百合の檻

紀伊辺ノ海

邂逅

第1話

聖グレイス学園の朝は、静寂と優雅さに包まれている。名門女子校として名高いこの学び舎では、生徒たちが整然とした足取りで校門をくぐり、廊下には規律正しい空気が流れていた。

 そんな中、桐嶋鈴華は生徒会室の窓際に立ち、校庭を見下ろしていた。


「おはようございます、副会長」



背後から届いた声に振り向くと、書記の蒔田凛が微笑んでいた。

 鈴華は軽く会釈しながら、椅子に腰を下ろした。


「おはよう、凛。今日の予定は?」

「特に大きな予定はありませんが……。あ、そういえば、また九条家のお嬢様が——」


 その瞬間、遠くからかすかに響く怒鳴り声が聞こえた。



——「九条さん、あんた調子に乗ってるんじゃないの?」


 鈴華の眉がわずかに動いた。


 窓の外を見下ろすと、中庭の隅に数人の女生徒が集まり、その中心に九条薫子の姿があった。


 銀糸のような髪、陶器のように白い肌、そしてどこか憂いを帯びた瞳——学園でも屈指の美貌を誇る彼女は、周囲の生徒たちに囲まれながらも、一切の感情を見せずに佇んでいた。


 その姿を見た瞬間、鈴華の中で微かな違和感が生まれた。


 彼女はただ、いじめられているだけではない。

 まるで、この状況すらもどこか冷めた目で眺めているようだった。


—助けるべきだろうか。


 鈴華が立ち上がると、凛が驚いたように顔を上げた。


「副会長?」


 鈴華はそれに答えず、静かに生徒会室を後にした。



中庭に足を踏み入れると、微かな風が鈴華の髪を揺らした。

 囲んでいた女生徒たちは誰も鈴華の存在に気づいておらず、ただ薫子を責め立てる声だけが響いている。


「九条家のお嬢様だからって、そんなに偉いと思ってるの?」

「いつも澄ました顔して、人を見下してるくせに」

「ちょっとは反省したら?」


 しかし、そんな言葉を浴びせられているにもかかわらず、薫子は微動だにせず、ただ淡々と相手を見つめていた。

 まるで、これが自分には関係のない出来事であるかのように。


鈴華は軽く息をつくと、一歩踏み出した。


「——随分と楽しそうね」


 静かな声が響いた瞬間、少女たちはハッとしたように振り返った。

 そこにいたのは、生徒会副会長・桐嶋鈴華。

 凛とした佇まいと鋭い視線が、場の空気を一瞬で変えた。


「副会長……?」

「え、なんで……?」


 鈴華はそのまま薫子の隣へと歩み寄る。

 至近距離で見る彼女の表情は、やはり無機質なまでに冷たい。



「九条さん、大丈夫?」


 そう声をかけると、薫子はゆっくりと鈴華を見上げた。

 その双眸に、ほんの一瞬だけ光が宿る。


 ——ああ、綺麗だ。


 鈴華は思わずそう思った。

 まるで夜闇に沈む湖のように、深く澄んでいるのに、どこか危うさを孕んでいる瞳だった。


「……ええ、大丈夫ですわ」


 薫子が穏やかに微笑むと、周囲の女生徒たちが戸惑ったように視線を交わす。


「な、なんで副会長が……」

「九条さんが何をしたか、知らないんですか?」


 鈴華は彼女たちを一瞥すると、冷静な口調で告げた。


「理由が何であれ、数人がかりで責めるのは感心しないわね」



少女たちは言葉を詰まらせる。


「それとも——この出来事を生徒会に正式に報告しようか?」


 その一言で、彼女たちは動揺し、互いに顔を見合わせた。

 しばらくの沈黙の後、一人が小さく舌打ちをする。


「……行こ」


 不満そうな顔をしながらも、彼女たちは次々とその場を離れていった。


 やがて静寂が訪れる。

 薫子と鈴華、二人だけの時間。


「助けてくださったのね?」


 鈴華が薫子を見ると、彼女は柔らかく微笑んでいた。



「別に、そんなつもりはなかったけれど」


「ふふ……」


 その時だった。

 突然、薫子がそっと鈴華の手を握った。


 その指先は氷のように冷たい。


「あなたって、本当に優しいのね」


 ふわりと香る薫子の匂い。

 胸の奥が、なぜかざわめいた。


 この時、鈴華はまだ知らなかった。

 この出会いが、自分の運命を大きく狂わせることになるなんて——。




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