食と識の旅日和

梓川奏

001_アンコールワット編 ~石の微笑みが映すもの~

◆夜明けの喧騒と、探求の始まり◆


 まとわりつくような熱帯の湿気は、まだ夜の藍色を溶かしたままだった。東の空が白むにはまだ間があるというのに、アンコール・ワットの聖池の前は既に世界中から集まった人々の熱気で満ちている。三脚を立てて完璧な構図を狙う者。静かに目を閉じ、祈るようにその時を待つ者。様々な言語の囁きが、ざわめきとなって水面をかすめていく。


「うわ......すごい人だね」


 人垣の隙間を縫うようにして、佐伯優花――ユウは感嘆の声を上げた。手にしたスマートフォンの画面には、漆黒のシルエットとして浮かび上がる寺院の尖塔が映っている。まだ肉眼では輪郭さえおぼろげなその姿を、最新のテクノロジーがいち早く捉えていた。


「夜明け前のこの時間は、世界で最も多くの祈りと期待が集まる場所の一つだからね」


 隣で水瀬香奈美――カナが静かに応じた。彼女はカメラを構えるでもなく、ただじっと、闇に沈む巨大な伽藍を見つめている。その横顔は、夜明けを待つというより、千年以上の時を遡って何かと対話しているかのようだ。


「祈りかあ。私はどっちかっていうと、いいね!がたくさん集まることかな」


 ユウは悪戯っぽく笑いながら、インスタグラムの投稿画面を開いた。無鉄砲に会社を辞めて飛び出したこの旅の記録は、彼女にとって世界と繋がる唯一の窓口だった。


 二人が遺跡の入り口で手に入れた冷たいココナッツジュースが、ぬるい空気の中で心地よい。ストローを吸い込むと、飾り気のない自然な甘みが口の中に広がり、長旅の乾きをじんわりと癒していく。このみずみずしさが、これから始まる一日のための、ささやかな儀式のように思えた。


「カナは写真撮らないの?最高の『逆さアンコール』が撮れるスポットだよ」


「写真はもう少し後でいい。今は......空気と音を覚えておきたい」


 カナの言葉に、ユウは耳を澄ませた。人々の喧騒の向こうから、微かに読経のような声が聞こえる気がした。それは熱帯の鳥の鳴き声や、まだ鳴き止まぬ虫たちのコーラスと混じり合い、不思議な音の層を作り出している。ここは単なる観光地ではない。今もなお、信仰が息づく聖地なのだと、その音色が告げていた。


    * * *


 変化は、静かに、だが劇的に訪れた。


 空の縁がまず茜色に染まり、その光が藍色の夜空を押し上げるようにして、黄金色のグラデーションを広げていく。空の色が刻一刻と表情を変えるたび、集まった人々からどよめきが漏れた。


 やがて、最初の太陽光が中央祠堂の背後から差し込んだ瞬間、世界から音が消えた。無数のシャッター音さえも飲み込むような、荘厳な静寂。黒いシルエットだった五つの塔が、神々しい輪郭を現し、鏡のような聖池の水面にもう一つの世界を完璧に描き出す。天と地が繋がる、神話の光景がそこにあった。


「すごい......本当に、神様が住んでるみたい」


 ユウはスマホを構えるのも忘れ、ただ目の前の光景に息をのむ。ファインダー越しではない、本物の絶景が持つ力に圧倒されていた。言葉で飾る必要などない。ただ、美しい。その単純な事実が、胸の奥を熱くした。


「ヒンドゥー教の宇宙観では、世界の中心にメール山という聖なる山が聳えている。このアンコール・ワットは、クメール王朝の王、スーリヤヴァルマン二世が、その宇宙の中心を地上に再現しようとしたものなんだ」


 隣でカナが、いつもの冷静な口調で解説を始めた。その声は興奮を抑えながらも、目の前の光景と知識が結びついた喜びで微かに震えている。


「へえ、神様のお山なんだ。だからこんなに壮大な感じがするんだね」


「うん。そして、多くのクメール寺院が再生を象徴する東を向いて建てられているのに、ここは違う」


 カナは指で西の方角を、つまり自分たちが今いる正面を指し示した。


「アンコール・ワットは、正確に西を向いている。西は死や終焉を司る方角。これはヴィシュヌ神に捧げられた寺院であると同時に、王自身の墓でもあるからだと言われているわ」


「お墓......」


 ユウは、カナの言葉に少し戸惑った。こんなにも生命力に満ち溢れた夜明けの光景が、死と結びついている。その事実に、目の前の絶景が少しだけ違う意味を帯びて見え始めた。ただ綺麗なだけではない。千年の時を超えた王の祈りや、一つの文明の終着点としての哀愁が、黄金色の光の中に溶け込んでいるような気がした。


「綺麗な景色を見てる時に、難しいこと考えなくてもいいじゃん」

 ユウは少しだけ拗ねたように言った。


「逆よ、ユウ。意味を知ることで、景色はもっと深く、もっと立体的になる。ただの石の集まりが、壮大な物語を語り始める瞬間があるの」


 カナの瞳は、まるで石に刻まれたレリーフを読み解くように、真っ直ぐに寺院を見据えていた。知識を求める旅と、感覚で楽しむ旅。二人の視線は同じ絶景を見つめながら、全く違う層を捉えている。その違いが、今はまだ少しだけもどかしかった。


    * * *


 陽が完全に昇り、空が南国らしい青を取り戻すと、夜明けの祭典は終わりを告げた。人々は満足したように、あるいは次の目的地へと急ぐように、一斉に動き始める。


 ユウとカナも、西参道へと続く石の橋へと歩みを進めた。


「ねえ、カナ。今回の旅で、何か見たいものとかって決まってるの?」

 ユウが尋ねると、カナは少しだけ逡巡したあと、ふっと表情を和らげた。


「一つだけ。個人的な興味だけど」


「なになに?」


「ここの回廊には、アプサラス......天女の浮き彫りが無数にあるんだけど、その中に一体だけ、歯を見せて微笑んでいる像があるそうよ。それを見つけると、幸福になれるっていう言い伝えがあるの」


「歯を見せて笑うアプサラス?」


 ユウは目を丸くした。壮大な歴史や建築様式ではなく、そんなささやかな伝説に興味を示すカナの姿が、少し意外だった。


「うん。ほとんどのアプサラスは、口を閉じて静かに微笑んでいるから、とても珍しいの。どこにあるのか、正確な場所は分かっていない。だから、宝探しみたいで面白いと思って」


 その言葉を聞いた瞬間、ユウの脳裏に、あるフレーズが稲妻のように閃いた。それは、勢いで会社を辞めるきっかけにもなった、祖父が遺した旅の手記の一文だった。世界中を放浪した祖父の、色褪せたノート。その中に、カンボジアを訪れた時のメモがあったはずだ。


『偉大な王の物語より、名もなき石の微笑みにこそ真実がある』


 当時は意味が分からなかった言葉が、今、カナの目標とぴたりと重なる。祖父が見つけようとしていたのも、もしかしたらこのアプサラスだったのかもしれない。ただの観光旅行だったはずのこの旅に、急にかすかな縦糸が通ったような気がした。


「いいね、それ!面白そう!よし、絶対見つけようよ、その幸せのアプサラス!」

 ユウは拳を握りしめて、すっかりその気になっていた。カナは、そんなユウの単純さに呆れたように、でもどこか嬉しそうに微笑んだ。


「見つかるといいけど」


「大丈夫、私こういうの得意だから!」


 根拠のない自信と共に、ユウは巨大な寺院の入り口を指さした。壮大な歴史の謎解きはカナに任せるとして、自分にはこの宝探しがお似合いだ。王の墓だとか、宇宙の中心だとか、難しいことはまだよく分からない。けれど、石に刻まれたたった一つの微笑みを探す旅なら、きっと心の底から楽しめる。


 ユウはポケットからスマートフォンを取り出すと、先ほど撮ったばかりの夜明けの写真を一枚選び、慣れた手つきで文字を打ち込んだ。


『最高の朝日! #アンコールワット #人生一度は見たい景色 #神々の住処なう』


 投稿ボタンを押すと、小さな達成感が胸に広がった。さあ、千年の迷宮へ、幸福の微笑みを探しに行こう。ユウは大きく息を吸い込み、悠久の時を刻む石の回廊へと、最初の一歩を踏み出した。


◆石の叙事詩と、すれ違う視線◆


 第一回廊の内部は、外の喧騒が嘘のような、ひんやりとした静寂に包まれていた。連子窓から差し込む陽光が、床に幾何学的な光の筋を描き、千年の間に積もった埃をきらきらと照らし出す。壁という壁、天井近くまでを埋め尽くす壮大なレリーフが、薄暗がりの中で訪問者を圧倒する。


「うわ......すごい。全部、石に物語が彫られてるんだ」


 ユウは思わず壁に駆け寄り、風化してなお緻密な彫刻にそっと指を触れようとして、慌てて手を引っ込めた。石肌は陽光を浴びて銀鼠色に、影の中では深く沈んだ黒に表情を変え、まるでそれ自体が呼吸しているかのようだ。


「ここは『石の絵巻物』よ。この第一回廊だけで、全長八百メートルにわたって古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』、そしてクメール王朝の歴史が刻まれているの」


 カナは水を得た魚のように、生き生きとした表情で解説を始めた。その目は既に、壁に描かれた神々と阿修羅たちの躍動を捉えている。


「見て、ここがこの寺院で最も有名なレリーフ、『乳海攪拌』」

 カナが指し示したのは、回廊の東面南側に広がる、全長四十九メートルにも及ぶ巨大な一枚岩の彫刻だった。中央には巨大なヴィシュヌ神、その左右にはおびただしい数の神々と阿修羅が、大蛇の身体を綱のようにして引き合っている。静止しているはずの石の彫刻が、すさまじいエネルギーと動きを内包しているのが分かった。


「にゅうかい......かくはん?」


「ヒンドゥー教の天地創造神話よ。神々と阿修羅が、不老不死の霊薬アムリタを手に入れるために協力する話。ヴィシュヌ神の化身である大亀が支えるマンダラ山を軸にして、大蛇ヴァースキの身体を巻き付け、千年の間、乳の海をかき混ぜ続けたの」


 カナは壁画を指差しながら、学術的な情熱をもって語り続ける。


「向かって左側、整然と並んで綱を引いているのが九十二体の阿修羅。右側で、猿神ハヌマーンに助けられながら引いているのが八十八体の神々。表情や装飾の一つ一つに意味があって、この躍動感と静寂が同居する構図は、クメール美術の最高傑作と言われているわ。攪拌によって生まれたのが、例えばこのアプサラスたち......」


 カナの説明は熱を帯び、次から次へと専門用語が溢れ出す。ユウは懸命に耳を傾けたが、神々の名前と複雑な人間関係、そして天文学的な時間のスケールが、頭の中で渦を巻いて飽和していくのを感じていた。物語の壮大さは分かる。けれど、その細部が、知識の奔流となって彼女を置き去りにしていく。


 やがて、ユウは自分なりに全ての情報を咀嚼し、一つの結論に達した。


「なるほどね!要は、不老不死の薬をゲットするために、神様たちがチームに分かれてやった、世紀のスーパー綱引き大会ってことでしょ?」


 その言葉が響いた瞬間、回廊のひんやりとした空気が、さらに一度、温度を下げた気がした。


 カナは信じられないという顔でユウを振り返った。その目は、これまでユウに向けられたことがないほど、冷たく、そして悲しそうだった。


「......もう少し、敬意を払いなさい。これは単なる綱引きじゃない。宇宙の秩序と創造を巡る、神聖な物語なのよ」


「ご、ごめん......。でも、そうやって覚えた方が分かりやすいかなって」


「分かりやすさだけが全てじゃないわ。省略された部分にこそ、古代の人々の祈りや世界観が込められているのに」


 カナは深くため息をつくと、それ以上何も言わずに歩き出してしまった。残されたユウは、ただ巨大な石の叙事詩の前で立ち尽くすしかなかった。良かれと思って言った言葉が、カナを深く傷つけてしまった。知識を求める旅と、感覚で楽しむ旅。決して交わることのない二本の線路のように、二人の心は静かにすれ違っていく。千年の陰影を刻む回廊で、ユウは初めて、旅の孤独を感じていた。


    * * *


 気まずい沈黙を引きずったまま回廊を抜けると、むっとするような熱気が二人を迎えた。強い陽射しが石のレリーフに深い陰影を刻み込み、物語の登場人物たちを立体的に浮かび上がらせている。


 ユウが日陰を探してきょろきょろしていると、どこからともなく現れた子供たちに、あっという間に囲まれてしまった。


「ハロー、レディ!ポストカード、ワンダラー!」


「ブレスレット、ビューティフル!」


 日に焼けた愛くるしい笑顔で、五、六人の子供たちが次々に土産物を差し出してくる。その瞳は真っ直ぐで、商売の駆け引きというより、もっと純粋な何かに満ちていた。


「あ、ええと......」


  戸惑うユウの腕に、カナがそっと触れた。


「一度買ったらきりがないわ。いらないなら、はっきり断らないと」


 その冷静な声に頷き、ユウは「ごめんね、いらないんだ」と断ろうとした。だが、一番小さな女の子が、おもむろにユウの手を取り、そこに手作りのミサンガを乗せてきた。


「フォーユー。ハピネス」


 たどたどしい英語でそう言うと、少女ははにかんで笑った。その屈託のない笑顔に、ユウの心の防御壁は一瞬で崩れ去った。


「......うっ。わ、分かった!じゃあ、そのポストカードと、その腕輪と、あとその布もらう!」


 結局、ユウは囲んできた子供たちのほとんどから、何かしらの土産物を買う羽目になっていた。クロマーと呼ばれる伝統的な万能布に、石の置物、そして山のような絵葉書。両手いっぱいの戦利品を抱えるユウを見て、カナは額に手を当てて、天を仰いだ。


「だから言ったのに......」


「だって、あんな顔されたら断れないよ......」


 ユウがしょんぼりと言うと、カナの口元が微かに緩んだ。


「まあ、あなたらしいけど。少しは、さっきの気まずさが紛れたんじゃない?」


「......うん。かも」


 ユウは腕の中の、お世辞にも上手とは言えない作りの土産物を見つめた。その不格好さが、なぜだかとても温かいものに感じられた。


    * * *


 昼食は、遺跡の近くにある簡素な食堂でとることにした。歩き疲れた体に、木陰と扇風機の風が心地よい。二人は黙ってメニューを指差し、カンボジアの伝統料理アモックと、甘いアイスコーヒーを注文した。


 やがて運ばれてきたアモックは、バナナの葉で作られた器にこんもりと盛られていた。葉を開くと、ココナッツミルクとレモングラスの甘く爽やかな香りが、湯気と共に立ち上る。魚のすり身をベースにしたカレー風味の蒸し料理は、驚くほどクリーミーで、口に入れるとふわりと溶けていった。スパイスはきいているが決して辛すぎず、その優しい味わいが、ささくれ立っていた心にじんわりと染み渡る。


 そして、たっぷりのコンデンスミルクが入ったアイスコーヒー。グラスの底に沈んだ濃厚なミルクをかき混ぜて一口飲むと、ガツンとくる甘さとコーヒーの苦みが、疲れた脳を覚醒させてくれる。


「......美味しいね、これ」


 先に沈黙を破ったのはユウだった。


「ええ。暑い国ならではの味付けね。理にかなっているわ」


 カナも静かに応じる。美味しいものを前にすると、人は少しだけ素直になれるらしい。壮大な歴史や神話について語り合うことはできなくても、今、この瞬間に舌で感じている美味しさを共有することはできる。それが、ささやかな救いだった。


  昼食を終える頃には、二人の間の張り詰めた空気は、すっかり南国の熱気に溶けてなくなっていた。食事が、言葉以上に雄弁な仲直りの儀式となったのだ。


  食堂を出ると、西日に染まった寺院が燃えるようなオレンジ色に輝いていた。ユウはもう一度、あの壮大なレリーフを見上げた。神々の躍動と静寂。スーパー綱引き大会という表現は、やはり稚拙だったかもしれない。けれど、あの石の絵巻物が、千年もの間、人々の祈りと物語を静かに見守り続けてきたことだけは、今なら少しだけ分かる気がした。


    * * *


To: Professor Kayoko Shiraishi

From: Kanami Minase

Subject: アンコール・ワット調査報告(中間)

白石教授

ご無沙汰しております。水瀬です。

本日、アンコール・ワットの第一回廊を調査しました。かねてより文献で知ってはおりましたが、「乳海攪拌」のレリーフが持つ力は想像を絶するものでした。石に刻まれた神々と阿修羅の躍動は、千年以上の時を超えてなお、宇宙創造のエネルギーを放っているかのようです。

ただ、一つ、壁にぶつかってもおります。

同行者の友人に、このレリーフの素晴らしさを伝えようと神話を解説したのですが、彼女にはまだ響かないようでした。彼女の口から出たのは「神様たちのスーパー綱引き大会」という言葉です。悪気がないのは分かっています。しかし、私が伝えたいと思っている文化や歴史の深遠さと、彼女が旅に求める楽しさとの間にある溝を、まざまざと見せつけられた気がしました。

書物の中の知識を、生きた感動として伝えることの難しさに、今、少し戸惑っています。

旅の価値観の違いが、これほど大きな壁になるとは思いませんでした。

またご報告いたします。

水瀬香奈美


◆スコールの後の静寂と、見つけた微笑み◆


 空の機嫌は、熱帯の気まぐれそのものだった。さっきまでの燃えるような西日が嘘のように、空はあっという間に厚い灰色の雲に覆われ、大粒の雨が叩きつけるように降り始めた。凄まじい音を立てるスコールに、観光客たちは悲鳴を上げながら屋根のある場所へと我先にと走り出す。ついさっきまでの喧騒が嘘のように、視界から人影が消えていく。


 ユウとカナは、十字回廊の深い軒下で雨宿りをしていた。すべてを洗い流すかのような激しい雨は、風に乗り、甘くエキゾチックな線香の香りを運んでくる 1111。雨に濡れた石の色はより深く、周囲の緑は生命力を満ち溢れさせていた。ごう、という雨音の他には、何も聞こえない。その音だけが満ちる世界で、二人は言葉もなく、ただ濡れそぼる千年の遺跡を眺めていた。


 やがて、激しかった雨足が少しずつ弱まっていく。ユウは、これまで見過ごしていた回廊の柱にふと目をやった。千年の風雨に晒された石壁の、ひんやりとしてざらついた感触が伝わってくるようだ 2。悠久の時を経て黒く変色した砂岩には、苔や地衣類が複雑な模様を描き出している 3。水滴が、レリーフの溝を伝って、静かに滴り落ちていた。


「......これも、綺麗だね」


 ユウがぽつりと呟いた。それは、カナにも、自分自身にも言い聞かせるような、静かな声だった。彼女が見ていたのは、壮大な寺院の全体像ではない。名もなき石工が彫ったであろう一つの模様、自然が時間をかけて描いた苔のグラデーション。そういう、誰にも注目されない細部だった。


 カナは、そんなユウの横顔を驚きをもって見つめた。知識の奥にある「ただ感じる」こと。自分がいつの間にか忘れかけていた旅の原点を、今、ユウが体現している。彼女は、歴史や神話を知らなくても、この遺跡が持つ時間の重みや、自然と文明が織りなす儚い美しさを、その肌で感じ取っている。


 カナは初めて、ユウの視点に心から共感できた気がした。回廊の向こう、石の隙間に絡みつく巨大なガジュマルの樹が目に入る。文明の最高傑作を飲み込もうとする、圧倒的な自然の生命力。王朝が衰退し、この寺院が密林に打ち捨てられ忘れ去られていた時代、ここには今日の喧騒とは違う、もっと深く、荘厳な静寂があったのだろう。その時の空気のかけらを、このスコールがほんの少しだけ、現代に連れてきてくれたのかもしれない。


    * * *


 雨は完全に上がった。雲の切れ間から、まるで舞台照明のような強い西日が差し込み、十字回廊の窓から、床にくっきりとした光の筋を描き出した。雨に洗われた空気は澄み渡り、濡れた石が黒く光る神聖な空間に、祈りの気配だけが満ちている。観光客が戻ってくる前の、ほんの束の間の奇跡的な静寂だった。


 ユウは、その神秘的な光景に引き寄せられるように、光の筋を踏まないようにしながら、回廊の奥へと歩を進めた。そして、壁の片隅、他の華やかな彫刻から少しだけ離れた場所を、ふと指差した。


「あ、見てカナ。あそこの天女様、なんだかちょっと面白い顔してない?」


 それは本当に、何気ない一言だった。カナはユウが指す方へ目を向けた。そこには、他の壮麗なアプサラスたちに比べれば少し小ぶりで、装飾も控えめな一体の像があった。目立たない場所で、まるで人々の営みを静かに見守っているかのようだ。


 そしてカナは息をのんだ。そのアプサラスは、確かに微笑んでいた。固く結ばれた唇ではない。唇の間から、白い歯がはっきりと見えていた。


「......見つけた」


 カナの声は、自分でも驚くほどかすれていた。幸福になれるという、たった一体の、歯を見せて笑うアプサラス。壮大なレリーフの前で歴史の知識を披露した自分ではなく、ただ目の前の光と石の質感に心を動かされたユウが、それを見つけ出したのだ。


「え、これがそうなの!?やった!」


 ユウが歓声を上げる。二人は、その小さな微笑みの前に並んで立った。それは、神々しいというより、もっと人間的で、温かい微笑みだった。まるで「よく来たね」と、千年の時を超えて語りかけてくるようだ。


「王の物語の中心にはいないんだね。少し離れた場所から、こっちを見ているみたい」

 カナが呟いた。


「この微笑みは、もしかしたら王や神々に捧げられたものじゃないのかもしれない。未来にここを訪れる、名もなき人々の幸福を、ただ静かに祈っている......そんな、石工の個人的な祈りだったのかも」


 その言葉が、ユウの心の中で、ずっと引っかかっていた最後のピースを嵌めた。


『偉大な王の物語より、名もなき石の微笑みにこそ真実がある』


「......そっか」


 ユウの声に、深い納得の色が滲んだ。


「おじいちゃんが言ってたのは、このことだったんだ。すごいものや有名なものを見るだけが旅じゃない。こういう、誰かのささやかな祈りみたいなものを見つけることが、『幸福』ってことなのかな」


 二人の旅が、初めて深く、完全に重なった瞬間だった。知識と感覚が、一つの微笑みの前で結ばれる。ユウとカナは顔を見合わせ、そして、石のアプサラスと全く同じように、歯を見せて笑い合った。スコール後の光の中に、三つの微笑みが、静かに輝いていた。


    * * *


(カナの日記より)

 もしユウが見つけなければ、私はあの微笑みに永遠に気づかなかっただろう。私は書物の中の壮大な物語ばかりを追いかけ、足元に咲く小さな花の存在を忘れていた。

 旅の答えは、分厚い研究書の中にはなかった。それは、突然のスコールが洗い流した後の、回廊に差し込む一条の光の中にあった。

 彼女の「綺麗だね」という、ただ素直な一言が、私の凝り固まった価値観を静かに溶かしてくれた。知識は世界を深くする。でも、感じる心は、世界を豊かにする。その両方が揃って、初めて旅は意味を持つのだ。

 あの石の微笑みは、私たち二人に向けられたものだったのかもしれない。そう思うと、この旅で得たものが、とてつもなく愛おしいものに感じられた。

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