無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

第一話:思い通りにならない日

うららかな春だった。

四月という季節を包み込むその光は、どうしてこうも残酷なほどに、万物に対して平等に降り注ぐのだろうか。校舎の窓の外では、まるでこの世のすべての祝福を一身に浴びるために生まれてきたかのように、桜の木々がその生命力を満開の花という形で謳歌していた。風がふわりと吹くたびに、薄紅色の繊細な花びらが惜しげもなく枝を離れ、抜けるように青い空を背景にして、きらきらと光の粒子をまき散らしながら乱舞している。教室の古びた木枠の窓ガラスは、その光を柔らかく濾過しながら、空気中に漂う微細なチョークの粉を無数の黄金色の粒子へと変えていた。その光景は、まるで悠久の時がこの一瞬に凝縮され、永遠に続くかのような静謐な空間を演出していた。


宮沢譲は、そんな光が織りなす繊細な芸術に眩しそうに目を細めながら、手元に広げられた古典の教科書のページをめくるふりをして、その実、意識のすべてを窓の外の光景へと注いでいた。いや、彼の視線の先に捉えられているのは、春の訪れを告げる穏やかな桜並木ではない。そのさらに奥、アスファルトと鋼鉄で塗り固められた、だだっ広い訓練場だ。そこは、平穏な日常とは隔絶された、もう一つの世界の入り口だった。


ズゥゥン、と。地響きにも似た、腹の底を揺さぶるような鈍い衝撃音が、平和な午後の空気を無慈悲に切り裂いた。分厚く、高性能な防音ガラスを隔てているにもかかわらず、その振動は鼓膜の奥、そして身体の芯まではっきりと伝わってくる。譲が凝視するその先、訓練場の中心で、巨大な鋼鉄の腕を無骨に振り回していた模擬怪物の物々しい動きが、まるでコマ送り映像のように、ぴたりと静止した。そのわずか数瞬の後、振り上げられたままだった巨腕は、その根本から綺麗に断ち切られ、派手なオレンジ色の火花を激しく散らしながら地面へと落下し、轟音を立てて数度、巨大な質量を感じさせながらバウンドした。


「――すっげえ……」


教室のどこかで、誰かがごくりと固唾を呑む音が、やけにクリアに聞こえた。おそらく、譲の後ろの席に座る生徒だろう。彼の声には、恐怖よりも純粋な驚嘆と興奮の色が濃く滲んでいた。実際に、教室にいる半数以上の生徒が、譲と同じように、教科書に印刷された退屈な古文の活字を追うよりも、窓の外でリアルタイムで繰り広げられる、この規格外のライブショーに心を奪われていた。教師もそれを半ば黙認している。この光景こそが、この時代における最も雄弁な「現実」の教科書なのだから。


模擬怪物の足元、陽炎のように揺らめくアスファルトの上で、一本の長剣を静かに構えた人影が、ゆっくりと立ち上がる。そのシルエットは、ぎらぎらと照りつける午後の日差しの中で、不思議なほど鮮明に譲の網膜に焼き付いた。

朝倉颯太。

譲にとって、数少ない、そしてかけがえのない、たった二人の幼馴染のうちの一人。そして、かつて人類を滅亡の淵へと追いやった災厄に対抗するために、星そのものが生み出したとされる新人類――『アース』。その選ばれた一人だった。


颯太がまるで払うように剣を軽く振るうと、刀身にまとわりついていた青白いプラズマのようなエネルギーの光が、音もなく霧散する。その立ち姿、その一挙手一投足は、譲が物心ついた頃から自室の壁にポスターを貼り、それこそテープが擦り切れるほどに何度も映像を繰り返し見てきた、地球防衛隊の伝説的な英雄たちの姿、そのものだった。春の光に愛され、天賦の才能に愛され、そしてきっと、この世界の運命そのものに愛されている存在。神がいるとすれば、きっと彼のような人間のことを指すのだろう。


「ねえ、譲」


不意に、ノートの硬い角で脇腹をこつんと、小気味よく突かれた。はっとしてそちらを見れば、隣の席に座る橘陽葵が、分厚い教科書で巧みに口元を隠しながら、悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑っている。


「また見てる。あんたもほんと、颯太の熱烈な追っかけだよねえ」


快活な声で囁く陽葵もまた、譲の幼馴染であり、そして颯太と同じく、類稀なる力を持つ『アース』だった。彼女のその屈託のない笑顔は、いつも春の日差しのように温かく、周囲を明るく照らし出す。だが、不思議なことに、その温かさですら、今の譲の心には少しだけ、ちりちりと焦げるような痛みを伴って染み渡るのだった。


「別に……。追っかけなんかじゃない」と、譲はぶっきらぼうに答えた。「ただ、今日の模擬怪物の装甲パターンが、先週の演習で使われたデータとどう違うのか、破壊された断面からその素材の配合率を分析してただけだ」


口にしてから、我ながらなんて可愛げのない、そして捻くれた返事だろうかと自己嫌悪に陥る。陽葵は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「ふーん、そっ」と興味を失ったように言うと、再び教科書に視線を落とした。その、少しだけ長い睫毛に縁取られた横顔を盗み見ながら、譲は誰にも聞こえないほど小さく、ため息をついた。

決して、今言ったことが嘘というわけではない。彼の頭の中では、今この瞬間も、模擬怪物の損傷箇所、颯太が放った剣戟の侵入角度、切断に要したエネルギーの収束率、模擬怪物が崩れ落ちるまでの重心移動の軌跡、それら全てのデータが瞬時に記録され、恐るべき速度で分析が始まっていた。それは彼の唯一にして最大の特技であり、彼が彼であるためのアイデンティティそのものだった。


だが、彼の心を占める一番大きな感情は、そんな冷徹な理屈や分析とは程遠い場所にある、もっとドロリとした、言葉にし難い何かだった。まるで夜空の星に手を伸ばすような、焦がれるほどの強い憧れと、同時に腹の底で黒く渦を巻く、醜い嫉妬。その二つの、決して交わるはずのない感情がどろどろに混ざり合った、名前のつけようのない何か。その正体を知ることが怖くて、彼はいつも思考の蓋を閉じてしまう。


人生とは、どうしてこうも驚くほどに、自分の思い通りにならないことばかりで出来ているのだろうか。


授業の終わりを告げるチャイムが、解放のファンファーレのように鳴り響くと、教室は一瞬にして緊張から解き放たれ、生徒たちの喧騒に満たされた。教科書を鞄に投げ込む音、椅子を引く音、友人たちと週末の計画を立てる弾んだ声。それらが混ざり合って、活気という名の渦を作り出す。

「譲!陽葵!お疲れ!この後カラオケ行こうぜ!」

訓練の汗もそのままに、息を切らしながら教室に飛び込んできた颯太が、太陽のように眩しい笑顔で大きく手を振った。その声が響いた瞬間、クラスの女子たちが「きゃあ!」と色めき立ち、男子たちは羨望と、そしてほんの少しの諦めが混じった複雑な視線を彼へと向ける。世界の中心とは、きっとこういう人間のことを言うのだろう。彼がそこにいるだけで、空気の色さえも変わってしまうのだ。

「いいね!行こ行こ!ストレス発散したい!」陽葵が軽やかに鞄に教科書を詰め込みながら、振り返ってにっこりと笑う。「譲ももちろん来るでしょ?」

その問いは、譲が頷くことを微塵も疑っていない、あまりにも自然な響きを持っていた。

「……悪い。僕はいいや。この前の模試の復習が、まだ半分も残ってるから」

「えー、またぁ?たまにはいいじゃんか、付き合い悪いなあ、譲は」

颯太が、心底不満だと言わんばかりに口を尖らせる。その屈託のない、何の悪気もない言葉が、まるで目に見えない細い針のように、譲の心をちくりと刺した。

違うんだ、颯太。付き合いが悪いわけじゃない。君たちという眩しすぎる光と同じ空間にいると、僕という存在の影が、どうしようもなく惨めに、そして色濃く浮き彫りになってしまうだけなんだ。

そんな惨めな本音を、この太陽のような親友に、言えるはずもなかった。

「悪いって。また今度誘ってくれよ」

譲は、できるだけ自然に見えるように曖昧に笑って手を振った。すると、颯太も陽葵も、「そっか、じゃあな!」「また明日ね、譲!勉強頑張って!」と、驚くほどあっさりと踵を返す。二人の賑やかで楽しげな声が、廊下の向こうへと遠ざかっていく。あっという間に、喧騒の渦は去り、教室には譲一人だけが、まるで置き去りにされたようにぽつんと取り残された。


がらんとした静寂が支配する教室に、傾き始めた太陽の光が、長く、長く差し込んでいた。机や椅子が落とす影が、まるで生き物のように床の上でゆっくりとその形を変えながら伸びていく。空気中を気ままに舞う埃が、夕日のスポットライトを浴びて、まるで銀河の星々のようにきらきらと輝いては、ふっと闇の中に消えて見えなくなった。

静かだった。あまりにも静かすぎて、自分の心臓の鼓動だけが、ドクン、ドクンとやけに大きく耳の奥で響いている。

譲はゆっくりと立ち上がり、吸い寄せられるように窓際に歩み寄った。訓練場では、すでに数人の整備員たちが後片付けを始めており、その姿が小さく見えた。先ほど颯太によって破壊された模擬怪物の巨大な残骸が、大型のクレーンで無機質に吊り上げられていく。

颯太が振るった、たった一撃。

その至高の一撃を生み出すために、どれだけ多くの人間が裏で働き、どれだけの膨大な科学理論が積み上げられ、そして、どれだけの天文学的な国家予算が投じられているのだろう。そんな、誰も気にしないようなことを真っ先に考えてしまうのが、自分のどうしようもない思考の癖だった。そして、その裏方の一つにすらなれない自分の無力さを、同時に噛み締めることになるのだ。


自室に戻っても、その止めどない思考は、まるで脳にこびりついたガムのように、しつこく彼を苛み続けた。

六畳一間。必要最低限の家具しか置かれていない、殺風景な部屋。ただ、壁の一面だけが、この部屋の主の内心を吐露するかのように、地球防衛隊の英雄たちの活躍を切り取ったポスターで埋め尽くされていた。躍動する強化スーツを纏った肉体、ほとばしるエネルギーの閃光、絶望的な戦況の中にあっても希望を失わない、力強い眼差し。

それら熱狂的な憧れの対象とはあまりにも対照的に、勉強机の上は、冷徹な現実を突きつけるかのように静まり返っていた。そこに並べて置かれた二枚の紙が、宮沢譲という一人の人間を、残酷なまでに完璧に物語っていた。

一枚は、先日返却されたばかりの全国統一模試の結果通知。偏差値82、総合評価S、そして順位の欄には、誇らしげに『全国一位』の文字がインクでくっきりと印字されている。それは、彼の血の滲むような努力と、天から与えられた論理的思考能力の結晶だった。

そしてもう一枚は、無造作に扱われたせいで端がくしゃくしゃになった、先月の体力測定の記録用紙。50メートル走、9.8秒。反復横跳び、35回。握力、右32キロ、左30キロ。全ての項目が、同年代の男子の平均を大きく下回っている。そして総合評価の欄には、無慈悲な赤いインクで押された『E』のハンコが、まるで嘲笑うかのように彼の現実を断罪していた。

去年の悪夢のような測定日の光景が、昨日のことのように蘇る。反復横跳びでは、焦るあまりに自分の足がもつれて、引かれたはずの白いラインが視界から消え、挙句の果てには計測していた体育教官の足を踏んづけて派手に転倒した。五十メートル走では、スターターピストルの乾いた音に驚いてコンマ数秒も出遅れ、必死に腕を振って走ったつもりが、隣のコースを軽やかに走っていた女子生徒に、信じられないほどの大差をつけられた。グラウンドに響き渡った、悪意のない、だからこそ残酷な爆笑の渦。あれはきっと、地獄という場所の予行演習だったに違いない。

譲は机の上の、全く性質の異なる二枚の紙を、指先で交互に、そっと撫でた。

どれだけ知識を脳に詰め込んでも、どれだけ複雑な数式を解き明かし、完璧な理論を構築しても、この情けないほどに脆弱な身体は、指一本、僕の理想通りには動いてくれない。どれだけ強く、強く願っても、喉から手が出るほど焦がれても、決して手に入らないものが、この世界には存在する。

僕の頭の中では、颯太よりも遥かに効率的に、ほんの数センチの最小限の動きで模擬怪物の動力核を完璧に破壊する、何百通りものシミュレーションが瞬時に完了しているというのに。その描いた理想を実行に移すための、たった一つの才能が、僕には致命的なまでに与えられなかった。

人生は、驚くほどままならない。

このどうしようもない無力感と閉塞感の正体は、一体何なのだろう。それはまるで、生まれた時から身体の表面にずっとまとわりついている、粘り気の強い、透明な膜のようだった。自由になろうともがけばもがくほど、その膜は強く、強く身体に食い込み、締め付けられて息が苦しくなっていく。


「ただいま」

リビングのドアを開けると、熱せられた油と醤油の香ばしい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。今日の夕食は野菜炒めらしい。テレビでは、いつもの夜のニュース番組が、今日の怪物出現情報と、それに対する地球防衛隊の目覚ましい活躍を、少しばかり興奮気味のキャスターの声で伝えていた。

『本日午後2時頃、第7地区の廃工場地帯に出現した害獣指定怪物『グラング』は、地球防衛隊第3部隊の迅速な対応により、出現からわずか15分で完全に討伐されました。この戦闘による市民への被害は報告されていません』

画面には、崩れた瓦礫の山の上で、疲労の色も見せずに親指を立ててにこやかに笑う隊員たちの姿が映し出される。彼らがその身に纏う物々しい強化スーツ、その手に握られた巨大なプラズマ兵器。それらは全て、かつて人類を滅亡寸前にまで追い込んだ怪物たちの身体組織を解析し、その強大な力を皮肉にも人類の兵器へと転用したものだ。人類は、自らを喰らうはずだった敵の力を利用することで、かろうじてこの星の上での生存権を維持しているに過ぎなかった。

「おかえり。また一位だったんだってな、譲。陽葵ちゃんのお母さんからさっき電話で聞いたぞ」

キッチンで中華鍋を豪快に振るいながら、父の武雄が背中越しに言った。武雄は、かつて地球防衛隊の兵器開発部に所属していた、腕利きの元整備士だ。今は町の小さな工場で、その卓越した技術を活かして働いている。

「……別に、大したことじゃないよ。ただの数字だ」

「謙遜するな。お前のその妙に理屈っぽい頭は、間違いなくお袋の遺伝だな。俺なんかは昔から、そういうのはからっきしだったからな」

武雄はそう言って、ガハハと飾り気なく豪快に笑った。譲がまだ幼い頃に病気で亡くなった母は、大学で遺伝子工学を研究する優秀な学者だったと聞いている。

「なあ、親父」

譲は、テレビ画面に映る英雄たちの勇姿から目を離さないまま、ずっと胸の内にあった問いを口にした。

「僕も、いつか、ああなれるかな」

その問いに、武雄は中華鍋を振るう手をぴたりと止めた。ジュウウ、という野菜が炒まる音だけが、気まずい沈黙の中でやけに大きく響き渡る。しばらくの間の後、彼はゆっくりと、まるで重い扉を開けるかのように振り返った。その顔には、いつものような笑顔はなかった。

「無理だろうな」

あまりにも、率直すぎる答えだった。一切の遠慮も、慰めも、気休めも含まれていない、ぐうの音も出ないほどに、まっすぐな事実の刃だった。譲の胸の奥が、ずきりと鋭く痛んだ。

「……だよな。分かってる」

自嘲気味に呟いて、力なく食卓の椅子に腰を下ろした。武雄は、出来上がった野菜炒めを大皿に盛り付けると、そんな譲の向かいにどかりと腰を下ろし、慣れた手つきでタバコに火をつけた。紫色の煙が、ゆっくりと天井に吸い込まれていく。

「いいか、譲。勘違いするな。俺は、お前が英雄になれないと言っただけだ」

武雄は、テレビ画面を顎でしゃくった。そこでは、インタビューに答える颯爽とした隊員の姿が映っている。

「ああやって、一番目立つ最前線で銃を撃つだけが戦いじゃない。その最新鋭の銃に、間違いのない弾を込める奴がいる。戦闘でぶっ壊れた銃を、徹夜で油にまみれて直す奴がいる。後方の司令室で、何千もの敵の動きを分析して、たった一つの活路を見つけ出す奴がいる。戦いが終わった後、誰も見向きもしない瓦礫の山を片付けて、疲れた英雄様たちのために飯を作る奴がいる。そういう、テレビ画面にゃ決して映ることのない、何万、何十万ていう連中がいるからこそ、英雄様は英雄様でいられるんだ」

「…………」

「頭でっかちで、運動音痴で、ひねくれ者のお前さんには、お前さんにしかできない戦い方が、きっとあるさ」

その言葉は、優しい慰めでも、甘い気休めでもなかった。ただ、武雄という一人の男が、長年、硝煙と油の匂いが染みついた現場で見てきた、揺るぎない事実の匂いがした。

譲の心に、生まれた時からずっとまとわりついていた、あの透明で粘着質な膜が、ほんの少しだけ、緩んだような気がした。


その夜、譲は久しぶりに、自分の机の一番奥の引き出しに、まるで忌まわしい過去のようにしまい込んでいたものを取り出した。

一枚の、折り目のついた書類。

『地球防衛隊 養成所 入学願書』

颯太と陽葵が、中学二年の冬、ほとんど同時に『アース』の能力に目覚めたあの日。自分だけが、たった一人、違う世界の住人になってしまったような焦りと孤独感から、半ば自暴自棄になって勢いで取り寄せたものだ。結局、自分の無力さを改めて数字で突きつけられるのが怖くて、ずっとこの引き出しの奥底に封印していた。

テレビに映るような、華々しい英雄にはなれない。

父の言葉が、頭の中で何度も反響する。

そうだ。僕は、颯太にはなれない。それはもう、どうしたって覆すことのできない、この世界の法則のようなものだ。

じゃあ、諦めるのか? 憧れることすら、やめてしまうのか?

違う。

父は言った。「お前さんにしかできない戦い方が、きっとある」と。

ならば、それを見つけ出すしかないじゃないか。たとえそれが、英雄とは程遠い、泥臭くて、地味で、誰にも褒められることのない役割だったとしても。そこに、僕が僕であるための意味があるのなら。

譲は、ペン立てから一本のボールペンを抜き取った。カチリ、と小さな音を立ててキャップを外し、冷たいペン先を、願書の白い紙の上に置く。しばらくの間、彼の指は、期待と恐怖で微かに震えていた。

しかし、やがてその震えはぴたりと止まった。

彼は、願書の「所属希望部隊」という欄に、迷いを断ち切るように、力強くペンを走らせた。

誰もが予想するであろう、事務部隊でも、整備部隊でも、補給部隊でもない。

誰もが、一般枠である非力な彼が選ぶとは夢にも思わないであろう、その四文字。


『討伐部隊』


黒いインクが、ほんの少しだけ、決意の重さに滲んだ。

譲は、その四文字を、まるで自分自身に消えない誓いを立てるかのように、さらに強く、強く、丸で囲んだ。


窓の外は、すっかり深い夜の闇に包まれていた。部屋の白い蛍光灯だけが、彼の小さな、しかし燃えるような決意を秘めたその願書を、白々と照らし出している。

思い通りにならない人生。ままならない世界。

ならば、この手で、この頭脳で、運命をねじ曲げてみせる。

僕が、宮沢譲が、僕であるための本当の戦いは、まだ始まったばかりだ。

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