第21話

茂みから姿を現したのは、まるで夜空に浮かぶ雲をそのまま切り取ってきたかのような生き物だった。

子羊くらいの大きさで、全身が真っ白でふわふわの毛で覆われている。

その毛はただ白いだけでなく、月の光を浴びて真珠のように淡く輝いていた。

その生き物はか細い声で「めぇ……」と鳴くと、不安そうに周りを見回している。


「これは……」


私はそのあまりの可愛らしさに息を飲んだ。

ルゥフさんは警戒を解かず、しかし敵意がないことを示すようにゆっくりとその生き物に近づいていく。


「怪我は、していないようだな」


生き物は大きなルゥフさんの姿に少し怯えたようだったが、彼の穏やかな気配を感じ取ったのか、その場から逃げようとはしなかった。

その時、後片付けを終えて丘を下りていたフェンウィック先生が、私たちの様子に気づいて戻ってきた。


「おお、これは……!なんということでしょう!」

先生はその生き物を見るなり、驚きと興奮で目を大きく見開いた。


「先生、この子はいったい……?」

「間違いありません。これは、空に浮かぶ島『天空の牧場』に住むという、伝説の『雲ひつじ』ですぞ!古い文献でしか見たことがありませんでしたが、まさか実物にお目にかかれるとは……!」


雲ひつじ。空に浮かぶ島。

まるでおとぎ話のような言葉に、私は目をぱちくりさせた。


「伝説によると、雲ひつじは空に浮かぶ特別な雲を食べて生きていると言われています。おそらく、この子は群れからはぐれてしまい、地上に迷い込んでしまったのでしょう」


先生の言う通り、雲ひつじはどこか元気がなくしょんぼりしているように見えた。

ふわふわの毛も少しだけ輝きを失っているようだ。


「めぇ……きゅう……」


雲ひつじは力なくそう鳴くと、その場にぺたんと座り込んでしまった。

お腹が、くぅ、と小さく鳴るのが聞こえる。お腹が空いているらしい。


「大変だわ。この子、何か食べさせてあげないと」


私は慌ててピクニックの残りのパンを差し出してみた。

けれど雲ひつじは匂いを嗅いだだけで、ぷいっと顔を背けてしまう。

地上の食べ物は口に合わないようだった。


「困りましたな。文献によれば、雲ひつじは『空の草』と呼ばれる特別な植物しか口にしないとあります。この地上でそれを見つけるのは……」


フェンウィック先生が困り果てたように腕を組む。

このままでは、この可愛い雲ひつじは弱っていってしまうだろう。

なんとかしてあげたい。

そう思った時、私は隣にいる頼もしい相棒の顔を見上げた。


「ルゥフさん。森の中に、この子が食べられそうなもの、何かありませんか?」


私の問いに、ルゥフさんはしばらくじっと雲ひつじを観察していた。

そして、そのふわふわの毛から漂う微かな香りを嗅ぎ分けるように、鼻をひくつかせた。


「……空の草、か。それに近いものなら心当たりがある」

「本当ですか、ルゥフ殿!」

「ああ。森の奥深く、霧が深く立ち込める谷にだけ自生している『空見草』という植物だ。雲のような、少し甘い香りがする。もしかしたら、あいつの口に合うかもしれん」

「ルゥフさん、お願いします!その草を採ってきてはいただけませんか?」

「わかった。すぐに戻る」


ルゥフさんはそれだけ言うと、あっという間に夜の森の中へと駆け込んでいった。

その速さはまるで風のようだった。


「さあ、ユイ殿。我々もあの子を温かい場所へ運んであげましょう」


私とフェンウィック先生は弱っている雲ひつじをそっと抱き上げ、陽だまりカフェの中へと運んだ。

雲ひつじの体は見た目以上に軽く、そして驚くほど温かかった。

カフェの暖炉の前に毛布を敷いて寝かせると、雲ひつじは少しだけ安心したのか小さな寝息を立て始めた。


しばらくして、ルゥフさんが息一つ切らさずに戻ってきた。

その手には朝霧に濡れたような、淡い青緑色の葉を持つ植物が握られている。

それが空見草らしかった。葉からは彼の言った通り、ほんのりと甘くどこか懐かしいような雲の香りがした。


「ありがとうございます、ルゥフさん!」


けれど雲ひつじはまだ眠っている。それにただ草を与えるだけでは、弱った体には負担が大きいかもしれない。

私はこの空見草を使い、雲ひつじのための特別なパンを焼くことにした。

消化が良くて栄養があり、雲のように白くて柔らかいパン。

私は工房へ向かうと、早速パン作りに取り掛かった。


まず、空見草を丁寧にすり潰してペースト状にする。

それから一番上質な小麦粉と、栄養豊富なヤギのミルクをたっぷりと使って生地をこね始めた。

水を一切使わずミルクだけでこねることで、雲のように白くしっとりと柔らかい生地になるはずだ。


「美味しくなあれ。これを食べて、早く元気になってね」


私は雲ひつじのことを思い浮かべながら、生地にたっぷりと生命魔法を注ぎ込んだ。

手のひらから放たれた金色の光が、白い生地の中へと優しく染み込んでいく。

生地は私の魔法に応えるように、ふっくらと生き生きと膨らんでいった。


焼き上がったパンは私の思った通り、まるでちぎり雲のように真っ白でふわふわだった。

パンからはミルクの甘い香りと、空見草の爽やかな香りが混じり合った優しい匂いが立ち上っている。

私はそのパンを小さくちぎり、目を覚ました雲ひつじの口元へとそっと運んだ。


雲ひつじは最初警戒していたが、パンから漂う故郷の香りに気づいたのか、くんくんと鼻を鳴らし始めた。

そして、おそるおそる小さな口でパンを一口。

その瞬間、奇跡が起こった。

パンを食べた雲ひつじの体が、内側から淡い光を放ち始めたのだ。

輝きを失っていた毛が、みるみるうちに真珠のような輝きを取り戻していく。

しょんぼりとしていた瞳にも、生き生きとした光が戻ってきた。


「めぇ!」


雲ひつじは元気な声で鳴くと、夢中になってパンを食べ始めた。

その姿は見ていて本当に嬉しくなるほどだった。

すっかり元気を取り戻した雲ひつじは、それからというもの私の後をどこへでもついて回るようになった。

まるで私を親だと思っているかのようだ。

カフェの中をふわふわと歩き回る姿は、お客さんたちの間でもすぐに人気者になった。


「まあ、可愛い!」

「本当に雲みたいにふわふわね!」


ハーフリングの子供たちはその子に「モコちゃん」と名前をつけ、毎日会いに来てくれる。

けれど、このままモコちゃんを地上で飼い続けるわけにはいかない。

いつまでも空の家族と離れ離れにしておくのは可哀想だ。


「なんとかして、モコちゃんを空の群れに返してあげられないかしら」


カフェのテーブルで、私とエララさん、そしてルゥフさんが集まって話し合った。


「空へ、返す……。いっそ大きな鳥にでも頼んで運んでもらうというのはどうだろう?」

「いいえ、エララさん。雲ひつじはとても臆病な生き物です。見知らぬ鳥に運ばせたら、きっと怖がってしまいますわ」


私たちの会話を聞いていたリリアさんが、優しく首を横に振った。

彼女もモコちゃんのことを心配して、様子を見に来てくれていたのだ。


「何か、もっと穏やかで優しい方法はないものかしら……」


みんなが頭を悩ませていた、その時だった。

店の外から「任せとけ!」と元気な声が聞こえた。

ずかずかとカフェに入ってきたのは、腕を組んだボルギンさんだった。


「空に飛ばす、だと?面白いじゃねえか。鳥の巣よりも軽くて、ゆりかごよりも頑丈な、最高の籠を作ってやる!ドワーフの技術をなめるなよ!」

「まあ、素敵!それなら、モコちゃんが長旅で不安にならないように、私が心を落ち着かせる香りの花でその籠をいっぱいにしてあげるわ!」

エララさんもぱっと顔を輝かせた。


「それなら、僕は風船をいーっぱい集めてくるよ!たくさんあれば、モコちゃんを乗せた籠だってきっと空まで飛んでいけるはずだ!」

ハーフリングのピップくんが胸を張ってそう言った。


「僕たちも手伝う!」

「町中の風船、集めてこよう!」

ポップくんとペップくんも元気よくそれに続いた。


みんなの知恵と力が、モコちゃんのために一つになっていく。

私は、モコちゃんが旅の途中で食べられるように、あの特別な雲パンをたくさん焼くことにした。

そしてモコちゃんの家族に宛てて、『迷子のモコちゃんを保護しました。とても元気です。どうか、心配なさらないでください』と短い手紙を書く。


数日後、すべての準備が整った。

町の広場には、モコちゃんを見送るためにたくさんの人々が集まっている。

広場の中央にはボルギンさんが作ってくれた、柳で編まれた軽くて美しい籠が置かれていた。

籠の中にはエララさんが飾ってくれた色とりどりの花が敷き詰められ、私の焼いたパンと手紙が添えられている。


モコちゃんは私と離れるのが名残惜しいのか、足元にすり寄って離れようとしない。

そのふわふわの頭を撫でながら、私は優しく語りかけた。


「大丈夫よ、モコちゃん。もうすぐ、お父さんやお母さんに会えるからね。またいつか、遊びに来てね」


私の言葉がわかったのか、モコちゃんは一度だけ「めぇ」と鳴くと、意を決したように籠の中へとぴょんと飛び乗った。

そしてハーフリングの子供たちが町中から集めてきてくれた、何十個もの色とりどりの風船が籠にくくりつけられていく。

風船は早く空へ行きたそうに、ふわりふわりと揺れていた。


「みんな、手を離して!」


ボルギンさんの合図で、子供たちが一斉に風船の紐を手放した。

籠はみんなの願いを乗せて、ゆっくりと優しく空へと昇っていく。


「モコちゃん、元気でねー!」

「さようならー!」


町のみんなが空に向かって大きく手を振った。

籠の中のモコちゃんも、私たちに応えるように小さく一声鳴いた。

その姿が青い空に吸い込まれて、やがて小さな点になるまで、私たちはいつまでも見送っていた。


モコちゃんを空へ返してから数日が経った。

カフェはいつもの賑わいを取り戻していたが、私の心にはぽっかりと穴が空いたような寂しさがあった。

そんな穏やかな午後のことだった。

空がにわかにかき曇り、町の上に大きな影が差した。


「なんだろう?」


お客さんたちと一緒に店の外へ出てみると、空には巨大な雲の塊が浮かんでいた。

それはたくさんの雲ひつじたちが集まってできた、大きな群れだった。

その群れの中心には、一際大きな立派な角を持つ雲ひつじがいる。おそらくモコちゃんのお父さんだろう。


「めぇー!」


群れの中から、聞き覚えのある元気な声が聞こえた。

モコちゃんが、家族の元へ無事に帰り着いたのだ。

すると、空に浮かぶ群れからきらきらと光る雪のようなものが、ひらひらと舞い降りてきた。

それはただの雪ではない。一つ一つが信じられないほど軽く、温かい極上の綿だった。


「これは……雲の綿じゃ!」


フェンウィック先生が感嘆の声を上げた。

モコちゃんの家族が、私たちへのお礼として自分たちの毛を少しずつ分け与えてくれたらしかった。

町の人々は空からの素敵な贈り物に歓声を上げた。

その雲の綿はどんな布よりも軽くて温かく、最高の素材だった。


私の元にも、一番たくさんの雲の綿が届けられた。

そのふわふわの綿を手に取ると、モコちゃんの温もりと感謝の気持ちが伝わってくるようだ。

私はこの雲の綿で、パンの発酵に使う特別な布を作ろうと思った。

この布で包めば、どんなパン生地もきっと雲のように柔らかく優しく育ってくれるだろう。


空を見上げると、雲ひつじの群れは感謝を告げるように一度だけ大きく鳴き、ゆっくりと空の彼方へと去っていった。

ルゥフさんが私の隣に来て、同じ空を見上げている。

私は彼の大きな手に、そっと自分の手を重ねた。

彼が優しく握り返してくれる。ただそれだけで、心が満たされた。

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