第四話 ノイズ

 それ以降、皆は再び仕事に手を向けた。仕事場にはしばらく静けさが漂い、ただ機器の駆動音と外の風の唸りだけが耳に届く。

 そして日が傾き、今日の業務も終わりが見え始めたころ、不意に所長が顔をしかめ、藤宮を呼んだ。

「藤宮さん、ちょっと来て。──これ、どう思う?」

 所長が指さしたのは、設置したばかりの磁場観測モニターだった。

「……はい。これは……確かに。ここ、そしてここに短いノイズが出ていますね」

 藤宮は画面を覗き込み、所長の指摘に頷く。時間スケールを最短にした波形には、磁場強度が定期的に小さなピークを描いていた。

「いつから出てるんだろう……。ちょっと、確認してみよう」

 所長はログを遡りながら操作を続ける。その横で藤宮は、いまも刻々と現れ続けるノイズを目を凝らして追っていた。


 やがて所長が画面を指差した。

「──ここからだ。ちょうど15時きっかり。……なんだろうね、おやつの合図かな?」

 冗談めかして笑うが、藤宮の表情は硬いままだった。

 自然界では考えにくい規則的なパルス。もし自然現象でないなら、観測地点に何らかの影響を及ぼすものがあるか、あるいは、機器そのものに異常が起きているのかもしれない。

「……この嵐で、観測装置に倒木でも当たったのでしょうか」

 藤宮は低く呟いたが、その声には不安が滲んでいた。


 さすがに、「この嵐の中見て来い」などとは言わない。とはいえ、嵐がなんらかの影響を与えた可能性は否定できない。昨日の設置に不備があって、ネジの一本でも緩んでいたのかもしれない。もしそうなら、俺にも責任の一端はある。

 いずれにしても、現地を確認する必要はありそうだった。幸い、数値の異常はごく小さく、観測全体に支障をきたすほどではない。だが、正確な測定を保証するためには、原因を突き止めておかねばならない。


「明日にはこの嵐は収まるみたいですから、俺が見てきますよ。小さなノイズ程度なら大事にはなっていないでしょうしね」

 俺は日頃の仕事のついでのつもりで、そう軽く提案した。しかし意外にも、藤宮はそれにすぐさま応じた。

「では、私も同行します」

「えっ……いいんですか? 嵐で足止めされて、ただでさえ予定が狂っているでしょう」

 彼女を気遣ってそう返す。確認だけなら、わざわざ一緒に来てもらう必要はない。今日一日潰してしまった本土での仕事も溜まっているだろう。

 だが、藤宮は首を横に振った。

「いえ、もし修理が必要なら私がいた方がいいでしょう。昨日設置したばかりですし、初期不良の可能性もありますから」

 その言葉に俺も納得せざるを得なかった。確かに、重大な故障だった場合、俺一人では手に負えない。二度手間になるよりは、彼女が同行した方が理にかなっている。簡単なトラブルに見えても、実は重大な障害が絡んでいる──そんなことは滅多にあることじゃないが、それが起きてもいい様に備えておくことが、「賢い」ということなのだろう。


「ま、そうだね。しばらく様子を見て、明日対応してみよう」

 所長は軽く頷き、続けて藤宮に視線を向ける。

「藤宮さん、悪いけど明日も来てもらっていいかな。必要なら、僕から君の上司に連絡しておこうか?」

 所長は藤宮の現場対応の必要性を認識しつつ、それでも彼女に気遣いを見せた。

 だが、藤宮は首を横に振った。

「ありがとうございます。ですが、そこまで気を使って頂かなくても結構です。事情を説明すれば、理解は得られると思います」

 その口調は穏やかで、断りながらも感謝の気持ちが滲んでいた。

 所長も「そうか」と小さく笑い、そこで会話は一段落した。


 やがて時計の針が定時を指し、所長が「今日はここまでにしよう」と声を上げる。外の嵐は、今晩には収まると予報されていたが、まだ風は強い。こんな日に残業してもしょうがない。俺と藤宮はそれぞれ荷物をまとめ、消灯された研究棟を後にした。

 俺たちは短い挨拶を交わし、それぞれの帰路についた。外に出ると、少しでも濡れないように足早にそれぞれの車に乗り込む。そして狭い道を譲り合うように、車を順番に出していった。


 帰りの道中で、磁場観測器に現れたノイズについて、俺なりに考えを巡らせた。現地に行ってから慌てなくて済むよう、現場の状況をいくつかのパターンに分けて、それに応じたチェック項目を頭の中で整理しておく。

 そう、それはほとんどが意味のない、無駄な作業だった。だが、その中のどれか一つが当たればいいのだ。

 ただ──ふと、それは今日の所長の話とよく似ているな、と思い浮かび、気づけば口元は緩んでいた。



 ──翌日、俺は藤宮と朝一で、磁場観測装置のある島中央の展望台へと向かった。

 嵐は綺麗さっぱり消え去っていた。ただ、代わりに収まる様子のない異常な太陽フレアの影響が、朝から牙を剥く。強い太陽の光が道路を照らし、高い湿度を伴って、朝から陽炎を生み出していた。

 仕事の効率を考えれば、いつものように北側から島を回って巡回した方がいいのだが、藤宮はこの問題が解決すれば本土に戻る予定だ。彼女にそこまで付き合わせる訳にもいかなかった。

 一つ、引っかかることもあった。昨日現れたノイズは、今朝の観測データにはもう現れていなかったのだ。とはいえ、それで済ませてしまうわけにはいかない。原因を突き止めなければ、次に同じことが起きたときに対応できない。だからこそ、現地調査は不可欠だった。


 車を走らせ展望台にたどり着くと、昨日の嵐の爪痕がはっきりと残っていた。周囲には枝葉が散乱し、足元はぬかるみ、湿った落ち葉で滑りやすくなっている。

 しかし意外なことに、肝心の観測装置は倒れることもなく、設置したときのまま静かに立っていた。外見に異常は見られず、配線や固定具も外れていないようだった。


 藤宮は腰をかがめ、装置の側面パネルを慎重に開いた。

 まずは蓄電池ユニットのインジケーターに目をやる。緑色のランプが点灯し、電圧値も規定値を安定して示していた。

「うん、バッテリーは正常稼働」

 続いて、太陽光パネルの入力値を確認する。山腹に差し込む日差しはすでに煌々と照り、充電電流はしっかり流れていた。陰のかかり具合も問題ない。

 次に通信モジュールのテストをする。彼女はタブレットを取り出し、装置とリンクを確立する。画面に数秒遅れて現在時刻と地磁気のリアルタイム波形が表示されると、データは途切れもなく、ベース局への送信ログも順調だった。

「──電波状況も安定」

 そして最後に観測センサーの自己診断を実行する。ノイズレベル、感度、時刻同期、いずれも合格。

 初期不良が出ているわけではない。それどころか、どこも壊れていない。


 藤宮は頭を抱えているようだった。実際、観測装置は今はもう正常稼働しており、昨日のノイズの痕跡は一切見当たらない。

「何が原因だったんでしょうね」

 俺は少し気が抜けたような声で問いかける。問題なしの結果に、俺が頭の中で用意していたチェック項目は、ことごとく空振りしていた。

「うーん……。ひょっとしたら、広域のノイズだったのかも。ここだけじゃなく、この島全体、あるいはもっと広い範囲で同じようなノイズが発生していたのかもしれません」

 藤宮は唇に指を当て、言葉を選ぶようにゆっくりと口にした。

 確かに、機器が正常なら、磁場そのものに異常があったと考えるのが一番自然だった。

「そうじゃなかったら、この場所に時間周期的な問題があるのかもしれません。特定の時間帯だけに現れるような、局所的な現象なのかも」

 彼女はそう付け加えた。ただその場合、ノイズの発生源の特定はかなり難しいかも知れない。昨日は15時から始まったが、今日もそうなるとはまだ分からないし、長期的に調べる必要があるだろう。


 お互いに納得はできなかったが、この場にいてもこれ以上の調査はできそうにない。

 彼女も同じことを考えているのだろうが、きっと自分からは言い出しにくいだろう。そこで、俺は一つの提案をした。

「藤宮さんは本土に戻って、他の観測地点のデータを照合してもらえませんか? 俺の方は、ここでの観測データを所長と突き合わせてみます。それと一応、また15時にここに来て様子を見てみます」

 藤宮はわずかに視線を伏せ、苦い笑みを浮かべた。きっと自分の役目をきちんと果たせていないことが、引っかかっているのだろう。

「……申し訳ありません。そうさせていただきます。確かに、これ以上ここにいても分かることはなさそうですし……お言葉に甘えさせていただきます」

 その表情に、俺はむしろこちらの胸が痛むのを感じた。原因を突き止められなかったのは、俺にとっても悔しいことだ。しかし、全てが思い通りに進むわけではない。そう割り切るしかないのだ。


「白石所長にも、どうかよろしくお伝えください。そして……高梨さん、この三日間、本当にありがとうございました」

 彼女は最後にそう言って、これまで以上に深々と頭を下げた。その丁寧な仕草には、彼女の真面目さと同時に、少しばかりの名残惜しさがにじんでいた。

「ノイズの件は、必ずすぐに調査してご連絡します。それでは……失礼いたします」

 顔を上げたとき、彼女の目にわずかな未練の色を見たような気がした。だが次の瞬間、彼女はきびすを返し、足早に去っていった。その背中を見送りながら、胸の奥に小さな空白が残るのを、俺は自覚せざるを得なかった。



 そのあと、俺はいつもの業務に戻った。北側と南側の観測地点を巡回する。幸い、どちらの装置も嵐の影響をほとんど受けておらず、いつものように簡単な手入れをするだけで済んだ。


 一通りの作業を終えて観測所に戻ると、所長が待っていた。

「昨日あんな話をしたから、宇宙人が信号でも送ってきたかな」

 所長は冗談めかして、昨日のノイズの原因を語る。あれ以降、同じノイズは結局それっきり現れていなかった。

 その後はしばらく所内でデータ整理にあたり、いつもと変わらぬ時間が流れていった。やがて時計の針が15時に近づく。俺は昨日のノイズが出た時刻に合わせるよう、再び展望台へ向かうことにした。


 展望台へ続く坂道に、今朝はまだ残っていた水たまりが、この暑さで跡形もなく乾いていた。時折吹き抜ける風にも湿り気はなく、ただ熱気だけが肌をじりじりと焼きつけてくる。

 装置の周囲には相変わらず枝葉の散乱が残っていたが、今朝と大きな変化はない。午前中に確認した限りでは、モニターに異常はなく、淡々と安定した波形が描かれていたはずだ。


 ──そして、ちょうど15時を回った頃だった。

 静かだった波形の中に、唐突に鋭いピークが走った。昨日と同じ、規則的に間隔を置いたノイズが再び現れたのだ。

 俺は思わず身を乗り出して画面を凝視した。数値は確かに跳ね上がり、そしてまた静かに戻る。まるで一定のリズムを刻むかのように、同じパターンが繰り返されていた。

「……やはり、消えたわけじゃなかったのか」

 俺はあたりを見渡す。藤宮が本土へ戻った今、人どころか、動いているものは俺以外にない。

 観測所では所長が、同じノイズをリアルタイムでモニターしているはずだ。おそらく、俺と同じように頭を悩ませているだろう。

 原因も仕組みも分からない。ただ確かなのは、昨日の異常は偶然でも故障でもなく、ここで起き続けている何かだということだった。

 俺はこの暑さも忘れるような、ひやりとした感覚を胸の奥に抱えながら、モニターの数字を食い入るように見つめ続けた。


「──所長、見えていますか? また始まりました」

 モニターに走る規則的な波形を確認しながら、俺は所長に連絡を入れた。

「うん、昨日と全く同じだ。時間までぴたり一致している……。これは偶然とは言えないね」

「……島の電力系統が関係しているのでしょうか。15時を境に、何か大規模な切り替え処理が行われている可能性があります」

 機器自体の故障ではないとすれば、残る可能性は外部要因だ。磁場観測に影響を与え得るのは、まず電源電圧の変動だが、この装置は太陽光パネルと蓄電池で稼働しており、決まった時間に電圧変動が生じるとは考えにくい。

 となると他には、島全体に及ぶような大規模な電圧変動が起こり、それに伴って微細な磁場が発生した可能性が考えられる。

「そうだね。僕の方から役場や漁協に確認してみよう。

昨日は嵐のさなかでも起きていたから、あるとすれば、定期的にスケジュールされた動作の可能性が高いね」

「それから、藤宮さんからの連絡を待つとしようか。彼女の調査結果次第では、我々のやっていることは無駄になるかもしれないしね。高梨くんも、もう帰ってきていいよ。お疲れ様」

 そうして、通信を切った。


 夕暮れに、傾きかけた光が展望台を薄く照らす。管理モニターに現れた周期的なピークが頭から離れない。原因の分からないそのとんがりへの苛立ちが、胸の奥でくすぶった。

 明日になれば何かが変わるのか、それとも、また同じ不安に振り回されるのか。答えの見えない問題を抱えながら、俺はゆっくりと観測所への帰路についた。


 観測所に戻ると、所長が役場の担当者と話している様子だった。

「そうだねえ。正確な情報は、市に問い合わせるしかないか。ありがとう、助かったよ」

 この獅子島には役場の出張所しかない。その担当も、所長とは見知った仲だ。親し気な会話から漏れ聞こえる内容はどうも芳しくないものだった。

「ふん……。役場で把握している範囲では、15時に稼働を始める施設はないようです。

電力の使用状況の詳細を知るには、電力会社に問い合わせする必要がありますが、この島の電力需要が決まった時間に跳ね上がるとは考えにくいですね」

 この島の電力は海底ケーブルで供給されている。特定の時間に消費量が急増するのであれば、また別の問題が起きていそうなものだ。外的要因が影響しているのは明らかだが、それが何なのかは皆目見当がつかなかった。


 そんな中、仕事用の端末を開くと、藤宮からのメールが届いていた。

 彼女の移動時間を考えれば、電光石火の仕事だ。九州支社に戻ってすぐに取り掛かったのだろうか。そんなに慌てなくてもいいのにと思いつつ、その内容に目を通す。

 メールには、第一報として周辺地域の磁場観測データを、当該時間でまとめた結果が添付されていた。

 それを開いて見てみたものの、データにはノイズの痕跡は見られなかった。メールの最後に彼女はこう添えている。「また、追って調査・連絡いたします。もうしばらくお待ち下さい」

 それだけの短い文だったが、彼女の精一杯さが痛いほど伝わってきた。


 だが、そんな彼女の思いをどうすることもできないまま、時間だけが過ぎる。結局そのまま、何の手も打てずに就業時間を迎えてしまった。

「それじゃあ、漁協には僕が直接話を聞きに行くよ。もしよかったら、一緒に来るかい?」

 そう言いながら、所長は手にないお猪口を持ち、上下に傾ける。その動作は、明らかに別の意図を含んでいて、むしろそちらが真の目的なのでは、と疑わせた。

 しかし、心労のせいか、これまでの暑さの疲れが、ドッと重くのしかかって来たのを感じる。とても俺は飲む気にはなれない。誘いを丁重に断り、ひとり家路につくことにした。


 帰り道、頭の中であれこれ考えを巡らせるが、結局何も突破口は思いつかなかった。昨日からのノイズの原因を示す手がかりはどこにもない。じわじわと焦燥感が胸を締めつける。手を伸ばせば届きそうな真実は、どうしても掴めず、ただ時間だけが過ぎていく。

 ──手は尽くしてみたが、結局、何も分からないまま、一日が終わろうとしていた。

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