した。
バケツを片手に持ち、私の手を握った佐藤くんが「こういうのも花火って言うんだ? もっと大きいやつもあるよね」と首をかしげる。「打ち上げ花火のこと?」と私は言って、「あれはこの町ではやらないよ。もっと大きい祭りじゃないと」と続けた。
「…………」
「行きたい感じですか?」
「うん。行ってみたいな」
きみと、と彼は言う。つまり恋愛関係について調査の一環ということだろう。私は頷く。せっかく買った浴衣だ。元を取りたい。まあ、自分の金じゃないけど。
「似合ってる」
「なに?」
「浴衣、似合ってる。芸術的であると思う。優劣の劣の方なんかじゃ、ない」
――――そんな。
そんな真っ当な褒めを受けてしまうと、関係性と自分の立場が揺らいでしまう。
私は今さらに手を繋いでいることが恥ずかしくなって、それを振りほどこうとする。
すると彼は私の手を離して、代わりに頬に手を当てた。
そのまま、唇が触れる。
私は頭が真っ白になり、「やらないって言った。それはやらないって」とうわごとのように呟いた。
「こういう時に、するんだと思っていたけど」
「だから、擬似恋愛関係でそれはしないんだって! 大体、本当のカップルだって最初の一回は同意を得るでしょ。普通……たぶん……知らないけど……」
顔が火照るのを感じる。この宇宙人はどういうつもりなのか。上司に報告するためならなんでもやるわけ? それとも――――
そう考えた時、佐藤くんが「きみたちだって犬や猫に同じことをするとき、同意なんか得ないよね?」と言った。
私は呆れて閉口する。
犬や猫と同じだって言いたいのかよ。
そりゃ、今から星ごと滅ぼすつもりの宇宙人からすれば、私たちは下等生物の一種かもしれないけど。
犬や猫と、同じだって言いたいのかよ。
気付いたら、私は佐藤くんの腕を掴み、その頬を思い切り引っ叩いていた。
自分でも自分の行動に驚いている。佐藤くんはもっと驚いた顔をして、私を見ていた。
「上位存在ぶって馬鹿にして。何が『犬や猫に同じことするとき』だよ」
何がそんなに自分の逆鱗に触れたのかも、よくわからない。彼のしたことが、彼の言葉が、なぜだか私をひどく惨めな気持ちにさせた。
「犬や猫と意思疎通ができるなら同意を得てるっつうの。あんたの性格が悪いだけでーす!」と言って、私は踵を返す。最初は速足で歩いていたが、とうとう走り出して来た道を戻っていた。
私は混乱していたが、走りながら随分気持ちが落ち着いてきていた。自分の感情を整理したところ、要は私は佐藤くんに対し、まるで対等になったかのように勘違いをしていたのだという結論に至る。一体いつからそうなってしまっていたかはわからないけれど、すっかりそうだった。
今まで私は色々なことに耐えてきたし、こうまで感情を表に出したことはない。私は対等であるという勘違いをした佐藤くんにそれを全てぶつけただけだった。『言いやすい人間に言う、八つ当たりをする』という卑怯さを自分が持っていたことにショックを受けていた。
私は走り続ける。祭りはすっかり終了ムードで、夜店のいくつかはすでに片付いていた。
目当ての顔ぶれを見つけ、私はスピードを落とす。膝に手を当て、肩で息をして、顔を上げた。
クラスメイトたちは私を見て、即座に嘲笑の種をいくつも見つけ出す。何か言っていたが、私の耳には入らなかった。
「お前らはお前らで、何様のつもりだ」
言った。言ってやった。ついに言えてしまった。
彼らはたっぷり数秒の沈黙の後で、「は?」と敵意を私に向けた。
蹴られた脇腹が痛い。骨が軋んでいるような気がする。鼻血も出ているし、頬も熱い。せっかく買った浴衣はボロボロだ。
私は逃げていた。でも、この世で一番自由な気がした。笑い出したいくらい、自由だ。
腕を掴まれた時、このまま死んだっていいと思った。世界の滅びと同じくらい、素敵なことに思えた。
「ねえ」と、声が聞こえる。私の腕を掴んだクラスメイトが動きを止めた。
「言ったはずだけど。その子のことはほっといてねって」
佐藤くんが、クラスメイトの肩を掴んでいる。「こいつが先にふっかけてきたんだよ?」とクラスメイトが苛立って言った。
「どっちがどれだけ悪いかなんて、興味ないよ。ぼくは『その子のことはほっといて』って言ったんだ」
クラスメイトは私の腕を離した。「彼氏できて調子乗ってんの、痛すぎて笑える」と吐き捨てる。
佐藤くんが私の手を握って、もうクラスメイトには一瞥もくれずに歩き出した。
さっき喧嘩別れした宇宙人に助けられてしまった。うわ惨めすぎる、と思いながら私も黙って歩いた。結局その日はお互いに一言も喋らず別れた。
祖母が手当てをしてくれた。本当に申し訳なくて、ごめんなさいを繰り返していたら、祖母は深くは訊いてこなかった。ただ、「あの男の子にやられたの?」と言ってきたので、それだけは違うと否定しておいた。
次の日私は朝早くに家を出て、電車に乗っていた。彼と会う約束はすっぽかして、海を見に行った。
あの水族館の近くだった。水族館に行ったのなんか随分前の話だった気がするが、あれもこの夏休みが始まってからのことなんだよな、と少し不思議な気分になる。
毎日宇宙人と会っていたなんて、馬鹿げた夏休みの過ごし方だ。夏休み前の私には想像もできなかっただろう。
日が沈み始めるまで、ただ海風に吹かれていた。
私はたぶん、
彼と仲直りがしたいと思う。
よくわからないけど、たぶんそうなんだと思う。
何時間も海を見て、私はようやくそのように素直に自分の気持ちを受け入れることができた。彼はもう私のことが面倒になって『やっぱりこんな女と擬似恋愛関係を結ぶんじゃなかった』と思っているかもしれないが、私自身はもう少し彼と色んなことをしてみたいと思っていた。
膝を抱える。問題は、仲直りの方法だった。今日の約束もすっぽかしたところだ。謝るにしたって、どこから謝ればいいかわからない。
そのままぼうっと、海に呑まれてゆく太陽を眺めていた。
やがて砂浜を踏み鳴らす足音が聞こえた。私は顔を上げる。ほんの数メートル先に、佐藤くんが立っていた。
「……なんでいるの」
「水族館に、来たくなって。それできみに似た背中を見つけたから来てみて、きみだったから……嬉しかった」
私は膝を抱えたまま、「昨日は助けてくれてありがとう」と言った。「今日、すっぽかしてごめん。あと、えらそうなこと言ってごめん」と続ける。
私の隣に座った佐藤くんが、「ぼくこそ」と呟いた。
「今後はきみの同意なしに接触しないようにするよ。本当にごめん」と言うので、私は思わず「なんで?」と訊き返してしまう。
「なんでって……きみが、嫌がると思って」
私は立ち上がる。そろそろ帰らなければならない時間だ。
「
「……きみを傷つけるつもりはなかったんだよ。言葉選びを致命的に間違えたことはなんとなくわかるけど、何がまずかったのかわからない。教えてほしい」
「別になにもまずくないよ。私のほうが間違ってただけ。間違ってた、っていうか……勘違いしてて」
私は先の細い防波堤の上にのぼり、バランスを取りながら歩き始める。
白いワンピースが風をまとって膨らんだ。
「佐藤くんが嫌がってた、めんどくさい関係ってやつになりかけてたね。ちゃんとビジネス擬似恋愛関係やるからさ、明日も会えるかな?」
「……そんなとこ、危ないよ。降りておいでよ」
やなこった、と私は笑って防波堤の上でくるりと回って見せた。それから彼を置いて走り出す。彼は追いかけてきて「それ、やめてくれないか。突然走り出すの。焦るよ」と言った。そんなこと言われる女子高生ってあんまりいないんじゃないだろうか。幼い子か、それこそ犬や猫になった気分だ。
「ねえ、佐藤くん」
「なに?」
「明日も会ってくれる? ちゃんと調査の手伝いするからさ」
「……きみがいいなら、ぼくも会ってほしい」
その日は電車で帰った。佐藤くんも『自転車だと一時間かかった道が十分程度で着いてしまう』と電車の有用性を認めており、今日は電車でここまで来たとのことだった。
私は朝早く出発したこともあり、車内でうたた寝してしまっていた。気づいたら彼の肩に頭をのせており『おっと、言ったそばからやらかしましたわ』と思ったが、佐藤くんの困った顔はなかなか見る価値のあるものだった。私はしばらく寝たふりをすることにした。
SNSに見覚えのある浴衣姿が流れてきて、私は思わず「うわ、マジかぁ」と呟いてしまう。
『○○高速事故で飲酒運転・○○家を殺した犯人の娘、○○町で男と祭りを堪能! そのままホテルへ……。反省の色ナシ!』という文言とともに、私の写真が載っている。
どう考えたってあのクラスメイトの仕業だ。何かやると思っていたが、思っていた以上に陰湿だった。ホテルになんか行ってないし、大体何をどう反省しろと言うのか。
深々とため息をつく。祖父母に迷惑をかけるかもしれないし、警察に相談するべきだろうか。これはちょっと、さすがに、一線を超えていると思う。
そう悩んでいると、祖母が「篷、あの男の子が来てるよ」と呼びに来た。佐藤くんが迎えに来たのだろう。
「あ、おばあちゃん……」
「まだ支度してないのかい? 早くしなね。あの子、家にも上がらず待ってるんだから」
「うん……あのね、」
「なに?」
「あ……いや、なんでもない。ごめん」
祖母は怪訝そうな顔をしながらも、「暗くなるまでに帰っておいでね」と優しい顔をした。あの夏祭りの日以降、祖父母は私に対して少しばかり柔らかい表情をしてくれるようになった。何が彼らをそうさせるのかはわからないけれど、佐藤くんのおかげかもしれないな、となんとなく思う。
外に出ると、そこに確かに佐藤くんがいた。彼も私たち同様タンパク質の塊なはずなので、この暑い中待たせてしまって申し訳なく思った。「ごめん」と言って駆け寄る。
「カケイさん……なにかあった?」
「んー? いや、べつに」
そう、と佐藤くんはすぐ私から目を離して前を向いた。
あれから、私と佐藤くんには距離が出来たままだ。手だって繋がない。それが私の訴えに起因するものなのはわかっていたし、今さら『やっぱり手ぐらい繋ぎませんか? なんかもうあれがないと逆に落ち着かなくて』などと言いだす勇気はなかったので、私も現状を甘んじて受け入れることにしていた。
久しぶりに、図書館で勉強をした。佐藤くんはとっくに宿題を終わらせていて、この人は母星でも優秀なんだろうなぁ、と私は思う。わからないところも教えてくれる。たぶん私より地球の学問に精通している。
日が暮れたころ別れた。そういえば佐藤くんはどこに帰っているのだろう。家があるんだろうか。明日訊いてみようと思う。はぐらかされるかもしれないけど。
テレビのニュースでアナウンサーが、深刻そうながらすらすらと、彼女の名前を読み上げた。
ぼくは呆然とテレビの画面を見つめる。どうせ経費で落ちるからと買った無駄に大きな画面のそれは、幸薄そうな少女の曖昧な笑顔を映し出していた。
――――死んだ。あの子が?
つい昨日も会ったのに?
電話をしてみたが、出ない。家に行ってみた。家人が全員出払っているようで、しんとしている。
それから毎日彼女の家を訪ね、ようやく三日後に彼女の祖母と会うことができた。そして
俗にいう、走馬灯というものを私も見た。そして自分の人生のうすっぺらさにびっくりした。思い出すことと言ったら、ぜんぶがぜんぶ、この夏のことばかりだ。
佐藤くんのこと、ばっかりだ。
苦しくて、体が勝手に動く。私の首を絞める太い腕に爪を立てた。
この人、首を絞めるのが下手だな。
むかし父親に首を絞められたときは、妙に気持ちよくて眠るように気を失った。この人は下手だ。いつまでも気を失えないまま、痛くて苦しい。
涙で世界が滲む。
脱がされた服を見る。一応、せいいっぱいのオシャレだったんだけどな。彼に会うための。
私たぶん、佐藤くんのことが好きだった。
宇宙人だし地球を滅ぼすし私のことは犬や猫のようにしか思っていなかったけど、私は佐藤くんのことが好きだった。
恋って面倒くさいね、佐藤くん。でも楽しかったよ。だってこの恋がなかったら私の走馬灯、なんにも流れないんだろうし。
ようやく、意識が遠のいていく。記憶の中の佐藤くんが、『間抜けな顔だ』と言う。走馬灯の中でぐらいもっとましなことを言ってよ、と私は笑った。
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