第三話

 夜も更けてきて、僕と紫苑さんは下駄を鳴らしながら宿に戻った。

 その途中、紫苑さんに、あとどれくらいここに滞在するのかと聞かれた。僕がもう一泊するつもりだと言うと、じゃあ明日も出かけませんか、いい場所があるので紹介しますとお誘いを受けた。願ってもない話だったので、僕は首をぶんぶん縦に振った。それが面白かったのか、紫苑さんはくすくすと笑いだした。笑わないでくださいと軽く怒ると、紫苑さんの笑いは逆にエスカレートして、ついには声を上げて笑った。こうなると僕もなんだかおかしくなってしまって、二人して笑いながら夜の温泉街を歩いた。


 旅館に着き、変わらず帳場にいたご主人から預けていた部屋の鍵を貰う。お礼を言って、借りていた下駄も返した。スリッパをパタパタと鳴らしながら、二人で階段を上る。僕は自分の部屋である二〇一号室の手前で立ち止まり、紫苑さんに挨拶をした。

「おやすみなさい、また明日」

 紫苑さんはふわっと笑みを浮かべて、

「はい、また明日。おやすみなさい」

 と言ったあと、手を振りながら廊下を歩いていって、曲がり角に消えた。


 諸々の支度を済ませ、カーテンを閉めて寝間着に着替え、布団に寝転がる。ぼんやりと天井の木目を見ていると今日のできごとが思い浮かんできて、自然と頬が緩んでしまう。

 こんなに楽しい旅行になるとは思ってもみなかった。明日、紫苑さんはどこに連れて行ってくれるんだろう。楽しみだな。そんなことを考えているうちに、いつの間にか心地よい眠りについていた。


   ***


 明くる日の朝、僕はひっきりなしに鳴るスマホの通知音で目を覚ました。うるさいな、と思いつつゆるゆると瞼を開け、


 頭から背中、お尻にかけての硬い感触と、灰色の低い天井、差しこんでくるまぶしい光に気づいた。

「……え?」

 

 背もたれを最大まで倒して、運転席で寝ていた。

「え……?」

 どういう、ことだ、僕は、旅館に、泊まったはず、なのに、なぜ、ここにいる?


 混乱したまま、とにかく情報を得ようと外に出る。そこが変わらず旅館の駐車場だったことにほんの少し安堵して、そのまま旅館の玄関へ急ぐ。暖簾をくぐり、硝子戸を開ける。旅館の中も、昨日と同じに見える。帳場にも、昨日と変わらず旅館のご主人がいる。良かった。ご主人に聞いてみる。

「僕、昨日この旅館の二〇一号室に泊まりましたよね?」

 ご主人が戸惑ったような顔をする。

「昨日の二〇一号室には予約は入っていなかったはずですが……。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 僕が名前を伝えると、ご主人はパソコンを見てから言った。

「やはり、お泊りになっていらっしゃいませんね」

「え、いや、でも、昨日確かにご主人に受付をしてもらったし、温泉にも浸かったし、女将さんにも会って、夕食もここで食べたはずなんですが」

「いえ、お泊りになっていらっしゃいません。女将にもお聞きになりますか?」

 お願いします、と足元の地面が崩れていくような感じを味わいながら答える。ご主人は女将さんを呼んできてくれた。見覚えのある顔だ。恐る恐る女将さんに聞く。

「昨日、夕食の時に小座敷まで案内してくれましたよね?」

 女将さんはやはり戸惑った顔をした。

「いえ、申し訳ございませんが、ご案内しておりません」

 絶句した。

 自分が信じられない。ずっと、幻覚を見ていたのか?温泉も食事もあの部屋に泊まったことも全て幻なのか?

 ……いや、まだだ。紫苑さんがいる。紫苑さんを呼んでもらえば、少なくとも僕が昨日この旅館にいたことは証明できるはずだ。

「この旅館に、昨日知り合った紫苑さんという人が泊まっているはずです。その人を呼んでもらえませんか?」

 ご主人がパソコンを見る。そして言いにくそうな顔をして、

「この旅館に、紫苑さんという方は……」

 嘘だ。嘘に決まってる。

「紫苑という名字でもいないんですか?」

「いらっしゃいません」

「……もう何度も泊まっていて、この春も来たと言っていたんですけど」

「顧客名簿にも紫苑さんというお名前はございませんので、お泊りになったことはないかと」

 

 急展開した事態に感情が置いてけぼりにされたまま、旅館から出て車に戻る。

 紫苑さんも、いなかったのか。綺麗で、親しみやすくて、楽しい人。今日は出かける約束もしていたのに。僕は、どうかしてしまったんだろうか。

 じわりじわりと心を侵食する悲しみと、自分に対する不安に苛まれながら運転席に座り込み、倒れたままの背もたれに体を預ける。

 

 なんとなく目に入った後部座席、そこにはどことなく見覚えのあるレジ袋があった。

 ……レジ袋?

「!」

 素早く腕を伸ばして後部座席からレジ袋をひったくる。射的の店の名前が入っている。そのまま中身を見る。


 三羽のあひるのおもちゃが、こちらをつぶらな目で見つめていた。



 

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