マニュアル・ドリーマー
キックミラキス
マニュアル・ドリーマー
気づけば僕は延々と広がる田園風景を貫く一本道の上を歩いていた。
早くトイレへ行かねばと焦る足取りの横に、車が止まる。初老の男性が助手席を開けた。
「送ってやるから乗りな」
頭では「知らない人の車には乗らない」と浮かぶ。それでも迷わず乗り込んだ。間に合わない焦りと、彼の放つ不可思議な安心感が理性を押し切ったのだろう。
老人の車はクラッチ付きだった。オートマチックではない。クラッチを踏み、ギアをローに入れ、アクセルをふかしながらクラッチをつなぐ。車は滑るように走り出す。
総白髪に立派なひげ。痩せたサンタクロースのようだった。
助手席で高まる尿意をこらえていると、老人は突然道端に車を寄せた。降りてカメラを構える。レンズの向こうには、霞む湖面。夕暮れ時に数羽の鶴が舞っていた。風に乗り羽を広げ、互いの距離を測りながら。水面に描かれた譜面で踊るように、求愛のステップを踏んでいる。
老人のカメラはマニュアル式だ。ピント、絞り、シャッタースピード。すべて自分で設定する必要がある。それでも彼の手際は速い。フルオートのカメラを使う者と遜色ない。
車に戻った老人に僕は訊いた。
「乗ってる車も、カメラも、全部マニュアルなのですね」
彼は僕を振り向かず、ギアをローに入れながら呟いた。
「ワシはコンピュータが嫌いでな。全部自分のコントロールでやらんと気が済まん」
不機嫌な響きだ。何か怒らせたか。だが走り出すと、老人はふとくすっと笑った。
「いかんいかん、コンピュータは敵に回すべきじゃないな。味方につけねば」
僕は訊ねる。
「おじいさんは誰ですか」
「ワシは、元航空機関士だった。今でも計器を見ればエンジンの状態がわかる。エンジンの声が聞こえるんだ。ワシはエンジンと会話できた」
クラッチを丁寧に踏み、ギアを変え、クラッチをつなぐ。その間も老人はエンジン音や路面の音を聴いている。ギアやエンジン、タイヤたちと対話しているようだった。
あのカメラも、老人が撮りたい絵を描くために光を自在に操っていたのか。僕のスマホのカメラにそんなことができようか。
昔は、機器を思い通りにあやつる機械技師に憧れていた。そして目の前の老人が、かつて僕が憧れた航空機関士だと知り驚いた。小学生の頃に見た映画を思い出す。旅客機のコクピット。航空機エンジンの専門家が脇役で登場し、計器を見て調整し、パイロットに状態を伝えていた。あの姿に憧れ、こんな人になりたいと思った。
そういえば中学校の先生が言っていた。コンピュータ化でフライトエンジニアという職種は消えたと。航空機関士のことだ。彼はコンピュータに仕事を奪われたのだろう。
車は僕の通う小学校に滑り込んだ。
礼を言い、夕焼けに包まれた校舎へ向かう。自分の学校だ。トイレの位置は知っている。
手を洗い廊下に出ると、なぜか真っ暗だった。さっきまで夕日が差していたのに。急に真夜中か?
何かおかしい。車に戻らねば。
待てよ。なぜ老人は僕がトイレに行きたいと知っていた? それに、映画を見たのは小学生の時だ。僕は今、中学生になったはずなのに。もやもやが次々に湧く。
幾重にも渦巻くもやもやの中、僕は目を覚ました。
「あれほど不自然なのに、なぜ夢と気づかなかったのか」
あの老人を思い返す。機械を制御することも、夢を制御することも…結局不可能なのかもしれない。
ええい、哲学にふけっている場合か。急がねばならぬことがある。
カーテンの間から朝日が差す部屋を後にし、僕は一路トイレへ急いだ。
マニュアル・ドリーマー キックミラキス @Cick_Mylaxs
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