花天月地【第90話 天の約束】

七海ポルカ

第1話



 軍医は、念入りに陸議りくぎの腕を見てくれた。

 

 一度包帯も外し、まだ深い傷跡が走る腕も見たが傷は開いておらず、出血も無かった。

 慎重に包帯を巻き直してから「指は以前のように動きますか」と尋ねて来る。

 かつてないほどの激痛を受けた後なので恐れはあったが、ゆっくりと慎重に指先を動かしてみた。

 指は少しだが、ちゃんと動いた。

 軍医も安心したようだ。


「指が動くならば大丈夫でしょう。治りかけの傷です。しかも深い。痛みが現れることは有り得ます。この様子では新しく何かが壊れたわけではない。安心なさってください」


 今は寝台に寝たままの陸議が小さく頷いた。


「ありがとうございます」

「あまり気にされることはありませんが、数日ゆっくりお休みになると良いでしょう」

 軍医が一礼して出て行った。

 

「……お二人とも、すみませんでした……夜中に騒ぎ立てたりして」


 陸議が側で心配そうにしている司馬孚しばふ徐庶じょしょに声を掛けると、司馬孚は大きく首を振った。


「そんなこと気になさらないでください。伯言はくげん様。貴方が、耐えられる傷ならば顔に出さず耐えてしまわれる方であることは私も分かっています。

 その貴方が耐えられなかったのなら、尋常な痛みではない。

 無理せず軍医に見てもらった方がよいのです」


 頷きながらも、陸議の表情は晴れなかった。


 確かに、尋常な痛みではなかった。

 陸議も今まで、色々な外傷は負ってきたが、痛みに耐えきれず叫んで飛び起きるような傷は負ったことがなかった。

 だから何かが起こったのだと思ったのに、軍医の見立てでは何の問題も無かった。

 実際、今は記憶であの激痛を引きずり警戒はしているが、痛みがあるわけではなかった。

 痛みは消えたのだ。

 

 だが、余計にあれは何だったのだろうと思う。


「徐庶さん、私は兄上に一応、お知らせをして来ます。その間、伯言さまのこと……」

「あ、はい。見ています」

「よろしくお願いします」

 司馬孚しばふはまだ心配そうにしながらも出て行った。


叔達しゅくたつ殿にまた心配を掛けてしまいました」


 陸議の傷のことは、彼が一番心配してくれていた。

 

「軍医も言っていたけど、あまり気にしない方がいい。

 軍の遠征なら、例え傷を今負ってなくともある意味で明日は我が身だ。

 傷を負った者を気に懸けるのは当たり前だよ。

 君だって逆の立場ならそうするはず。

 そのたびに司馬孚殿や俺が申し訳なさそうな顔を見せたらかえって気を遣う」


 ゆっくりと瞬きをしてから陸議は頷いた。

「たしかに……それはそうですね」

 徐庶が側の椅子を引き寄せて、そこに座った。


「あ……徐庶さん、私は多分大丈夫なので、どうぞお休みください。

 まだ明けには早いですし……」


「いいんだ。君が賈詡かく将軍から謹慎解除の報せを持って来てくれて安心出来たし。

 眠くなったら寝るよ」


「すみま……」

 また申し訳なさそうに謝りかけて、陸議は気付いた。

「……ありがとうございます」

 徐庶がそれでいいんだという風に笑いかけてくれた。


 少し、今の騒ぎで何も考えられなくなっていたが、話題を探して黄巌こうがんの顔が思い浮かぶ。


「謹慎が明けたので、また黄巌さんに会いに行ってあげてください。あんまりにも退屈だから黄巌さんリスとか鳥とかを手懐けて軍医に怒られてました」


 徐庶が声を出して笑っている。


風雅ふうがは動物の扱い上手いんだよ。なんでもすぐに友達になっちゃうから」

「そういえば、徐庶さんはご出身許都きょとの近くだったんですね」


「出身はね。でも子供の頃に家を出たから、あんまりあの辺りが故郷だって感じはしないなあ」


 十代の頃に例の役人に追われることになった事件があったと聞いた。

 若い頃に家を出たとは聞いていたけれど、陸議の想像では十二、三歳頃に出たのかなという感じだったのだが、もしかしたらもっと前なのだろうか。

 故郷の話をあまりしたがらない感じだったらやめようと思ったのだが、徐庶は随分昔のことを思い出すようにしながらも特に嫌な顔をしなかったので、試しにもう少し尋ねてみる。


徐庶じょしょさんがお家を出られたのは、十二、三歳の頃なのかと思っていたんですが……子供の頃というと、もう少し前なのですか?」


「いや。十歳になったら村を出て街に行っていいと言われてて、指折り数えてまだ全然先じゃないかとがっかりしたのをよく覚えてる。多分六歳か七歳くらいの時だよ。それを聞いてからこんな所にずっといるのは嫌だ早く街に行ってみたいって思うようになった。

 一年我慢して、冬を越したのは覚えてる。

 その年はよく雪が降ったんだ。外にあまり出れなくて近隣の山道も通れなくなって、村の大人達が難しそうな顔をしていつも話し合ってた。

 だから春になって道が通れるようになると、村から買い出しの荷馬車なんかが出たんだ。

 人手が足りないからって特別に何度か、村の外に出て荷物運びを手伝った。

 小さな街だけど、当時の俺には洛陽らくようの都みたいに大きく思えて。

 こんな世界で生きたいってはっきりと思ったよ。

 結局花が咲き出した頃、そのまま家を出た」


 七歳と聞いて、陸議は驚いた。


 確かに世間に興味は出て来る年頃だと思うけれど、普通の子供なら親に連れて行ってほしいとせがむ時期だ。

 親が連れて行かないと言ったなら、頷くしかない。

 幼い子供というのはそういう納得の仕方をする。


「よく一人で出て行こうと思いましたね」

「まあ、そうだね」


 自分でも笑ってしまっていたから、無謀だということは徐庶も自覚があったのだろう。


「でも、不安より希望の方がその時はずっと強かった。

 明日からの飯をどうするんだとか、住む場所をどうするんだとか。

 普通はそういうことを考えて出て行くのを躊躇うものだけど、うちの場合家にいたって大した蓄えなんかなかったし、毎日明日の飯はその日どうするか考えてた。

 住む場所だってこんな石造りの家じゃないし。

 本当に地面に立てた木の支柱を、藁で覆った程度のものだったから。

 あれじゃ毎日野宿したってきっと同じさ」


 食べていく不安と、

 寝る場所の不安。

 それが最初から徐庶は無かった。


 乱世ではそういうものは特に珍しくない。

 それでも故郷と強く結びつく人がいるのは、家族がそこにいるからだ。


 洛陽で少し会った徐庶の母は、優しそうな人に見えた。

 勿論今と昔では住む環境が全く違うのだから、生活の苦労が格段に減ったことで心にゆとりも出てのことだとは思うけれど、それでも極端に情のない人には思えなかった。


「徐庶さんは……たしか、ご自分のことで母君が尋問を受けたことを、長い間ご存知なかったって仰っていましたよね」


「うん。新野しんやで例の【八門金鎖はちもんきんさ】の陣を破ったあと、曹操そうそう殿から文が届けられた。

 その手紙で初めて母親が自分のことで尋問を受けていたことも知った。

 一年くらい牢に入れられて、身体を壊した後はどうせ何の情報も持ってないからって家に戻されていたんだ。でもその尋問のせいで記録が残っていたから。

 曹操殿が俺に身内がいないのか調べさせた時に、その記録で母親の居場所が分かったんだろう」


「じゃあ……その尋問を受けていなかったら」


「身内は母親だけだし、親類もいない。村といっても、本当にごく小さなものだったから。恐らく誰も俺の母親の消息なんて掴めなかっただろうね」


「その、徐庶さんの行方を探すために母君の元を訪れた役人は、どこから分かったんでしょうか?」


 話しているうちに先程まで不安そうだった陸議の表情から、そういうものが消えたことに徐庶は気付いた。

 彼はやはり何かに集中して考え始めると、不安が消えるようだ。

 

「はっきりは分からないけれど、俺は故郷の話はほぼしたことがないんだ。

 自分にとって無意味なことだったからね。

 母親とも故郷を出てから一度も文の遣り取りをしてない。

 州出身くらいは言ったかもしれないが、具体的な話はしたことがないよ。

 ただ【水鏡荘すいきょうそう】で過ごした時だけは、成り行きでどこにいたかを少し話したかもしれない。いい人もたくさんいたけど、俺を煙たがってる人も中にはいた。これについては俺が間違いなく悪いから仕方ないんだけどね。

 水鏡先生がそういった密告を行うようなことを門下生に許していなかったから、多分門弟じゃない。だけどあそこは豪族の子弟なども通っていたから、犯罪者と共に学んだなんて後で言われることを恐れて、彼らを想う人達で情報を流した者はいるかも。

 曹魏に仕官している者もあそこにはかなりいたから……」


「それで……」

 徐庶の母の居場所が知れて、彼女を洛陽に招くために役人が来た。


「曹魏から洛陽に母君がいると報せが来た時、さぞかし驚かれたんだと思います……」


 それが無かったら徐庶は多分まだ、劉備りゅうびの許にいた。

 それが分かったので少し気遣うように陸議が言ったが、徐庶は苦笑しただけだった。


「まあ確かに、驚いた。でも俺がその時何を一番驚いたかというと、母親が洛陽に連れて行かれたことじゃないんだ」


 陸議と視線が合う。


「一番驚いたのは、母親がまだ生きていたということ」


 陸議りくぎは思わず息を飲んだ。

 自嘲気味に徐庶は笑った。


「あそこで暮らすことがどういうものか俺は知ってたから。

 何となくだけどいつしか、きっと自分の母親はもう死んでいるんだろうと思っていた部分がある。

 生きていることが分かっただけでもちょっと驚いたんだ。

 もう十年以上経ってた。あんな場所で十年も、俺なら暮らして行けないよ。

 でも母親は一人であの場所で、ずっと生きていた。

 そのことに一番多分驚いたんだ。

 ……会わなくてはならないような気が初めてした」


 母親を人質にされて――曹魏に降った。


 陸議が徐庶という人間を説明された時に聞いた内容はそれだけだったが、実際はもっと深い意味で、深い経緯を辿って、徐庶は母親に会いに行ったのだ。


 母を大切に思っていたから行ったのでは無い。

 故郷を出た日から一度も大切ではないと縁を切り捨てていたものだったから、逆に徐庶にとって母親というものがあまりに謎めいていて、不思議なものに思えたから会いに行った。


 徐庶は確かに劉備や蜀に思いを残しているが、

 曹魏で、全てに絶望して暮らしていたというわけではないのだ。


 行政には携わる仕事をしたいとは望んでいたし、洛陽らくようの学院を見に行ったと言っていた。

 曹魏でどう生きて行くかを、彼はちゃんと考えていたように陸議には思える。

 一番望んだものではないかも知れないが、そうなった自分の運命を受け入れて、その中でどう生きていくかを考えていた。

 

 劉備や曹操そうそうは、

 恐らく一番望んだものを大望と呼び、それ以外の生き方をしようなどとは考えない。 


 成都せいとを手に入れ、蜀の王になり、その地の民だけを守り豊かにすればいい立場になっても多分劉備は、曹魏を攻めることを止めないだろう。

 曹魏が漢王室の権威を蔑ろにする以上、それを止めることが自分の使命で天命だと考えている男だからだ。


 曹操も天下統一の夢を掲げ、その場所だけを目指して歩いて行く。


 だが徐庶は大望よりも、自分がどう生きて行くかの問いを重んじたのだ。


 一度完全に失ったと思っていたものが、

 不意に手の中に戻った。



 失われて行った人達の顔が過った。



 ……自分もそんなことが起こったら、きっと今度こそはと思って、

 それを生涯大切にするだろう。



「君には、よく分からない人生だと思うけどね」


 徐庶が小さく笑ってそんな風に言ったので、

 確かに自分とはあまりに違う人生だったけど、否定だけはしたくなくて陸議は首を振った。


「……たしかに、私の想像出来ないような人生ですけど……でも、分かることもあると思います。

 私も、一度失ったんだと諦めたものが手の中に戻ったら、きっとそれを今度こそ大切にしたいと……そう、思うはず」


 ふと徐庶は陸議を見た。


 彼はあの歳で、多くの人間を失ったことがあると言っていた郭嘉の言葉を思い出した。 

 徐庶は、自分があまり他人に語って聞かせられないような過去を持っているので、尚更関わりを持っても、他人の過去もまた敢えて尋ねたりしないようにしていた。


 それまでの徐庶ならば、この時には尚更口を閉ざしたと思うのだが、後に思い返してみるとこの時自分から一歩踏み込んでいたことは、当時どう考えてもおかしくて、この時にはすでに、陸伯言と関わることで徐庶自身に変化が起きていたのだと分かった。


 この変化が起きなければ、徐庶は自分の運命がどうなっていただろうと、未来で何度も考えてみることがあった。


 涼州のこと、

 黄巌こうがんのこと、

 自分の無力さに絶望して破滅に走っていたかもしれないし、

 例え涼州遠征を無事にこなして長安に戻っても、

 戦いの宿命に生きた陸伯言とはこの涼州遠征限りで道は遠く離れ、二度と会わず、

 一生どこかの小さな街の役人として静かに暮らしていたかもしれない。


 幼い頃故郷を一人で離れた徐庶は、長い間親や故郷を愛せなかった。

 それでも人の群れの中で生きたから、愛や憎しみはいつしか知った。

 命の遣り取りをしながら、

 人を信じることや裏切られることも知ったと思う。


 それでも世界にはまだ見知らぬものがあり、

 多くの人間は出会えないまま一生を終えるような、

 特別な人との出会いがあることを知った。


 徐庶が陸伯言りくはくげんを特別だと思ったのは、

 自分が一番迷い、弱っていた時に出会った存在だったからだ。

 

 そしてそのうち、陸議も龐士元ほうしげんという大きな存在を失った矢先に、自分に会っていたことが分かった。


 失っても生きていかねばならない暗い世界で、

 彼が【導きの星】になってくれた。


 人を信じたり、愛したりすることを放棄していた自分に、信じる強い心を取り戻させてくれたのは彼だったと思う。


 その心を持たなければ、自分の運命は魏での静かな一生で終わっただろう。


 他の地に自ら歩み出すことは、決して出来なかったはずだ。



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