第十四話 解読不可能

 それからしばらくは、また何事もない日々が続いた。

 だがある朝、俺が観測所に顔を出すと、室内の空気の重さが肌にまとわりついた。

 俺の視線の先では、所長はすでに席に腰を下ろし、しかめっ面でモニターとにらめっこをしていた。

 今朝は一体、何時に来たのだろうと考えてしまう。ただ、時折もれる低いうめき声からして、思うように事が運んでいないのは明らかだった。

 その様子が気にならないわけではなかったが、俺が所長にできることなどあるはずもない。軽々しく口を挟んで、所長の悩みが解決するとは到底思えない。

 結局そのまま悩める所長を一人残し、俺はいつものように観測地点の巡回に出た。


 ところが、巡回を終えて戻ったときも、所長はまったく同じ姿勢で画面を凝視し、同じようにうめき声を漏らしていた。

 どうやらあれからずっと考え込んでいたらしい。流石に放ってはおけず、俺は意を決して声をかけた。

「所長、データ解析に何か問題でもおこりましたか?」

「……うーん。いや──磁場ノイズのパターン解析自体は、ほとんど終わっているんだ。高梨くんが集めてくれたこれまでのデータと、橘さんと藤宮さんの二人の協力のおかげでね」

 視線をモニターから外さぬまま、所長は淡々と答える。

「だけど──この信号パターンをどう解読すればいいのか、まったく見当がつかなくてね。行き詰まってしまっているんだよ」

 なるほど、所長の悩みの種は理解できた。だが予想したとおり、やはり俺が解決できる問題ではなかった。

 ただ、解読の協力はできないにしろ、”パターン解析自体は、ほとんど終わっている”という所長の言葉が耳に残った。

 それを知らなかったのは、俺の方から進捗状況を逐一尋ねていなかったせいだが、まさかもうそこまで進んでいるとは思ってもいなかった。


「信号パターンは、もう解明したんですね」 思わず、そんな言葉が口をついた。

「うん。この信号は──磁場ノイズのピークに至るまでの漸近曲線、その形状を一つの単位としている」

 所長は画面から視線を外し、丁寧に説明をしてくれた。

「この表現の仕方は、斬新かつ極めて普遍的と言えるんだ。

例えばモールス信号やバーコード。いや、我々がいつも使っている言語でもいい。それらはある共通のルールに基づいて設計され、その共通認識のもと情報を伝達している」

「その共通認識によって、情報は簡略化され、円滑なコミュニケーションを取ることができるが、そのルールを全宇宙に広め普及させるなど、極めて困難で非現実的な事だ」

 そこで所長は一度、短く息を吐いた。

「それに比べて、この曲線信号は、一つの言葉、一つの意味を持つ塊としての信号──その区切りが、ピークに至るまで変化量という形で表され、とても明確なんだよ」

「……つまり、この情報は受け取る側のルールに関係なく、必ず『一塊の情報』として認識できるよう設計されている。

おそらく──いや、間違いなく、この曲線信号はまさに、その為に作られたものなんだよ」

 そこまで言って、所長は軽く微笑んだ。

 

 それは、これまでやって来たことが間違っていなかった証だった。

 所長たちの努力が報われて、俺も胸が熱くなる。

 だがその一方で、俺は所長たちのデータ解析を少しでも理解し手伝おうと、自分なりに勉強を重ねてきたつもりだった。しかし結局、間に合わせる事はできず、その知識も役立てることはできなかった。無力さを思い知らされて肩が落ちる。

 それでも、結果が出ているのなら、それに越したことはない。

 自分の努力が実を結ばなかったことにわだかまりは残るが、気を取り直し、俺は所長の話の続きに耳を傾けた。


 所長は、俺が頭の中を整理するのを待つかのように、ひと呼吸置いてから話を続けた。

「──解析の結果、曲線パターンの数は3072種にのぼった。

これらがつまり、毎日4.8時間にわたって発生している磁場ノイズの正体だったというわけだ。だがね──」

 そこで所長は目を伏せ、眉をひそめる。

「毎日決まった時間に現れるというのに、ノイズから見える曲線パターンは、単純な繰り返しをしていなかった。

それどころか、パターンの連続性にまったく規則性が見い出せなかったんだ」

「……これではね、個々の曲線パターンが何を意味し、それらの繋がりが何を表現しているのか、その手掛かりを得るのは難しい。──パターンそのものは解明できているのにね」

 そう言って、所長は自嘲するように笑った。


 確かに、規則性の見えない文字の羅列から意味を読み取るのは、並大抵のことではない。

 ちょっと調べればわかるような、暗号解読の手法。たとえば、頻出する文字からその意味と役割を推測する頻度解析や、文頭や文末に決まって現れるような位置関係から類推するような方法は、言われるまでもなくもう試しているだろう。

 それ以上のことを、俺が言えるはずもない。

 ノイズのパターン解析が完了したことで、かえって全体像が掴めなくなる。あるいは、そんな逆説もあり得るのかもしれないが、それを論理に落とし込んで、この難題を解き明かせるほどの頭脳は、俺にはなかった。


 そんな俺の前で、所長は最後に絞り出すように呟いた。

「これほど考えられた曲線信号を作り上げたんだ、だから解読にも何か普遍的な法則性があるはずなんだ……。

それを分かってあげられないのは、なんとも、悔しいね……」


 観測所の一室に、重たい沈黙が落ちる。

 その寂しげな所長の表情のために、俺も何かできればいいのだが、妙案など一つも思い浮かばない。

 俺じゃ役に立たない、そんな諦めに心が徐々に染まっていく。

 ──でも……、いや、まだ何か……。

 しかしそれでも、そんな子供の駄々のように見苦しく抗おうとした瞬間、不意に一人の顔が脳裏をよぎった。


「──所長、すみません。機材を置き忘れてきたみたいなので、ちょっと取ってきます」

 そう口実をつけて、俺は足早に外へ出た。外の熱気などまったく気にせず、車に乗り込んでエンジンをかける。

 目指す先は、観測地点なんかじゃない。俺は車を少し走らせるとすぐ止めて、ポケットのスマホを探った。

 橘に、相談しよう──彼女なら、俺には分からない何かを見つけられるかもしれない。

 そんな単純な淡い期待だけで、彼女の迷惑など顧みず、俺は電話を掛けていた。


「──もしもし、高梨です。突然のお電話申し訳ありません」

「あら、本当に。どうしたのかしら?」

「今、お時間よろしいですか? 折り入って相談したいことがありまして……」

「──ええ。いいわよ。そんなに改まって、どうしたの?」

「実は──」

 俺はそこで、信号解読の難解さを要点だけを選んで説明した。

 恐らくは、橘も理解しているであろうことだったが、所長がこれまでになく頭を抱えていることを添えて、なんとか助言を求めた。


「──私も、藤宮さんも、曲線パターンの解析には協力したけれど、それが何を意味するのかまでは、まるで分からなかったの」

「そうですか……」

「でもね、解読作業を白石所長ひとりに任せているのには、ちゃんと理由があるの」

「どんな理由です?」

「そうね、まず、これまで人類が編み出してきたような解読法則を網羅する事自体は、現代ではもう簡単なことなの」

「簡単?」 

「──簡単、といったら語弊があるかしら……」

「膨大なパターンの組み合わせを探索して、統計的に有望な候補を選び出す──解読ってつまりこういうことよね。

でもそういう作業は、今なら機械学習の仕組みを使えば自動化できるの」

「なるほど……」

「白石所長が、頻度解析や統計的なクラスタリングのような古典的手法と一緒に、機械学習的アプローチを試していないはずがないわ」

「それでも駄目だった、と」

「ええ。つまり、既知の方法で解ける範囲を超えている可能性が高いってことね」

「そうだとしたなら──私から白石所長に助言できることなんて何もない。未知の解読方法の案を出す事はできても、その妥当性なんて保証できないから……」


 俺は深く息を吐き出した。

 所長の言う「普遍的な法則性」を備えながら、既知のどれにも当てはまらないものを見つけ出す──それはつまり、新たな法則を発見するようなものだ。

 これはもしかすると、世界最高の頭脳を総動員しなければ解けない類の問題なのかもしれない。

 そんな明らかに身の丈に合わない問題を現実に突きつけられると、諦める以前に、何をどうすればいいのかすら分からなくなる。


「──そういえば、橘さんの問題は解決したんですか?」

 俺は目の前の問題から逃れるように、ふと思いついたことを口にした。冷静に考えれば、それはデリカシーに欠けた発言だったが、現実逃避と、彼女を心配している本心とが混ざり合い、俺の口を滑らせた。

「……ええ。おかげさまで。それはもう、いいのよ……」

 しばらくの沈黙が流れる。やっと、彼女の言いたくないことを聞いてしまったことに気づき、俺の方から話を切り上げようとした、その時だった。


「──私の研究はね、地震予知の中でも、断層に蓄積される応力から、地殻破壊の兆候を探るというものなの」

 橘は静かに、自分から抱えた問題を語り始めた。

「具体的には、断層をつくっている岩石の性質や含まれる水分、温度条件、それにプレート境界型か内陸直下型かといったタイプの違い、さらには隣り合う断層との相互作用まで考慮して、どの時点で臨界に達するかを推定するの」

「その中でも、私が独自に注目していたのは、断層が臨界に近づいたときに周辺で生じる微弱な地磁気の乱れを検知することで、地震発生の間際を予知するという研究」

「ただ……自分でもその手法の妥当性に確信が持てなくなって、白石所長にご意見を伺ったのよ」

「──でもね、白石所長は明確なアドバイスはしてくださらなかった。

正しいとも、間違っているとも、その評価をしようとすらされなかった……」

 それは、電話越しの声だからだろうか、それとも彼女の苦悩がそうさせるのか、いつもよりも落ち着いた柔らかな印象を受ける。どこか橘ではないように聞こえるせいで、語る言葉は妙な客観性を帯びた。

「白石慎一先生から、直々に助言を頂けるチャンスなんて滅多にない。そんな期待をもって、お伺いしたのだけれど……。

──いえ……、違うわね。

先生の名前を利用して、私の研究に箔をつけようとした──そんな私の下心を見抜いたのね、きっと……」

 その告白に、俺は言葉を失った。

 所長の考えも、橘の気持ちも、肯定も否定もできない。だって、その時の二人の心なんて分からないんだから。

 そんな中で、安直な慰めの言葉を送ったところで、そんなものは嘘でしかないんだから。


 二度目の沈黙は、一度目よりも重く、長かった。

 そして、その沈黙を破ってくれたのも、また橘からだった。

「──ねえ、あの時、白石所長が私たちにしてくれたこと、あなたは覚えているかしら?」

「……してくれたこと?」

「ええ、白石所長と、あなたがしてくれたこと。それで、私はまた、真っすぐに歩き出せた」

「────」

「だから──今度は私たちから、白石所長にしてあげない?」

「それは……、そうか。いい、考えですね」

「そうね、決まり。今度の週末そっちに行くわ。楽しみにして、待っていて」

「はい。じゃあ早速、藤宮にも連絡して、予定が空いてるか聞いてみます」

「……そう、ね。……久しぶりに、みんなで会いましょう」

「はい。橘さん、相談できてよかったです。ありがとうございました。それでは、今度の週末に」

「ええ、そのときに」

 俺は電話を切った。一度、大きく息を吐く。


”科学的な考えに煮詰まってしまったら、非科学的な妄想を膨らませよう”


 所長の言葉を思い出す。俺はそれを嵐の日と、橘が突然訪れた日の二度聞いている。

 それは問題を解決する方法じゃない。でも、それは橘を救い、藤宮を巻き込んで、そして俺に指針を与えた。

 だから今度は、悩める所長のために俺たちが……、そんな恩返しのような話だ。

 俺一人では、そんなことができるとも、やろうとも思い付かなかっただろう。彼女に相談できて本当によかった。

 その時はそんな感謝の気持ちで一杯で、電話先の彼女の小さな変化に、気付くことはなかった。


 少し時間を作ってから、俺は観測所に戻った。

 所長は、そこに張り付いてしまったかのように、モニターと睨み合いながら、深く頭を抱えていた。こんなに思い詰めた様子を見たのは初めてだ。

 これまでも難解な計算や解析に挑む姿はたびたび目にしてきたが、それは問題を解くための積極的な試みであって、苦悩とは違っていた。

 けれど、パターン解析をほぼ終え、ようやく解読作業に集中できるようになったはずなのに──そのこと自体が、逆に所長を追い詰めてしまっているようにすら見えた。

 俺はそんな所長を前に、少し迷ったあと、意を決して口を開いた。

「所長……今度の土曜の夜、飲みに行きませんか?」

 普段の所長なら喜んで乗ってくれるのだが、果たして、今の所長には言葉が届いているかどうかも怪しかった。

「……ん? 今度の土曜か、いいよ。行こうか」

 意外にも、所長はあっさりと答えた。

 けれど、その視線は相変わらずモニターに釘づけで、ただ条件反射のように返しただけにも見える。

「じゃあ、いつものところで。土曜の夜、19時に予約を入れておきますね」

 俺は念を押すように、改めて確認した。

「ああ、19時だな。ちゃんと空けておくよ」

 その視線はブレることはなかったが、おそらくはこれで伝わっているだろう。あまりしつこくしても、邪魔をしてしまうだけだ。

 この話はここまでにして、その後は俺も仕事を続けた。


 そのあと、藤宮にも連絡を入れ、所長のために週末また集まることを決めた。

 久しぶりにみんなで顔を合わせられることに、穏やかな期待を抱きながら、少し先の週末が待ち遠しく思えた。

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