花天月地【第89話 戦人の本能】

七海ポルカ

第1話





 やはり、見張りの兵がたくさんいた。

 

黄巌こうがんさんの具合を見に来たのですが」


 陸議りくぎがやって来ると、彼が司馬懿しばいの副官だと知っている兵達は快くどうぞと通してくれた。

 部屋を少し覗けば、寝台に寝転がって外の雪を見ていた黄巌が気付く。


「陸議君」


「黄巌さん、こんにちは。傷の具合いかがでしょうか。寝ていらっしゃるようだったら、重要な用事があったわけではないので帰ろうと思ってたんですが……」


 陸議がそう言うと、慌てて黄巌が身を起こそうとした。


「ダメダメ、帰らないで! 退屈で死にそうなんだ。話し相手になって! いててて!」


「急に動いてはいけません!」


 部屋の中で薬を作っていたらしい軍医が怒った声を出して注意した。


「いつも彼に怒られてる」


 陸議が急いで痛がった黄巌の側に寄って、落ち着かせる。


「どれほど自分が重傷だと思っているのですか。普通の人間は動けと言われても動けないものなんです」

「はいはい分かりました! 動いてすみませんでした」

「全く……」

 軍医はやれやれという感じで薬をすり潰す作業を再開した。


「来てくれて良かったよ。

 陸議君、腕を怪我したって聞いたけど、君は大丈夫なの?」

「はい」


 陸議の完全に力を入れず、垂らしたままの片腕を黄巌こうがんは気遣った。


「まだようやく包帯に血が付かなくなった感じなので動かせないのですが、でも少しだけ指先が動くんです」

「本当だ」


 垂らしたまま少しだけ指先を動かすと、それを見た黄巌が表情を輝かせる。


「指先が動くなら、腱が切れてるわけではないんじゃないかって軍医の方や徐庶さんや叔達しゅくたつ殿も言って下さってます。とにかく皮膚が完全に塞がるまではこれ以上は動かせないんですが、少し希望が見えました。完全に隻腕になることも覚悟していたので」


「そうか。でもきっとそうだよ。指先が動くなら腕もきっと大丈夫」

「ありがとうございます」

「腕はまだ力が入らないんだね」

「入れないようにしてます。最初の頃は、どうしても動かすつもりは無くても力が少し入るだけでも激痛が走ったので、もうそうならないよう身体が警戒して、力を全く入れなくなりました。今もちょっと寝返り打ったりするときも嫌な感じがすることがあるので……とにかく左腕は動かさないようにしています」


「そうか……。でも瀉血をしなければ君の命が危ないくらいの毒だったんだろ?」

「はい。なので、覚悟はしていたんですが……わっ!」


 突然ひょこ! と黄巌の頭の上に顔を出したので、陸議は驚いた。栗鼠りすだ。


「暇だったから麦の粒やってたら懐いちゃった」

 一瞬は驚いたが、すぐに陸議は笑った。

「可愛いですね。ジッとしてる」

「黄巌さんは窓の外に麦を蒔いて鳥も手懐けようとするので、陸議様も注意して下さい。何でもかんでも部屋の中に入って来る」

 軍医が嫌そうに言った。

「可愛いのに……」

 黄巌こうがんが唇を尖らせている。

「そのうちクマとかも寄ってきますよ!」


 随分長い間黄巌の頭に止まって顔の毛繕いをしていた栗鼠がようやく素早く下りていって、窓から出て行った。


「ああやって出て行くのにまた来るんだあいつ」


「黄巌さんは動物がお好きなんですね」

「ははっ。人間みたいに小難しいこと言ってこないからね。可愛いよ動物は」

「涼州の人は老若男女皆さん馬に乗れるって本当ですか?」

「ほんと」

 黄巌が片目を閉じて笑った。

「チビからばーちゃんまでみーんな乗れるよ」

「そう聞いてたけど本当なんだ」

 黄巌と陸議が話していると、軍医は桶を持って少し部屋を出て行った。


「陸議君、このところ元直げんちょくが全く姿見せないんだけど、なんか仕事を頼まれてるのかな」


 謹慎中だと言うと心配させそうだったので、陸議は頷いた。

「そうなんです。少し今手が離せなくて……でも黄巌さんの容態の心配はとてもしていました。だから私が見に来たんです」

 陸議は話しながら袖の中から小さく畳んだ紙を手の平に取り出して、黄巌に見せた。

 それから、それを寝台の間にそっと挟む。

徐庶じょしょさんからです。あとで、一人で読んでください」

 小さい声で言った。

 黄巌は目を瞬かせてから、分かったと頷く。


「俺の気のせいかもしれないんだけど、なんか最近部屋の外に人が増えた気がするんだ。

 俺なんかを警備しても何の得も無いから、他の誰かのためかなと思ってるんだけど……」


「涼州騎馬隊の龐徳ほうとく将軍がこの砦にいらっしゃってるんです」


「えっ」

「ご存知ですか」

「勿論。涼州の民はみんな彼を知ってるよ。長い間魏との防衛線を守ってくれた将軍だからね。彼は捕虜になったの?」

「捕虜とはまた違うのですが……あの……少し話が込み入ってしまうんですが構いませんか?」

「時間が余って泣きそうだから全然大歓迎だよ」

 黄巌こうがんが嬉しそうに頷いたので、陸議は龐徳と張遼ちょうりょうの一騎討ちの話を最初から聞かせてやった。彼は龐徳を知っていたので最初は心配そうだったが、話を聞くうちに表情は穏やかになっていった。


「そうか……張遼将軍と言えば、魏軍随一と言われる武将だから、どんな人かなと思っていたけど。そんな一面もあるんだね」


 自分に対しても礼節を持って話してくれていたと思い出し、龐徳ほうとくが討たれなかったことに少し安心した。


「張遼将軍は目を覚まされたんだね」

「はい。私を看てくださった軍医も、もう危険な状態は過ぎたと言っていました」

「魏軍が涼州を侵攻すれば、張遼将軍が軍を率いて来る可能性だってあるんだろうけど……。でも、一人で打って出て来た龐徳将軍を殺さないでいてくれて、涼州の者として感謝してるよ。目を覚まされて本当に良かった。

 張遼将軍に何かあったら……龐徳殿は自刃したんじゃないかな」


「そう……思われますか?」


「うん……。とても誇り高い人だと聞いてるからね」


 黄巌こうがんは何かを考えているようだ。

 

 彼が本当に【馬岱ばたい】なら、龐徳とも顔見知りなのだろうか。

 馬超ばちょうは涼州連合の長だったはずだから、その従弟いとこで一時でも行動を共にしていたならその可能性はある。

 

 馬超。


 同じ戦場にはいたのだが、陸議は馬超には会ったことはない。

 だが戦場にはいた。

 赤壁せきへきで呉軍が夏口かこうに上陸したあと、敗走し始めた魏軍を蜀の手勢として追撃したのが馬超の部隊だった。

 諸葛亮しょかつりょうあらかじめ、孫呉の火計が成ることを想定し、埋伏させていたのだ。

 あとは額面通りの、長く曹魏と戦っていた涼州の武将で非常に優れた騎馬将であり、まだ二十代半ばの青年だが、頑強な精神と類い稀な覇気を持っていると聞いたことがある。


 黄巌の従兄なら、少し似ているのだろうかと思うのだが、黄巌はどちらかというと人懐っこくよく笑い、気さくで、戦人というよりは涼州の民の方にずっと近い。

 争いを好まない性格だと徐庶が言っていたが、それが原因で馬超の側を離れたと聞いた。 


元直げんちょくは大丈夫かなあ」


 黄巌がぼやいた。


「君も軍人には見えない人だけどね……何をさせてもしっかりしてるのは分かるから。

 元直も、山登りとか野駆けとか、野草採りとか釣りとか包丁さばきとかなら器用でなかなか頼りになる奴なんだけどさ……。

 軍隊っていうのは規律が大事だろ? 堅苦しい規律の中で最大の成果を上げることが必要な軍隊行動とか、軍師ってのはどうもあいつには合ってない感じがして、なんか失敗やらかしてないか心配だよ……」


「そうなんですか? 徐庶じょしょさんは黙々となんでもこなされるので、規律行動にも慣れていらっしゃるのかと」


「いや。あいつは今の今まで仕官したことは無いから規律には慣れてないよ。まあ五年ばかり役人に追われていたらしいから、身を慎む行動は骨の髄まで染みてるらしいけどね。だけど本当のあいつは規律に縛られるのが苦手なんだよ」


 ふと、陸議りくぎは小首を傾げた。


「徐庶さんは……確か今二十五歳って仰ってましたよね……そんなに長い間役人に追われていたんですか? それでは……その事件自体は……」


「俺も詳しくは聞いてないんだけどね。でも十代の時のことだよ」


「知りませんでした……そんなにお若い頃のことだとは」

「あいつ親元離れたのも子供の頃って聞いたよ」

「そういえばこの前お会いした徐庶さんの母君が、徐庶さんの言葉遣いや文字を書けることにとても驚いてらっしゃいました」

 黄巌こうがんがへえ、という顔をする。

「陸議君は元直のお母さんに会ったんだね。俺はまだ会ったこと無いんだよ」

「会ったというか……私が勝手に転がり込んだというか……」

「?」


 今でも思い出すと、徐庶の母に会った経緯が気恥ずかしかったのだが、陸議は行軍初日に発熱し、それを隠そうとしたのだが徐庶に気付かれて、陣で休みたくないと自分が駄々をこねたのでたまたま近くに通り掛かっていた洛陽らくようの、徐庶の母の家に匿ってもらったのだということを説明した。


 黄巌は目を丸くしてから声を出して笑い、いててて! と懲りずに腹を抱えて痛がった。

 陸議は慌てて背中を擦って、落ち着かせる。

「いや、大丈夫」

「あまり動いては駄目です」

「分かってるんだけど面白いと絶対笑っちゃうから仕方ないよ」

 あの厳しそうな軍医が場を外していて良かったと陸議は思う。


「でもそうか……君でもそういうところがあるんだね。意地を張るというか……。

 気持ちは分かるけど、病気ばかりはしょうがないよ。君の能力に目を掛けてる人ならそんなことで君を見限ったりしない」

 

 司馬懿しばいの前では、魏に来てからずっと伏せっていた。

 陸議の軍人としての能力を買ってこの国に連れて来た司馬懿にとっては、途端に軍人として使えなくなった失望するようなことばかりだったと思うのに、司馬懿は全くそういう素振りを見せていない。


 それが陸議は不思議だった。


 ただ司馬懿とは深い信頼関係で結ばれているわけではないから、何があっても庇って貰えると思えるほど傲慢にはなれない。

 今までは寛容に全てを許して来たがある時、些細なことで司馬懿は陸議を見捨てる可能性は充分にある。そもそもそうでない方が不思議なのだから。


 そういう不安は常にある。


 呉では、後になって分かったことだが――未熟だった頃の陸議を、多くの人が成長を見守るつもりで支えてくれていた。


 それは名門陸家の当主を留め置くことで、元々は孫家に敵対していた陸家を帰順させることが出来るというそういう意図はあったと思うけれど、それだけだったらあれほど最初から呂蒙りょもう周瑜しゅうゆの側で学ばせて貰えるようなことはなかったと思う。


 程よく近くに置き、別の人間の側で学ばせれば良かったのだから。


 どちらかというと今は、陸康りくこう亡き後、陸家の当主となったあの頃抱えていた不安に似ている。


 あの頃も自分は陸績りくせきが成長するまでの仮の当主であることは分かっていたから、奔走しながらも、何か大きな落ち度があれば自分は容易くすげ替えられると思っていた。

 今なら例えすげ替えられてもただ陸績を守り、支える存在であればそれでいいのだからと思えるのだが、当時は陸康から託された当主の座を失えば、陸康の期待も裏切り、自分に存在理由が何も無くなる気がしていたのだ。それが怖かった。


 しかも孫家に帰順することで陸家の人間達とは溝があったため、いつも自分の一挙一動を監視されているような気持ちがあった。立派でなければ捨てられると。

 確かに陸議が自分の立ち振る舞いを気に懸けるようになった根本は、あの孤独だった時代にある。

 

 司馬懿に対して決して弱さを見せられないと思うのは、あの頃の心境に似ていた。


「どうでもいい人や日常のことなら。つまらない意地は張りませんが……。

 ……黄巌こうがんさんは、そういうことありませんか?」


 別に何も深く考えず、その時の話の流れとして陸議は尋ねてみる。


「俺はそういうのは」


 笑いながら明るく答えようとして、黄巌は言葉を止める。


「……いや。俺も……本当に大切な人の前では、そういう気持ちは起こるよ」


 陸議は黄巌を見た。

 彼は微笑む。


「大切な人には笑っていてほしいし、自分は強い、完璧な人間だと思われたいからね」


「あ……、えと……そういえば、黄巌さんのご実家は臨羌りんきょうと聞いたのですが、徐庶さんはどこの出身の方なのでしょうか?」

「なんだ。元直げんちょくのやつ、陸議君にこんなにお世話になってるのにそんなことも話してないの?」

 呆れたように言っている。

「早くに家を出られてたと聞いたので、なんとなくそのままに」

「まあ確かにあいつはどこの出身でもないみたいな所あるけどね。

 元直は豫州よしゅう潁川えいせん長社ちょうしゃ出身だよ」


「では……許都きょとの近くですか?」


「うん。都に近いって言っても、あいつの故郷は山間の小さな田舎の村だったみたいだけどね」


「知りませんでした」


 そんなに魏の都に近かったとは。 


「でも本当に子供の頃にあいつは家を出てる。しかも母親をほぼ捨てて一度も連絡しなかったっていうから相当な覚悟だと思う。

 それからは恐らくその辺りには近づかなかったんじゃないかな。

 他の地にいたんだと思うよ。

 前に、そんなに都に近かったら董卓とうたく呂布りょふの脅威に晒されたんじゃないかって聞いたことがあったけど。あいつ、近くにいなかったから董卓も呂布も縁が無かったみたいなことを言ってたし」


「呉にも行ったことが無いと仰ってました」


「そうか。なら、中原ちゅうげんあたりをウロウロしてたのかなあ。

 あいつよくわかんないんだよね。何してたのか。

 仕官もせずフラフラしてたって言ってたけど、案外俺みたいに護衛とか運び屋とかしてたのかもなあ。役人に追われるに至った経緯、誰かを殺しちゃったらしいんだけど、そういう仕事は金銭の報酬で揉めたりすることも多いから。

 俺は涼州の知り合い相手の商いだったから揉めたことはないけどね。

 他人を相手にするといざ仕事を遂行しても、目的地に辿り着いたら報酬を割り引かれたり、払ってくれなかったりする悪質なのもいるんだよ。

 そんなことになった時は、力業でも報酬をもらったり説得しなきゃならない。

 想像出来る? 元直げんちょくが相手の胸倉掴んで金をちゃんと寄越せとか脅してる姿」


 陸議は慌てて首を横に振った。


「だよねぇ。俺も全く想像出来ない」


 想像したのか黄巌こうがんがおかしそうに笑ってる。

「もしかしたら何人かでそういう仕事をやっていて、そういうのは別の人間の役目だったのかもね。悲しいかな、金が関わると仲間でも揉めたりするから……」


 いずれにせよ苦労しそうだ。

 徐庶じょしょからは、何かあまり過去を語りたくないような気配は見えるけれど、苦労を重ねて来たような感じはそんなに見受けられない。どちらかと一人旅をしていたというから気ままにのんびりしているような印象があった。もしかしたらそうではないのかもしれない。


「俺も知ってるのはその程度だよ。いつかまた元直と飲むようなことがあれば、聞いてみたらいい。君のことは元直げんちょくは信頼してる。きっと少しずつ話すよ」


 陸議は驚いた顔をした。


「いえ……私は別に……」


「でも元直はさっきの手紙も君にここへ持ってくるように託したんでしょ?

 珍しいよ。あいつはそういうの、他人に任せることはすごく少ないんだ」



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