第10話 ショコラトル・プリンス

 シュガーティアで最も高いと言われる、白亜のマカロンタワー。その最上階。

 床から天井まで続く巨大な窓の外には、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような、シュガーティアの全景が広がっている。


 ここは、裏社会の絶対王者「ショコラトル・カルテル」の本部。

 しかし、その室内にはマフィアのアジト特有の、血と硝煙の匂いは一切存在しなかった。

 磨き上げられた白い大理石の床。希少なカカオの木材で作られた、ミニマルなデザインの調度品。そして、部屋全体に、ふわりと漂う、最高級のダークチョコレートの、甘く、ビターな香り。

 そこは、アジトというより、むしろ、洗練された王族が住まう、宮廷と呼ぶ方が、ふさわしい場所だった。


​ 新人組員のエミールは、そのあまりにも完璧な空間の中で、緊張に固く握りしめた拳が、汗でじっとりと湿るのを感じていた。

 彼は、このカルテルに憧れ、数々の厳しい試験を乗り越えて、一週間前に、ようやく、この場所への立ち入りを許されたばかりだった。

 彼の耳に、信じがたいニュースが、次々と飛び込んでくる。


「―――以上が、マカロン同盟の最終的な状況です。五つのファミリーは内部抗争の末、事実上、完全に崩壊。その縄張りと利権は、全て、ガレット・ファミリーに吸収されたものと見られます」


 アナリストの抑揚のない声が、会議室に設置された最新鋭のスクリーンから流れる。

 五大ファミリーの一角が、一夜にして消滅した。

 裏社会を揺るがす、その歴史的な大事件を前にしても、しかし、この部屋にいるカルテルの幹部たちの表情は、誰一人として、微動だにしなかった。

 彼らは、まるで、どこか遠い国の、他人事のニュースでも聞いているかのように、静かに、報告に耳を傾けているだけだ。

 恐怖も、動揺も、ここにはない。

 あるのは、絶対的な自信と、そして、彼らの「王」に対する、鉄壁の信頼だけ。


 エミールは、すぐそばで、二人の幹部が、静かに言葉を交わすのを、耳にした。


「……原因は、やはり、あの『災厄の魔女』か」

「そのようです。何とも下品で荒っぽいやり方だ。庭園の美しい花々を、根こそぎ、踏み荒らすような真似を」

「だが、心配は無用だ。……あの方が、お見えになれば、全ては、あるべき秩序を取り戻す」


 あの方。

 その言葉が、まるで、敬虔な信者が、神の名を口にするかのような、深い、深い、敬愛の念を込めて、囁かれる。

 エミールは、ごくり、と喉を鳴らした。

 自分もいつか、あの幹部たちのように、あの方の、信頼に足る完璧な「部品」になりたい。

 彼がそう強く願ったその時だった。

 会議室の、最も奥にある巨大な扉が、音もなく、静かに開かれた。

 そして、室内にいた全ての人間が、まるで、条件反射のように、一斉にその場に起立し、深く頭を垂れた。

 エミールも、慌てて、それに倣う。

 やがて、甘いチョコレートの香りが、一段と、濃密になる。

 そして、全てを支配する声が響いた。


​「―――やあ、皆。待たせたようだね」


 その声はまるで、上質なチョコレートがとろけるように甘く、そして、心を震わせるような、豊かな響きを持っていた。

 エミールは、恐る恐る、伏せていた顔を上げた。

 そして、その姿を、初めて、間近に見て、息を呑んだ。


 そこに立っていたのは、一人の青年だった。

 汚れ一つない、純白のスーツを完璧に着こなしている。艶やかな黒髪は、まるで磨き上げられたチョコレートのようだ。そして、その顔立ちはシュガーティアのどんなおとぎ話に出てくる王子様よりも、気高く、美しかった。


 カカオ・ヴァレンティノ。

 ショコラトル・カルテルの、若き支配者。

 カカオは、部屋にいる一人ひとりの顔を、ゆっくりと見渡すと、優しく、微笑んだ。


​「顔を上げてくれ。皆の顔が見られて、嬉しいよ」


​ その、瞬間だった。

 エミールの心臓が、歓喜に大きく跳ね上がった。

 全身を、温かい、幸福な光が、貫いていくような、凄まじい多幸感。

 ついさっきまで、胸の中に渦巻いていた、新人としての不安や、緊張や、劣等感が、まるで、春の雪のように、綺麗さっぱりと、溶けていく。


 疑念が消えた。

 迷いが晴れた。

 ただ、この人のために生きたい。

 この人のために、この命を捧げたい。


 エミールは、何の疑いもなく、心の底から、そう思った。

 これこそが、カカオ・ヴァレンティノの持つ、祝福ギフト

 《絶対魅了アブソリュート・チャーム》。

 彼の存在そのものが、周囲の人間の精神に、直接、作用し絶対的な忠誠心と、幸福感とを、植え付ける。

 それはもはや、カリスマという言葉では生ぬるいほどの、一種の精神支配。

 しかし、支配されている者は、誰一人としてそのことに、気づかない。

 なぜなら、彼に心酔している、その状態こそが、至上の「幸福」なのだから。

​ カカオは、会議室の一番、上座へと優雅な足取りで進んでいく。

 彼が席に着くと、それまでどこか夢見心地だった幹部たちの顔が、一斉に引き締まった。

 宮廷の謁見の時間は終わりだ。

 ここからは、冷徹な、マフィアの、会議が、始まる。


「では、始めようか」


 カカオが、アナリストに視線で促す。


「報告を」

「はっ」


 アナリストは、恭しく一礼すると、スクリーンに、一枚の勢力図を映し出した。

 シュガーティアの地図。

 その一部分が、不吉なまでに真っ赤に染まっている。

 それは、かつてマカロン同盟が支配していた、広大な縄張りだった。

 そして、その赤い領域の中央には、一つの、忌々しいファミリーの名が黒々と記されていた。


​ ガレット・ファミリー。


​ 会議室の空気は、幸福感に満ちたままだ。

 しかし、その議題だけがこれから始まる、血の匂いを、確かに予感させていた。


 アナリストの報告は淡々と続いていた。


「……ガレット・ファミリーの、この異常なまでの躍進。その影には、常に一人の少女の存在が確認されています。裏社会での通り名は、『災厄の魔女カラミティ・ウィッチ』。彼女こそが、この一連の事態の、全ての元凶であると、結論せざるを得ません」


 スクリーンに、不鮮明ながら、遠巻きに撮られたノワールの写真が映し出される。

 その、人形のように無表情な少女の姿に、会議室の空気が、微かに、揺らいだ。

 幹部の一人が、慎重に、口を開いた。


「……幸運を奪い、不幸を操る、ですか。厄介な祝福ギフトですな。一度使者を送り、その意図を探ってみては? あるいは、我々の側に引き入れるという手も……」


 それは、マフィアとして、ごく、真っ当な、現実的な提案だった。


 しかし。

 その言葉を聞いた瞬間、カカオ・ヴァレンティノの、完璧な微笑みが、すう、と、消えた。

 幸福感に満たされていたはずの、会議室の温度が、まるで真冬のように数度下がった。

 カカオは、その美しい顔に、絶対的な侮蔑と、そして、虫けらを見るかのような冷たい、冷たい、嫌悪の色を浮かべていた。


「……君は、勘違いをしているようだね」


 彼の声は穏やかだった。

 だが、その穏やかさの奥に、底知れない怒りの感情が、静かに横たわっているのを、その場にいた誰もが感じ取っていた。


 カカオは、ゆっくりと立ち上がると、巨大な窓の前へと歩み出た。

 眼下には彼が愛する、甘く、美しい、シュガーティアの街並みが広がっている。


​「このシュガーティアは、私が管理する、美しい庭園だ」


​ 彼は、まるで、独り言のように、静かに、語り始めた。


​「ここに咲く、か弱く、美しい花々が、その幸福を、誰にも脅かされることのないように。その調和を守り、育むことこそが、我々、ショコラトル・カルテルの、唯一にして、絶対の、使命だ」


​ 彼は、振り返って、幹部たちを、その、氷の瞳で、見据えた。


​「あの『魔女』は好敵手ではない。交渉相手ですらない。彼女は、庭園の、美しい花々から、養分を吸い上げ、不幸という名の病をまき散らす、ただの害虫だ」

「君は、庭園を荒らす、害虫と交渉をするのかね?」

​「―――否。ただ、駆除あるのみだ」


​ その、冷酷な、しかし、絶対的な確信に満ちた言葉。

 カカオは、再び、王子様のような完璧な微笑みをその口元に浮かべると、静かに、しかし、有無を言わせぬ、力強い声で宣言した。


「ガレット・ファミリー及びその魔女を、これより、我々カルテルの、完全なる『駆除対象』とする。異論は認めない」


 その、神の託宣たくせんのような言葉に、幹部たちは、一切の疑問を抱かなかった。

 彼らはまるで、一つの巨大な生命体であるかのように、全員がその場に、深く、深く、頭を垂れた。


 そして、その敬虔な祈りにも似た、忠誠の声が、会議室に静かに響き渡った。


​「全ては閣下プリンスの御心のままに」

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