真冬の僕ら
有線いやほん
I have hated studying.
街灯のほとんど無い夜道を、大型トラックの唸り声と寒風のか細い金切り声だけが駆け抜けていく。すっかり夜の帷に覆われた天空には雲ひとつ浮かんでなくて、どこまでも澄んだ漆黒は、見ていると吸い込まれそうな恐怖すら感じさせる。夜遅くに出歩く孤独を知ったのは、塾に通うようになってからだった。ちっぽけな僕は風にさらわれないようにダウンジャケットの中で身を縮め、家に帰るべく歩いていた。塾のある駅前の喧騒は遠のいて、道にいるのは僕ひとり。前にも後ろにも誰もいなくて、葉を散らした街路樹だけが延々と続いていた。
問題集とノートとその他諸々、背中のリュックに詰められたモノに物理的にも心理的にも重量を感じて、ただでさえ重い僕の足取りは更に引きずられるようだった。今月の月名の異称「師走」は、僧侶も走り回るほど忙しい時期という意味をもっているのだそうだ。こんな状態の僕にはとても走れやしない。それでも僕は走り続けないわけにはいかないんだ。
――今日やった天体の演習問題、全然ダメだったなぁ。
闇の中で白く浮かんで見えた溜息が風に散った。
日周運動と年周運動、ついでに黄道と季節の星座。僕にはどこか縁遠い分野だけれど、入試で使うのだから勉強の必要性が出てくるのはしょうがない。僕も渋々ながら演習問題に真面目に取り組んだ――つもりだった。
大問の内、解けたのは最初の小問が一つか二つだけ。思考問題や応用問題に関しては、先生の解説を聞いても、ホワイトボードに書かれた赤青黒の図を見ても、全くというほど理解できなかった。この問題が難しすぎるだけだ。解けなかったのはみんな同じだ。そう信じたくて縋る思いで盗み見た隣の生徒のノートには、細いボールペンの線で書かれた赤丸がこれ見よがしに埋め尽くされていた。
――そういえば僕は、いつもこうだったっけ。
国語でも、数学でも、英語でも、社会でも、もちろん理科でも。春期講習から始まった十ヶ月間を振り返ると、塾で同じクラスの人に解けて僕に解けない問題はあっても、僕に解けて誰にも解けない問題はなかった。
最初のころは、僕が塾に不慣れだからだと思っていた。高校受験に向けて、人生で初めて入った集団塾。いつかは僕も塾の授業形式に慣れて、隣に座る彼を、前の席に座る彼女を、追い越せる日が来ると信じて疑わなかった。楽しくはなかったけれど、努力は報われると思って耐え続けてきた。それなのに。
今ではあの頃の真っすぐさが眩しく感じる。授業のたびに僕がいかに落ちこぼれか思い知らされるようになったのは、いつからだっただろうか。もう随分と昔のことのように感じる。授業のたびに感じる、微弱な電流のようなあの緊張。模範解答と僕の解答を見比べるたびに感じるあの痛み。塾を楽しいと思ったことなんて、一度もないよ。
葉が落ちて寂しげな銀杏の枝の間を、急き立てるような風が吹き抜ける。
数ヶ月前まで輝くような黄金色だった葉は、一枚また一枚と、焦らすようにゆっくりと、しかし日を追うごとに着実に散っていった。それと比例するように、アスファルトの地面に敷かれた絨毯は柔らかな厚みを増していった。歩道の端にうず高く積もった落ち葉の山は、こぼれ落ちた砂時計の砂のようで、塾の行き帰りで視界に入るたび、僕は訳のわからない焦りに駆られた。
その銀杏の葉も次第に干からびた枯葉となり、ついには軽い身体を風にさらわれてどこかへ行ってしまった。樹から落ちてしまったばっかりに、行くあても無いまま拠り所を無くしてしまった葉っぱたち。今の僕の足元には剥き出しの硬いアスファルトが続いている。スニーカーに伝わるカサカサとした感触が恋しくて、彼らは今頃どうしているかな、なんて、行方知らずの落ち葉に同情した。
――僕もあんな風になるのかな。
自然と浮かんだ言葉に、闇の中で、ぞくりとした。真冬の冷気が爪先から這い上がり、身体の底へ沁み込んで心臓を締め付ける。嫌な想像が脳にこびりついて離れようとしない。どの方向を見ても閉ざされたような闇ばかり。苦しくて逃れたくて、酸素を求めるように息を吸うと、肺が貫かれるように痛んだ。
もし僕が受験に落ちてしまったら、僕を応援してくれた友人は、先生は、両親は、どんな反応をするだろうか。困ったように眉尻を下げて、口元には申し訳程度の微笑みを貼り付けるのだろうか。「残念だけど仕方ないよ」なんて口では優しく言いながら、心のなかでは「裏切られた」と思うのだろうか。他の人と比べて落ちこぼれの僕に、下り坂に置かれたビー玉のように緩やかに失望していくのだろうか。
――嫌だ。
どうしようもない。
――嫌だ。
何ができるというのだろう。
――嫌だ。
僕は所詮、「僕」以外の誰でも無いのだから。
――嫌だ!
コ゚オォォォォッ!!!
僕の鼻先一メートル、車体を鈍く光らせた大型トラックが轟音を上げて走り抜けた。排気ガス臭い疾風が頬をかすめ、距離の近さに喉がヒュッと鳴った。塾の行き帰りでいつも渡る横断歩道のところまで来ていたのに気づかなかったようだ。心臓がバクバクしている。全身を強張らせたままおずおずと歩行者用信号を見れば、赤いLEDライトがぼんやりと浮かんでいた。
――しょうがない。待つとするか。
得体の知れない感情を吐き出すようにして、大きく息をついた。僕の苦しみを代理したような白が、漆黒をバックにして吹き上げる風に散らされていく。僕は何の意味もないまま、モノクロームの光景をただ無気力に見上げていた。そのときだった。
きらり。
焦点の向こうで何かが瞬いた。
また、きらり。
何かがある。何かが瞬いている。
きらり。きらり。
目を凝らしてじっと見つめる。視界を吸い込まれるような澄んだ夜空。恐怖も忘れてひたすらに見入る。あれは何だ。あれは、あの瞬きは、一体。
「星だ」
思わず漏れた白が、風に消えた。
再びクリアになった天空に浮かぶのは、厚紙に開けた画鋲の穴から見たような、ちっぽけな光だった。青白いのと、薄紫っぽいのが二つと、一際輝く赤いのと。四つくらいがバラバラに離れて光っている中心で、小さな点が三つ斜めに並んでいる。
――オリオン座。
数十分前に聞いたばかりの名前が頭に浮かぶ。冬の星座の代表格、オリオン座。入試でも出るから押さえておけー、と先生が言っていた。確か、左上の赤いのがベテルギウス、右下の青白いのがリゲル。中心に三つ並ぶ星が特徴。神話の世界では、サソリを恐れる臆病者。僕と同じだ。
――初めて見た。
まばたきも忘れて天空を見上げ続けた。星は僕の視線に恥じらうことなく、隠れもせずに瞬いていた。人生初のオリオン座は教科書の中で見てきた図とはどこかイメージが違った。思っていたよりもずっと質素で、それでいて、ずっと綺麗だった。教科書の図だと星々を繋ぐ線やオリオンの絵が書き込まれているからだろう。余計な人工物を取り除いた純粋な輝き。水晶体を通して網膜に焼きつけられたソレは、溜息が出るほどに美しかった。
ふと、疑問が浮かんだ。
オリオン座はあんなに有名なのに、どうして僕は今まで見たことなかったのだろう。
少しの思考の後に解が出た。
あぁ、そうだ。僕は今まで、塾に入るまで、冬の夜空を見る機会がなかったからだ。わざわざ暗闇の中に飛び出して夜空を眺めるほど、僕はロマンチストでも星好きでもない。思えば、僕は受験のため塾に入って必死に勉強を続けてきたおかげでこの瞬きを見られたのだ。
――受験も塾も勉強も、意外と悪くないもんだな。
ふと、背後から大きく風が吹いて、意識を引き戻された。はっとして、痛くなりつつあった首を巡らせて見ると、LEDライトはすでに緑になっている。
帰らなくては。僕は左右を確認すると、上がった口角はそのままに、横断歩道の白線が浮かび上がる暗闇に躍り出た。もう背中のリュックは重くなかった。
僕らを覆う天球は、ちっぽけな鉱石を散りばめたように瞬いていた。
真冬の僕ら 有線いやほん @SpnSil319
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