第30話

エルフの森の都への旅立ちは、コリコの町にとって祭りのような賑わいの中で行われた。

私たちの乗る馬車は、ボルギンさんが頑丈なだけでなく乗り心地も良いようにと特別に改良してくれたものだ。

中には心を込めて焼いたたくさんのパンと、町のみんなが持たせてくれた保存食や旅の道具がぎっしりと積み込まれている。


「ユイさん、気をつけてね! エルフの都の素敵な刺繍、お土産に買ってきてちょうだい!」

「ボルギン! エルフの建築にケチばっかりつけて、喧嘩するんじゃないぞ!」

「ルゥフ殿、エララ殿の故郷、心ゆくまで楽しんでくだされ」


町の入り口には、見送りのためにたくさんの仲間たちが集まってくれていた。

その温かい声援を背に、私たちは緑豊かな丘を越え、まだ見ぬエルフの森の都「エリアドール」へと向かう。

馬車の中は、エララさんが語る故郷の話で常に期待に満ちていた。


「エリアドールの建物はね、木を切って作るんじゃないの。生きたままの巨木に、エルフの魔法で語りかけて少しずつ住みやすい形に変えていくのよ」

「まあ、生きているお家なんですね!」

「そう。だから壁に耳を澄ますと、時々、木の鼓動が聞こえるの。夜になると『月光花』と同じように、自ら光を放つ『星降り草』という植物が街灯代わりになって、都全体を優しく照らすのよ」


エララさんの話を聞いているだけで、私たちの頭の中にはおとぎ話のような美しい都の光景が広がっていく。

ボルギンさんは「ふん、生きた木だと? 強度は大丈夫なのか」とぶっきらぼうに言いながらも、その目は職人としての好奇心で輝いていた。

フェンウィック先生は、エララさんの話に出てくる植物の名前を熱心に羊皮紙に書き留めている。

ルゥフさんは黙って手綱を握りながらも、その尖った耳はエララさんの話を楽しそうに聞いていた。


数日間の穏やかな旅の後、私たちはついにエルフの森の入り口へとたどり着いた。

森の空気はコリコの森とは明らかに違っていた。

どこまでも清らかで澄み渡っていて、深呼吸をするだけで体の中が浄化されていくようだ。

森の入り口では、フィン様からの知らせを受けていたのだろう、数人のエルフの案内役が私たちを静かに出迎えてくれた。


「ようこそ、陽光の谷の友人たちよ。エリアドールは、皆様を心より歓迎いたします」


彼らに導かれ、私たちは森の奥深くへと足を踏み入れた。

しばらく進んだ先で、目の前に信じられないほど幻想的な光景が広がった。

それが、エルフの森の都、エリアドールだった。


「わあ……!」


思わずその場にいた全員から感嘆のため息が漏れた。

都は天を突くほど巨大な何本もの巨木の上や、その枝と枝の間に築かれている。

建物はエララさんの言った通り、生きた木々そのものが優雅な曲線を描いて家や塔の形を成していた。

その間を植物の蔓で編まれた、しなやかで美しい吊り橋がいくつも結んでいる。

地面を流れる小川の水は水晶のように透き通り、水辺には色とりどりの光る苔や花々が咲き乱れていた。

空気中には常に竪琴のような優しい音楽が流れているようだ。それは風が木々の葉を揺らす音と、鳥たちのさえずりが完璧に調和して生まれる自然の音楽なのだろう。


自然と文明が、これほどまでに美しく調和した場所がこの世に存在するなんて。


「す……げえ……。こいつは、ドワーフの建築とは全く違う理屈で成り立ってやがる……」

ボルギンさんが呆然と呟く。

「なんと……! この植物たちは、古文書でしか見たことのない伝説級のものばかりですぞ……!」

フェンウィント先生は興奮で目を輝かせ、その場で植物のスケッチを始めてしまいそうな勢いだ。


私たちはフィン様をはじめ、たくさんのエルフたちに盛大な歓迎を受けた。

彼らは皆、驚くほど美しく物腰が柔らかで、私たちを大切な客人として温かくもてなしてくれた。

そしてその日の午後から、楽しみにしていた夏祭りが始まった。


都の中心にある一番大きな広場に、私たち一行は案内された。

そこではエルフの音楽家たちが、木の洞をそのまま使ったような楽器で心を癒やす美しい音楽を奏でている。

その音楽に合わせて若いエルフたちが、まるで風と戯れるように優雅でしなやかな踊りを披露していた。

動きの一つ一つが、洗練された芸術のようだった。


「さあ、遠来の客人たちよ。まずは、我らの森の恵みを心ゆくまで味わってほしい」


フィン様がにこやかに言うと、私たちの前には見たこともないような美しくて美味しそうな料理が次々と運ばれてきた。

大きな木の葉を皿代わりにして、色とりどりの花や果物で飾られた料理はそれ自体が一つの芸術品のようだ。


「こちらは、朝露で洗った若葉と、光る木の実のサラダです。ドレッシングには、歌い樹の樹液を」

「こちらは、水晶茸のグリル。清らかな泉の水で育った茸でございます」

「このスープは、百種類の花の蜜を煮詰めて作りました。飲むと、心が安らぎますよ」


一つ一つの料理に、エルフたちの自然への感謝と客人へのおもてなしの心がたっぷりと込められているのがわかった。

その味わいは驚くほど繊細で清らかだった。

コリコの町の素朴で力強い料理とは全く違う美味しさだ。

素材そのものが持つ優しい生命力を、そのままいただいているような感覚。


「美味い……! こんなに上品な味は、生まれて初めてだ……!」

ボルギンさんも普段の無骨さはどこへやら、目を丸くしてエルフ料理を堪能している。


私たちは夢のような時間の中で、エルフたちの心のこもったもてなしを心ゆくまで楽しんだ。

日が少し傾き始めた頃、今度は私たちがお返しをする番がやってきた。

私はボルギンさんが作ってくれた特製のパン運び用の箱から、心を込めて焼いてきたコリコのパンを大きなテーブルの上に並べていく。


「皆様、こちらは私たちの住むコリコの町の、太陽と大地の恵みが詰まったパンです。どうぞ、召し上がってください!」


テーブルの上には、私の店の看板商品である「陽だまりロール」、ナッツとドライフルーツがぎっしり詰まった「勇気のライ麦パン」、そして春の畑で採れた色とりどりの野菜を練り込んだフォカッチャが湯気を立てて並んでいる。

繊細な料理に慣れたエルフたちは、その素朴で少し不格好にも見えるパンを興味深そうに眺めていた。


フィン様が最初に「陽だまりロール」を手に取り、そっと一口、口に運んだ。

その瞬間、彼の翠色の瞳が驚きで大きく見開かれた。


「……! これは……なんと……!」

「どうなさいました、フィン様?」

アルヴィンさんが心配そうに尋ねる。

「……なんと、温かく、力強い味わいだ……。まるで太陽の光そのものを食べているかのようだ。大地の力強い鼓動が、直接、魂に響いてくる……!」


フィン様の言葉を皮切りに、他のエルフたちもおそるおそる私たちのパンを口にし始めた。

次の瞬間、広場のあちこちから驚きと感動の声が次々と上がり始めたのだ。


「美味しい……! こんなに心が満たされる食べ物は、生まれて初めてだ……!」

「この黒いパンはどっしりとしていて、噛めば噛むほど森の木々のような深い味わいがする……!」

「この野菜のパンは、まるで豊かな畑の風景が目に浮かぶようですわ……!」


エルフたちは初めて体験する大地の力強い味わいに、すっかり心を奪われたようだった。

彼らの料理が森の清らかな「静」の恵みだとすれば、私たちのパンは太陽と大地の温かい「動」の恵み。

その違いがかえって新鮮な感動を彼らに与えてくれたのだ。

私は彼らが心から喜んでくれている姿を見て、胸がいっぱいになった。

パンは文化や種族の違いを越えて、人々の心を繋ぐことができる。

そのことを改めて実感した瞬間だった。


夏祭りは夜になると、さらに幻想的な美しさを増していった。

日が完全に沈むと、エララさんの言った通り都中の木々や地面に咲く「星降り草」が一斉に淡い光を放ち始める。

都全体が何百万もの蛍が舞っているかのような、優しくて温かい光に包まれた。

その光景は、この世のものとは思えないほど美しかった。


その幻想的な光の中で、祭りは最高潮を迎えた。

エルフの音楽家たちが奏でるリズミカルな音楽に合わせて、誰もが輪になって踊り始めた。

エルフもドワーフも、獣人も人間もハーフリングも。

そこに種族の垣根はなかった。


「おい、エルフの嬢ちゃん! ドワーフのステップってやつを教えてやろうか!」

ボルギンさんが美しいエルフの女性の手を取り、少しぎこちなく、けれど楽しそうに踊っている。

「きゃはは! エルフのお兄ちゃん、速い速い!」

ハーフリングの子供たちが若いエルフたちと一緒に、光る森の中を楽しそうに駆け回っていた。


私もエララさんに手を引かれて、踊りの輪の中に加わった。

隣ではルゥフさんが少し照れくさそうに、けれど私の手を楽しそうに握って一緒にステップを踏んでくれている。

彼の大きな体がすぐそばにある。

その温かさを感じながら、私は今、最高に幸せだと思った。

異なる文化を持つ者たちが、パンを通じて互いの文化を尊重し合い心を通わせる。

こんなにも平和で、美しくて温かい夜があるなんて。


祭りが終わり静けさを取り戻した都で、私たちはエルフたちが用意してくれた巨木の枝の上にある美しい宿で休むことになった。

部屋のテラスに出ると、眼下にはまだ淡い光を放ち続ける幻想的な都の夜景が広がっていた。

私はその手すりに寄りかかりながら、今日の素晴らしい一日に思いを馳せる。

隣には、いつの間にかルゥフさんが来て、私と同じように静かに夜景を見つめていた。


「素晴らしい、お祭りでしたね」

「……ああ。あんなに楽しそうなボルギンは、初めて見た」

彼の言葉に、私も思わずふふっと笑ってしまった。

ルゥフさんが何かを決意したような真剣な表情で、じっと私を見つめている。

彼の金色の瞳が、都の優しい光を映して静かに揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る