完璧な彼女と、太った猫
Tom Eny
完璧な彼女と、太った猫
完璧な私と、太った猫
私には、二つの顔があった。
一つは、SNSで何十万ものフォロワーを抱える完璧なモデルの「美咲」。もう一つは、誰もいない部屋で、豪快にカップ麺をすすり、食べたいものを好きなだけ食べる、本当の私。この二つの顔は、まるで私という人間を二つの破片に引き裂いているようだった。
モデルの美咲は、人々の理想の象徴だ。彼女としての日々は、完璧を演じるための綱渡りだった。撮影現場でカロリー計算されたサラダを優雅に口に運ぶたび、頭の中では「ああ、あのドーナツが食べたい。フライドチキンの匂いを嗅ぎたい」という声が響いていた。美咲は、人々の賞賛を浴びるたび、本当の私を奥へと押し込めていく。そんな美咲の裏で、私はひどく空虚だった。
そんな私の秘密の生活を知っているのは、たった一匹の猫だけだった。土砂降りの日に拾ったその子は、私の家にきてから、私が我慢してきたものをすべて食べた。心に罪悪感が満ちるたび、私は大好きなのに食べられないドーナツや、フライドポテトを猫の皿にのせた。猫が幸せそうに喉を鳴らし、目を細めて頬張る姿を見るたび、私はまるで自分の食欲を満たしているかのように心が安らいだ。「たくさん食べて。私が満たせない分まで、全部」。そう呟く私は、自分が猫に依存していることにも気づかなかった。猫が丸々と太っていくのは、私が自分自身を傷つけずに済むための、目に見える代償だった。お腹がぽってりと膨らんで、まるで「おもち」のようになり、歩くのも億劫そうに丸くなっていた。
ある日、私は猫の動画をSNSに投稿した。「太っちょ猫」として投稿された動画は、瞬く間に大バズりした。「可愛い!」「癒やされる」「おもちみたい」…寄せられるコメントは、モデルとして受ける賛辞とは全く違う、純粋な愛で溢れていた。必死に努力して作り上げた美咲が愛される一方で、この子はただ好きなように食べているだけで、こんなにも愛される。この矛盾が、私の心を深く抉った。
しかし、その皮肉な状況は、突然終わりを告げる。
猫が太りすぎて、呼吸が苦しくなってしまったのだ。獣医から「このままでは命にかかわります」と告げられた瞬間、私は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。愛していると思っていたこの子を、私は自分の弱さで、自分の愚かさで、傷つけていた。自分の自己肯定感の低さが、この子の命を奪おうとしている。その事実に、私は吐き気がするほどの後悔を感じた。愛するものを救うためなら、完璧な仮面を捨てることさえ厭わない。 私の行動の動機は、この瞬間、完全に変わった。
私は、SNSでバズった「太っちょ猫」の、本当の姿を動画で公開することにした。カメラの前で、私は涙を流しながら、震える声で語り始めた。
「この子は、私のせいで太ってしまいました。私が食べたかった分を、この子に食べさせていたんです」。
私は、完璧なモデルの美咲を捨てることへの恐怖と、真実を語る解放感を同時に感じていた。「私自身、完璧なモデルを演じるあまり、食生活が乱れて栄養失調になっていました」。完璧な自分でいるために、私は心も体もボロボロだった。その真実を、私は初めて言葉にした。
その動画は、再び大バズりした。今回は「可愛い」ではなく、「勇気をありがとう」「私も同じでした」「完璧じゃなくてもいいんだと気づかされました」という、共感と感謝のコメントで溢れた。私の告白は、同じように苦しむ多くの人々の心を救った。そして、何よりも私自身の心を救ってくれた。
私と猫は、少しずつ健康を取り戻していった。食卓には、彩り豊かなバランスの取れた食事が並び、猫はかつてのように軽やかに走り回るようになった。私もまた、完璧な美咲の仮面を脱ぎ捨て、ありのままの自分を受け入れることができた。
そして、私は知った。本当に愛されるのは、完璧に作り上げた姿ではなく、弱さも、醜さも、すべてを含んだありのままの自分であることを。
猫は、私の心の鏡だった。私が自分自身を愛することを教えてくれた、唯一無二の存在だった。最後に、私は猫をそっと抱きしめ、囁いた。
「もう、私の分まで食べなくていいんだよ。これからは、二人で一緒に美味しいものを食べようね」
静かな朝、食卓に差し込む朝日が、二人分の温かい朝食を照らしていた。猫は窓辺で、穏やかに喉を鳴らしながら眠っている。
完璧な彼女と、太った猫 Tom Eny @tom_eny
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