破門聖女と囚われの竜

大根ハツカ

第1話 雨のちハレー彗星




 足を踏み外した。

 感覚としては、それが正しい。



「…………え?」



 普通の通学路だった。

 一年間何度も経験した同じ道。少女は着慣れたセーラー服に袖を通し、見慣れた街並みを進む。

 いつも通りの長い信号待ち、それが青に変わって一歩踏み出した。


 


 そこに地面はなかった。

 それどころかいつもの街並みすら。

 気付けば、少女はから落ちていた。



「……ッ⁉︎」



 息を呑む。

 それは落下に対する恐怖ではなく。

 目の前の美しい光景を目撃したため。


 雲の上から落下している少女には世界の全貌がよく見えた。

 コンパスで作図されたような真円の大地。雲を突き抜ける摩天楼のような山脈。海の果てでこちらを睨む巨大な鯨。広大な砂漠で一人佇む燃える巨人。



異世界ファンタジー、ですね……)



 一目見て分かった。

 ここは少女のよく知る現実せかいではないと。


 空から大地の全てを眺める。

 もはや着地時の問題は忘れていた。

 少女は思う。こんなにも現実離れした大地があるのならば、その世界の空はどんなものなのだろうと。

 落下しながら、少女は器用にひっくり返った。この世界の空を見るために。



 



「かみ、さま……?」



 

 


 神。

 直感的にそう思った。

 少女はそれ以外にかの存在を言い表す言葉を知らなかった。


 お天道様が見ている、という言葉はここまで物理的に存在するものだっただろうか。

 眩しい光に目をやられる。それは太陽によるものか、それとも神を直視する事など許されないのか。


 だが、何にせよ。

 少女は一つの予感を手にした。



(もしかして今……目が合いました?)



 直後の事だった。


 ‼︎‼︎‼︎ 

 






「うわお、珍しっ」


 空を眺めていた女性は声を上げる。

 白い外套コートを纏い、頭に丸々としたニワトリを乗せた不思議な女性だった。


 彼女の視線の先には空が──厳密には、空を覆う雲の小さな穴があった。


 雲の切れ間から光が差す。

 このにおいて、それがどれだけあり得ない事なのか。


 曇天に空いた小さな穴からは、神の瞳が垣間見える。

 すぐに雲に覆い隠されてしまうものだとしても、ほんの一時でも神の目がこの地に届いたというのは一体何百年──何千年ぶりの偉業なのだろう。


「うん? あれって……」


 しかし、彼女の目を奪ったのは数千年ぶりの奇跡ではない。

 穴の空いた曇天──


「ちょちょちょいっ、ちょい待った! それは死ぬでしょ!」

「コッ、コケ!」

「トリィは荷物を見てて。わたしはちょっくら行ってくるから!」


 頭からずり落ちた鶏には目もくれず、彼女は反射的に走り出した。

 目の前で墜落死しようとしている見知らぬ少女を救うため、彼女は自分が持ちうる全てを吐き出して全力疾走する。


 だが、一向に距離は縮まらない。

 彼女のいるのは植物に支配された極彩色の樹海。

 無数の樹々と常に降り続ける豪雨に邪魔され、彼女の歩みは進まない。


 それどころか、進めば進むほど樹海は深くなり、背の高い樹々によって曇天さえも覆い隠される。

 これでは、自分が落下する少女の方向へ正しく進んでいるのかも分からない。


「こうなったら……っ‼︎」


 故に、彼女は決意した。

 握り締めるのは胸元の首飾りペンダント

 真円の中に十字をはめ込んだ金属を手にして、腹の底から大きく叫ぶ。



「日輪を曳く牛車の手綱。星空回す天の車軸よ。東より西へ、夜より昼へ、冬より春へ、廻れよ廻れ。空を駆けよ──『車輪の奇蹟』っ‼︎」



 ぎゅいんっっっ‼︎‼︎‼︎ と。

 まるで何かに引っ張られたように、彼女は飛翔する。

 樹々の枝で肌を打ち付けられながら、豪雨に体を冷やされながら、それら一切を無視して加速。視界を塞ぐ樹海を抜けて、遂に落下する少女に追いついた。


「よおーし、確保! そのままちょっと大人しくしててね〜‼︎」

「っ⁉︎」


 手を広げ、落下する少女を抱きしめる。

 空を飛んで落下自体を無視する事はできない。彼女の扱う『車輪の奇蹟』はそこまで万能ではない。

 しかし、ほんの僅かに落下地点を逸らす事くらいはできる。


 直後。

 ゴバァーンッ‼︎‼︎‼︎ と。

 二人は抱き合って、深い川の中へと落ちた。






「いっ、いったいなあ……」


 ぜえはあ、と荒い呼吸を繰り返し、命からがら川岸へと上がる。

 無数の枝や葉にぶつかって勢いを殺し、底の深い川に着水する。そこまでやっても、あの高さからの生還というのは現実的ではなかった。

 奇跡。二人がまだ息をしているのは、そうとしか表現できない何かがあったのだ。


(見たことない服装だなあ。雲の上から落ちてたし、どう考えても訳アリだもんなあ。……それに、)

『あな、たは……』


 少女のあげた声で、思考が途切れる。

 思わず、目を見開いた。


 少女の発した言葉──


「えー、何語だこれ。青銅語でも白銀語でもなさそうだし……まさか黄金語? いや、ちょっと違うか。うーんと……『これで通じる?』」

『っ⁉︎ 日本語を知っているんですか⁉︎』

「『知ってるというか、理解わかるというか……まあ、気にしないで』」


 笑みを浮かべる女性の顔を、少女は改めてまじまじと見つめた。

 夕日のような橙色オレンジの髪に、澄んだ海のような水色の瞳。その顔立ちは幼いが美しく、純白で高価そうな外套コートも相まってお城を飛び出してきたお姫様のようにも見える。


「『改めて自己紹介しよっか。わたしはアナテマ=ブレイクゲート。見ての通り……って言っても分かんないかもだけど、巡礼者ってヤツだね』」

『私は、竜胆りんどうウルウと言います。中学二年生……十三歳です。……助けてくれて、ありがとうございました』

「『いえいえ。……十三歳っ⁉︎ わたしと一緒くらいの身長なのに⁉︎』」

『……? アナテマさんは何歳なんですか?』

「『うぇっ、あ、いや…………十八です』」

『童顔なんですね』

「『ひっ、人が気にしてる事を……っ!』」


 別に小人種ドワーフの血とか入ってないですけどー! とアナテマはぶつぶつと騒ぐ。

 そんなおどけた様子を見て、ウルウの口も緩む。

 知らない土地、知らない言葉、知らない世界。そんな場所に迷い込んで、訳も分からず上空から落ちて、どこか強張っていた体が解けるようだった。


「『おっ、笑った?』」

『笑ってませんけど』

「『いいじゃん、いいじゃん。カワイイんだから笑ってなんぼでしょ』」

『笑ってません』

「『えー、もう一回笑った顔見たーい! ほうれほうれ、ニコーって……』」

『アナテマうるさい』

「『別に良いけど呼び捨てになるの早くない⁉︎』」


 恥ずかしがり屋か、あるいは意地っ張りか。

 ウルウは笑った事を素直に認めない。

 ただし、そんな所もカワイイと思うのでアナテマ=ブレイクゲートは無敵だった。


『別に……私は可愛げがないですから。クラスメイトにもよく言われました。こんな私の何処が可愛いって言うんですか』

「『何処がって……?』」

『………………え?』

「え?」


 瞬間、時間が止まったような沈黙。

 竜胆ウルウはその言葉を意味を理解できず、アナテマ=ブレイクゲートはウルウが驚いた理由が分からないために。


「『ごっ、ごめん! ?』」

『ちょっ、ちょっと待ってください! 翼? 尻尾⁉︎ 何を言って────』



 その時に、竜胆ウルウはようやく気が付いた。



(体が重いのは着水で体力を使ったからだと思ってましたけど……っ!)


 実際、それもあるのだろう。

 しかし、最大の理由は他にあったのではないか。


 そう、例えば。

 



 ウルウは川の水面に駆け寄る。

 流れが速い川だった。辺りも暗く、鏡のように使うには無理があった。

 それでも、僅かな反射から分かるくらいには、竜胆ウルウの姿は人間離れしていた。



『ドラ、ゴン……っ⁉︎』



 顔や体格が変化した訳ではない。

 髪の色も、顔立ちも、年齢にしては高めの身長も、竜胆ウルウのままだった。

 ただし、元の体に変化はなくとも、元の体になかったはずのモノが付け加えられていた。


 頭には山羊ヤギのような角。

 背中には蝙蝠コウモリのような翼。

 お尻にはヘビのような尻尾。

 目の下にはワニのような鱗。

 黒かったはずの目は深紅に染まり、瞳孔も爬虫類のように鋭くなっていた。


 総じて、ドラゴン。

 竜と人間の混血ダブルと言っても納得してもらえそうな見た目。


「『……空の向こうにはドラゴンの国があるのかと思ったんだけど、その様子だと違うみたいだね』」

『ちがっ……ちがいます! 私はこんな体じゃっ!』

「『落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから』」

『何がですか⁉︎ こんな体じゃっ、もう学校には……っ! お父さんのところにもっ‼︎』

「『わたしが何とかする。絶対に、君を故郷へ帰すから』」


 ぎゅっ、と背中からアナテマ=ブレイクゲートは竜胆ウルウを抱擁する。

 その感触が翼にも伝わってきて、ウルウはこれは幻でも何でもないんだな……と実感した。


『……たすけて、くれるんですか? 私はあなたと知り合ったばかりの、人間かどうかも分からない生き物なのに』

「『関係ないよ。言葉が通じて、一緒に笑い合えた。それだけで理由は十分でしょ。だいじょーぶ、お姉さんに任せなさい!』」

『お姉さんって……その顔じゃ、説得力ないですよ』

「『なっ、なにおう!』」


 幸運だった。

 竜胆ウルウはそう思った。


 この世界の事はまだ何も分からない。

 それでも、初めに出会った人がアナテマで良かったと。



 

 ! 



『…………はい?』


 チョーカーかと考えたのは一種の現実逃避。

 それは紛れもなく、だった。



「『お願い! ちょっと奴隷になってくれない?』」

『頭イカれてます?』



 こうして。

 異世界へと放逐された邪竜──竜胆ウルウは、破門聖女アナテマ=ブレイクゲートに囚われた。

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