第23話

ホカちゃんの小さなパンが工房の新しい名物になった頃、コリコの町には穏やかな初夏の風が吹き始めていた。

畑の緑は日に日に濃くなり、カフェの窓から見える景色も、生命力に満ち溢れている。

そんなある晴れた日の午後、陽だまりカフェに一人の旅人風の男性が訪れた。

彼は、私が淹れたハーブティーを一口飲むと、懐から一通の美しい手紙を取り出した。

「陽だまりパン工房の、ユイ殿でいらっしゃいますかな?」

「はい、そうですが」

「わたくしは、隣町のセレーネから参りました、伝令の者です。こちらは、我が町のパン職人ギルドの長からの、親書にございます」

彼が差し出した手紙は、水のせせらぎを思わせる、淡い水色の美しい封蝋で閉じられていた。

セレーネ。

その名前は、私も聞いたことがあった。

コリコの町から馬車で数日ほどの距離にある、美しい水路で有名な町だと。

私が封蝋をそっと開くと、中からは流れるような美しい文字で書かれた招待状が現れた。


『陽だまりパン工房 ユイ殿

初夏の候、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

さて、貴殿の焼くパンの素晴らしい評判は、遠く我々の住む水の町セレーネにまで届いております。

そのパンは、食べた者の心と体を癒やす、陽だまりのような温かい力を持っているとか。

つきましては、来月、我々の町で開かれます「パンと水の感謝祭」におきまして、ぜひ、コリコの町のパンと、我々セレーネのパンとの、交換会を催したく、ご招待申し上げる次第です。

異なる文化を持つ我々が、パンを通じて心を通わせることができたなら、これに勝る喜びはございません。

ユイ殿と、コリコの町の皆様のお越しを、セレーネの民一同、心よりお待ちしております。』


なんと、隣町からの、パンの交換会への招待状だった。

私のパンの評判が、他の町にまで届いていたなんて。

驚きと同時に、胸がじんと熱くなるのを感じた。

パンを通じて、新しい人々と出会い、文化を交流する。

なんて素敵なことだろう。


その話は、あっという間に町中に広まった。

カフェに集まった仲間たちは、みんな自分のことのように興奮し、喜んでくれた。

「まあ、すごいわ、ユイさん! 水の町セレーネですって! とても美しい町だって聞いているわ!」

エララさんは、目をきらきらと輝かせている。

「ふむ。セレーネのパン職人か。奴らは、水車を使って、独特の製法で粉を挽くと聞いている。腕利きの職人が多いそうだ。面白いことになってきたじゃないか」

ボルギンさんも、職人としての興味をそそられているようだった。

「これは、コリコの町のパンの素晴らしさを、他の町に示す絶好の機会ですな。ぜひ、お受けすべきですぞ、ユイ殿」

フェンウィック先生も、力強く私の背中を押してくれた。


町のみんなの温かい応援を受けて、私はセレーネからの招待を、喜んでお受けすることにした。

町の代表として、私と一緒にセレーネへ向かうメンバーも、すぐに決まった。

森のことに詳しく、旅の護衛としてもこれ以上ないほど頼もしいルゥフさん。

そして、美しいものが大好きで、他の町の文化にも興味津々なエララさん。

私たち三人が、コリコの町の代表団となった。


旅立ちの日まで、私たちは準備に追われた。

私は、コリコの町の自慢のパンを、セレーネの人々に味わってもらうために、毎日たくさんのパンを焼いた。

私の店の看板商品である「陽だまりロール」。

ボルギンさんお気に入りの、ナッツとドライフルーツがぎっしり詰まった「勇気のライ麦パン」。

そして、春の畑の恵みをふんだんに使った、色とりどりの野菜パン。

どれも、このコリコの町の、太陽と大地の恵みが詰まったパンばかりだ。

「嬢ちゃん、長旅でパンが傷まないように、特製のパン運び用の箱を作ってやったぜ。こいつに入れとけば、何日経っても焼きたての風味が保たれるはずだ」

ボルギンさんが、ドワーフの技術の粋を集めた、頑丈で美しい木箱をプレゼントしてくれた。

その心遣いが、本当に嬉しかった。


そして、いよいよ出発の日。

町の入り口には、見送りのために、たくさんの人々が集まってくれていた。

「ユイさん、気をつけてね! セレーネの素敵な飾り物、お土産に買ってきてちょうだい!」

「ユイ殿、セレーネの歴史書も、もし見つけたら……」

「お姉ちゃんのパンが一番だって、みんなに教えてきてね!」

みんなの温かい声援を背に、私たちはパンをいっぱい積んだ馬車に乗り込み、セレーネへと向かった。

ルゥフさんが手綱を握り、馬車はゆっくりと、緑豊かな丘陵地帯を進んでいく。

初めての、他の町への遠出。

私の胸は、期待と、ほんの少しの緊張でいっぱいだった。


数日後、私たちの目の前に、信じられないほど美しい光景が広がった。

それが、水の町セレーネだった。

町全体に、きらきらと輝く水路が網の目のように張り巡らされ、その上をゴンドラのような優雅な小舟が静かに行き交っている。

建物は、白い石と青い屋根で統一されていて、まるで湖の上に浮かんでいるかのようだ。

そして、町のあちこちで、ゆっくりと回る大きな水車が、心地よい水音を立てていた。

「わあ……! なんて綺麗な町……!」

私とエララさんは、思わず感嘆の声を上げた。

コリコの町の、素朴で温かい雰囲気とはまた違う、洗練された、清らかな美しさが、この町にはあった。


私たちが町の広場に着くと、セレーネのパン職人ギルドの長をはじめ、たくさんの人々が温かく出迎えてくれた。

ギルド長は、恰幅のいい、陽気そうな中年男性だった。

「ようこそ、陽だまりのパン屋さん! あなた方のことを、心待ちにしておりましたぞ!」

その笑顔に、私の緊張もすっかり解けていった。

私たちは、彼らに案内されて、感謝祭で賑わう町を見て回ることになった。

町は、水の恵みに感謝するお祭りの活気に満ち溢れていた。


そして、いよいよパンの交換会が始まった。

広場に設けられた大きなテーブルの上に、コリコのパンと、セレー ネのパンがずらりと並べられる。

セレーネのパンは、私たちの町のパンとは、全く違う魅力を持っていた。

豊富な魚介を使ったパンが、特に目を引いた。

燻製にした魚を練り込んだ、香ばしい香りのパン。

小さな塩漬けのエビが、宝石のように散りばめられた、塩味の効いたフォカッチャ。

そして、水辺で採れるという、緑色の水草を練り込んだ、磯の香りがする不思議なパンもあった。

「すごい……! こんなパン、初めて見ました!」

「へへ、どうですかい。セレーネは、海の幸と湖の幸に恵まれてるんでね。パンにも、その恵みを練り込むのが、我々のやり方なんでさ」

セレーネの職人たちは、日に焼けた顔をほころばせながら、自慢のパンを説明してくれた。

彼らは、漁師からパン職人になった者も多いらしく、そのパンはどれも、力強く、そして海の男らしい、はっきりとした味わいがした。


私たちも、コリコのパンを彼らに味わってもらう。

「おお……! なんて優しい甘さだ! まるで、太陽の光をそのまま食べているようだ!」

「このライ麦パンは、どっしりとしていて、噛むほどに大地の味がする。素晴らしい!」

「この野菜のパンは、まるで畑を丸ごと感じるようですな!」

セレーネの職人たちは、初めて食べる私たちのパンに、驚きと感動の声を上げた。

私たちは、すぐにお互いのパンの虜になり、夢中になって試食し合い、感想を語り合った。

パン作りという共通の言葉があれば、初めて会った者同士でも、すぐに心を通わせることができる。

私は、そのことが嬉しくて仕方がなかった。


私たちは、お互いのレシピを教え合い、それぞれの町の文化について語り合った。

セレーネでは、水車でゆっくりと時間をかけて石臼を回し、熱を発生させずに粉を挽くのだという。

そうすることで、小麦本来の香りを最大限に引き出すそうだ。

その繊細な技術に、私は深く感銘を受けた。


交換会が、最高の盛り上がりを見せた頃、祭りのメインイベントが始まることが告げられた。

それは、コリコの町の職人と、セレーネの町の職人が協力して、一つの大きな友好のパンを焼き上げる、というものだった。

「さあ、ユイ殿! あなたのその不思議な力と、我々の町の恵みを、一つに合わせようじゃありませんか!」

ギルド長のその言葉に、広場は大きな歓声に包まれた。

大きなこね鉢が用意される。

コリコの町からは、私が持ってきた最高の「ささやき小麦」の粉を。

そしてセレーネの町からは、町で最も清らかだとされる「聖なる泉」から汲んできたばかりの、清らかな水が注がれた。


私と、セレーネの職人たちが、こね鉢を囲む。

言葉は交わさなくても、パン職人同士、次に何をすべきかは、お互いの目を見るだけでわかった。

私たちは、息を合わせて、ゆっくりと生地をこね始める。

小麦の力強い感触と、水の清らかな感触が、手の中で一つになっていく。

「それにしても、見事な手つきだ。あんたの手は、まるで生地と会話しているようだぜ」

隣で生地をこねていた、若い漁師上がりの職人さんが、感心したように言った。

「あなたこそ。その腕の筋肉、パンをこねるためだけにあるみたいですね」

私がそう言って笑うと、彼も「へへ、漁で鍛えたからな!」と照れくさそうに笑った。

作業は、笑い声と、パン生地を叩くリズミカルな音に包まれて、楽しく進んでいった。

生地が、最高の状態にまとまった時、私は仕上げに、そっと両手をかざした。

「二つの町の恵みが、優しく結ばれますように」

祈りを込めて、生命魔法を注ぎ込む。

私の手のひらから放たれた金色の光が、生地の中へと吸い込まれていく。

すると、生地は、大地の力強さを象徴する黄金色の輝きと、水の清らかさを象G徴する淡い青色の輝き、その両方を宿した、不思議な光を放ち始めた。


その生地を、セレーネの職人たちが自慢の石窯で、丁寧に焼き上げていく。

焼き上がったパンは、これまでに誰も見たことがないほど、美しく、そして大きく膨らんでいた。

パンからは、小麦の香ばしい匂いと、水の清らかな匂いが混じり合った、素晴らしい香りが立ち上っていた。

そのパンは、ギルド長によって切り分けられ、祭りに集まった両町の住民、一人一人に配られた。

パンを一口食べた人々から、次々と感動の声が上がる。

「うまい……! 小麦の力強い味と、水の優しい味が、口の中で一つになっている!」

「なんだか、心が洗われるような、清らかな味がするわ……」

そのパンは、二つの町の友好の証として、誰もが認める最高の味わいだった。


パン交換会は、大成功のうちに幕を閉じた。

私たちは、セレーネの職人たちと固い握手を交わし、これからも定期的にお互いの町を訪れ、交流を続けていくことを約束した。

お土産として、セレーネでしか採れない特別な塩や、水辺の酵母をたくさんいただいた。

これらの材料を使えば、また新しいパンが焼けるだろう。

帰り道、馬車に揺られながら、私はセレーネの町での素晴らしい出会いに思いを馳せていた。

パンは、ただお腹を満たすだけじゃない。

人と人を繋ぎ、文化と文化を結びつける、温かい力を持っている。

そのことを、改めて実感した旅だった。


「ユイ、疲れたか?」

隣に座るルゥフさんが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

彼の金色の瞳は、夕焼けの光を浴びて、いつも以上に優しく輝いている。

「いえ、大丈夫です。すごく、楽しかったですから」

私がそう言って微笑むと、彼も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

馬車は、懐かしいコリコの町の匂いがする方へ、ゆっくりと進んでいく。

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